94 フリードの願い3
「母上。お話があります」学院から帰って馬車を降りるとすぐ、玄関ポーチまで迎えに出て来てくれたマーサにフリードは言った。
息子が久しぶりに自分に真剣な話をしようとする姿に、マーサは喜びを感じながらも平静を装って「良いわよ。でもまずは、荷物を置いて着替えてからね」と答えた。
「はい」と返事をして足早に自分の部屋へ向かうフリードの後ろ姿を見送り、マーサは居間にお茶の用意をしてくれる様、メイドへ言いつけた。
昨年から、カラバン子爵家では顕著な変化が起きていた。
その筆頭は、レジナルドが倒れ、寝たきりに近い状態になった事だった。フリードが学院に入学して二、三年は、レジナルドは相変わらず壮健で、シャーロットの閨の負担を減らす為にフリードが食後に話し相手を務める程だった。しかしある夜、レジナルドは深酒をしてフランクに対して激しく怒り、怒鳴り散らした挙句、ばったりと倒れてしまったのだ。
レジナルドを診察した医師は「おそらく酒を飲んで血の巡りが良くなっていたところに、怒りのせいで更に血圧が上がり、頭の中で血管が切れたのでしょう」と所見を述べた。
「元通りにはっきりした思考は望めないと思います。身体にはマヒが残っているので、支えればトイレ位は行けるでしょうが、今までの様に自分の足で歩いてどこかへ行くのは難しいでしょう。食事はスープや柔らかく茹でですりつぶしたものにして、少しずつ与える様にして下さい。また、寝たきりにならない様、出来るだけ身体を動かしてあげて、床ずれが出来ない様に注意してください」
医師の言葉通りレジナルドは、自分だけで立って歩くのは難しくなり、言葉もうまく話せなくなった。そして寝たきりにならない様にという医師の注意も虚しく、一日の大半は眠って過ごす、大人しい老人になった。
それに伴ってシャーロットの仕事は、レジナルドの介護が主なものになった。
通いのメイドしかいないカラバン子爵邸では、それはマーサにとって本当に助かって有難い事だったので、代わりに今まで二人でしていた朝食作りと給仕はマーサが一人で行う事にした。
メイドが帰ってから出勤してくるまでの時間、夜から朝にかけてシャーロットはレジナルドの世話をしなければならない。そのシャーロットの負担を出来るだけ減らし、休ませてあげようと考えたのだった。
(昔はイブリンの閨の負担を減らす為に私が朝食作りを引き受けたものだったけれど、今は寝たきりのお義父様の介護の負担を考える様になったのね)
イブリンとの日々を思い出しながら、マーサは時間の流れを思った。
そしてもう一つの変化は、レジナルドが寝たきりになって、フランクが変わった事だった。彼は今まで、常にレジナルドの顔色を窺い従順で、自分の意思を持たず、意思があるにしても表さずに生きていた。
いつまで経っても家督を譲られず、同年代の者が皆当主になっていっても、自分は‘’子爵家子息‘’という立場のまま、レジナルドの支配下に甘んじていた。
それが今遂にレジナルドという重石が取れ、自分を咎め、打ち据える者がいなくなったと実感するにつれて、押し殺してきた怒りや欲望が表に出て爆発したのだ。
マーサは最初フランクの変化を、無理もない事だと思っていた。
マーサは結婚以来フランクから与えられた‘’躾け‘’や、浴びせられた心無い言葉の数々のせいで、既に彼への愛情や同情心は微塵も残ってはいなかった。
それでもフランクが、レジナルドから過酷な責め苦を与えられて育ったのは分かっていたので、彼の長年の抑圧を考えれば多少の横暴な振る舞いは仕方ないと考えていた。
しかし、フランクの横暴は多少では済まなかった。
彼は数十年の恨みを全て晴らそうとするかのように、まずはレジナルドをほとんど日の差さない、薄暗くて寒い北側の小部屋へ移した。
そしてレジナルドを追い出して手に入れた当主の部屋を自分が使う際、レジナルドが集めて大事にしていた高価な家具を全て売り払い、自分の選んだ新しい物に入れ替えた。
マーサが『お義父様の集めた家具は、新しい部屋に入る分は移してあげて、後は納戸に置いておけば良いじゃありませんか。あれはとても良い物でしょう。二束三文で売り払うのは勿体無いですよ』と言うと、フランクは一瞬で目を血走らせ、久しぶりにマーサを打ち据えた。
床に倒れたマーサはフランクから『俺があのテーブルに、何度頭を打ち付けられたか分かるか』と言い放たれ、レジナルドの持ち物についてフランクに意見するのを止めた。
レジナルドの移された小部屋には、彼が長年使って傷の付いた古い机や、フリードの小さい頃の肖像画など、売り払う事も出来ず、フランクに必要無い物だけが運ばれた。
フランクはシャーロットをも義父と離縁させ、再度どこかに売り払おうとしていたのだが、これにはマーサも断固として口を出した。
『彼女がいなくなると、お義父様の世話をするのに夜間のメイドか看護師を雇わなければなりません。そうなったらうんとお金がかかりますし、お義父様をあんな部屋に住まわせている事が、外に漏れるかも知れませんよ』
そう言われたフランクは、渋々父の介護人として彼女を残す事に同意した。
マーサはレジナルドが亡くなったら、何としてもすぐに、シャーロットをこの家から解放する事を内心で誓った。
フランクにしてみれば、本当はマーサともすぐに離縁し、レジナルドのしていた様に新しく若い妻を買いたかった。
しかしこの頃のマーサは、フランクとレジナルドの家の仕事をかなり負担する様になっていた。その為レジナルドが倒れた後、自分だけにかかってくる仕事量を考えると、フランクには彼女を手放す事が出来なかった。
マーサは自分とカラバン子爵家にとって利用価値があると考えたフランクは、仕方なく彼女を変わらず妻として遇した。
マーサにはフランクの考えが分かっていたので、上手く理由をつけて少しずつ二人の仕事を分担していた事が功を奏したと安堵した。
元々マーサは、フリードが学院を卒業したら自分が当主の仕事を教えてやらなければと思い、少しずつ仕事内容を学ぼうとしていたのだ。
フランクはマーサを妻にしておいてやる代わりと言わんばかりに、自分は貴族相手の高級な娼館に通い始め、タガが外れて遊び歩いていた。
周囲の貴族達に、いい年をした‘’子爵令息‘’が今さら娼館遊びかと馬鹿にされているのも知らずに、フランクは今日も途中で仕事を放り出し、最近気に入りの娼婦がいる店に出かけていた。
フランクのいない事を幸いに、マーサはフリードと二人、居間でメイドの淹れてくれたお茶を前に落ち着いて話を始められた。
「それでフリード、話って何かしら」
久しぶりに二人きりで話す息子は十五歳を迎える頃から急に大人びて、母親に何もかもを話す事は無くなっていた。
最初は心配したり寂しがったりしたマーサも、今はフリードの話の端々から良い友達が出来たのだと分かって、少し離れた所で見守るようになった。
「母上。僕、結婚を申し込みたい人がいるんです」
マーサは大抵の事には驚かないつもりでいたが、フリードの発した言葉を聞き、内心で飛び上がって驚いた。
まず、しっかりはしてきたがまだ子どもだと思っていた息子に、結婚したい人が現れた驚き、そしてカラバン子爵家への逆風を実感しているフリードがこう言い出すなら、この家でも大丈夫と思える相手が存在するのだという驚きだった。
「結婚したい人。ずい分急な話だけど、その方は学院で知り合った方なのかしら」マーサが落ち着きを装って尋ねると、フリードの顔に赤みがさした。
(あら)マーサはそんなフリードの様子に、その相手はカラバン子爵家からの申し込みを受けてくれる可能性があるというだけでなく、息子が恋をしている相手だと悟った。
「はい。学院で知り合った、僕の一つ上の女性です。名前はローズ・アマンド。アマンド男爵家の令嬢です。アマンド男爵家の悪い評判は、母上もご存知かもしれません。だけど、彼女自身はとても心の綺麗な人です。僕は彼女を幸せにしたいと思っています」
フリードは、まっすぐにマーサの目を見て言い切った。
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