91 恋心
「あ」向かい側の席から声が聞こえ、ローズは食べていたパンを置いて顔を上げた。
ローズはアマンド男爵家でランチボックスなど作ってもらえるはずも無く、昼食をカフェテリアで食べるお金も無いので、いつも前の日に閉店間際のパン屋に行き、一番安いパンが売れ残って更に安くなっているのを二個買って翌日の昼食にしていた。
パン屋のおかみさんは、毎日閉店間際に来ては底値のパンを買うローズの顔を、すぐに覚えた。ある日ローズがいつも買う一番安いパンが良く売れて、閉店の少し前に売り切れになった事があった。おかみさんはそのパンの並んでいた棚を片付ける時、いつもなら嬉しくて笑みがこぼれるはずなのに、何となく浮かない気分でいる自分に気づいた。
(あの子、今日も来るかしら。パンが無かったらどうするだろう)
今日は来ないで欲しいと思っていたが、いつもの様に閉店間際にローズは店に現れた。そしてパンの棚が片付いているのに気づき悲しそうな表情を浮かべるのを、おかみさんは見てしまった。
「すみませんね。そのパン、今日は売り切れなんです。他のパンならまだあって、もうすぐ閉店だから安くしますよ」思わず声をかけたが、ローズは「ありがとうございます。でもあまり持ち合わせがないので、今日は帰ります」と答えて、本当に何も買わずに帰って行った。
おかみさんはローズの痩せた後ろ姿が目に焼き付いて、その日は余り良く眠れず、翌朝夫にこぼした。
「ねえ、あんた。パンが全部売れたのに、悲しい気持ちがする日が来るなんて、私は夢にも思わなかったよ」
おかみさんから、毎日安いパンを買いに来る少女の話を聞いていた夫は「それなら、その子の為に最初から取っといてやれば良いよ。いつかその子が来なくなるまで、そうしてやりな」と答えた。
「ああ、そうか。そうだね。あの子の為に取っといてやろう」
それからローズがパンを買いに来た時、パンが残っていない事は一度も無く、おかみさんも安心して良く眠れるようになった。ローズはそんな事は何一つ知らないで、学院にいる間中そのパンで昼食を済ませた。
フリードと同じくローズも学院入学当初から、アマンド男爵家という事で友達が出来なかった。唯一親しく付き合ったマーガレットが卒業した後は、学院に知り合いの一人もいなかったので、昼食はいつも図書室のこのスペースか、裏庭の日の当たりが悪く人気のないベンチで食べていた。
今日は読みたい本があり図書室に来たのだが、先客として男子生徒が一人いて食事をしている事に気がついた。人がいるなら今から庭に移ろうかとも思ったが、男子生徒は本を読みながら食事を取っていて、ローズの方は見ようともしない。
それならここでさっと食べて、食べ終わったら別な席に移り、読みたかった刺繍の図案の本を読もうと決め、ローズも座って食事を始めた。
しばらくして「あ」という声に目を上げると、テーブルの上を林檎が転がって自分の方へ向かって来ていた。
男子生徒が、お昼に持って来た林檎を転がしてしまったのね。
そう見て取ったローズは、床に落ちる前にさっと手を伸ばし、林檎を掴んだ。
掴んでから「はい、これ。あなたのでしょう」と差し出すと、彼は口の中で何かモゴモゴと返事をした。
「ごめんなさい。良く聞こえないのだけど」ローズが聞き返すと「僕、急用を思い出して。もう食べている時間が無いんだ。それは良かったら君が食べて欲しい」と言って荷物をまとめて立ち上がり、すぐに出て行ってしまった。
「あの、でも、林檎なら持って帰ったら」
引き留めようとしたが間に合わず、ローズの手には一個の林檎が残された。林檎は真っ赤に熟れていて、顔を近づけると良い香りがした。
「じゃあ、有難く頂こうかな」
林檎の表面をハンカチで良く拭いてから一口かじると、甘酸っぱい味が口中に広がった。
「美味しい」思わず声に出し、久しぶりに食べた自然な甘さにローズは夢中で舌鼓を打った。ほんの少しだけ芯を残して全て食べ切って、パンの入っていた紙袋に入れてゴミ箱に捨てると、ローズはさっきの男子生徒に心の中で感謝した。
(黒髪で黒い目の人だったな。見た事が無いから、違う学年だと思うけど。今度会えたらお礼を言おう)
(彼女と話をしてしまった。声もすごく綺麗だった)
うまくローズに林檎を上げたフリードは、爆発しそうな心臓を抱えて、急ぎ足で廊下を歩いていた。恋に落ちてすぐに諦めたとはいえ、彼にとって初恋と言える相手と話が出来て、自分を美しい青い瞳に映して貰えた事は、十六歳のフリードに今まで感じた事の無い喜びを与えた。
(あの人は、何年生なんだろう。少なくとも僕と同じ四年にはいなかった。どうせ実らない恋だけど、好きでいるのは自由だもんな。また図書室に食事に行けば、彼女に会えるかな)
その日フリードは一日中ローズの事を考え、浮足だって勉強に身が入らなかった。
翌日、昨日は家の用事で休んでいたレオンが登校して、昼休みいつもの様にフリードをカフェテリアに誘った。
「悪い。僕、ランチボックスを持って来てるんだ。これからしばらくそうしようと思ってる」フリードが断ると、レオンは意外そうに眉を上げた。
「へえ。フリードは、カフェテリアの方が温かいものが食べられて良いと言ってたじゃないか。どうしてランチボックスを持って来ることにしたんだよ」
「いや。実は読みたい本が図書室にあるんだ。借りて帰るのが面倒だから、ランチを食べながら読もうと思ってさ」
フリードの作った適当な理由に、レオンは納得してうなずいた。
「なるほど。フリードは本当に真面目だな。俺は食事中にまで、本なんて読みたくないや。じゃあその本を読み終わったら、また一緒にカフェテリアに行こう」
「うん。ありがとう」
レオンは元々友達の多い男で、フリードがいなくても一緒に昼食を取る相手には困らない。フリードはそれを知っているので、気兼ねなく彼の昼食の誘いを断る事が出来た。
(レオンとは二年になって同じクラスになって、最初は皆と同じく僕を避けていたっけ。だけど学年の後半になった時、突然話しかけて来てくれた)
『君、フリード・カラバンだよな。俺は同じクラスのレオン・ミラーだ。良かったら、魔法演習で一緒に組まないか。俺は火魔法が得意で、君は風だろう?魔法の相性が良いから、色々試してみたいと思って』
いつもの様にグループ分けで一人になっているフリードを、シャーロットの異母弟ダニエルが気にして声をかけてくれたが、ダニエルの魔法は土で風とはあまり相性が良くない。二人で組んでもダニエルには良い事がないだろうと、フリードが礼を言って断った後、レオンが誘ってきたのだ。
『僕は火魔法と組めるなら嬉しいけど、君の方は僕と組んでも良いの?』
決して卑屈な気持ちで無く、フリードが単純に彼の立場を心配して尋ねると、レオンはバツの悪そうな顔になった。彼は今までフリードを避け、挨拶されても返しもしなかった自覚があるので、暗にどういう風の吹き回しだと言われたと思った様だった。
レオンが罪悪感の滲んだ顔をしているのに気づいて、フリードはもう少し詳しく言い直した。
『君を責めたり、嫌味を言った訳じゃ無い。ただ僕と関わる事で、君の家や両親に不利益が及ぶなら、組むのは遠慮するっていう意味で言ったんだよ』
それを聞いたレオンは、真剣な顔になった。
『俺も、家の事も大丈夫だ。今まで挨拶すら返さなくて済まなかった。俺は君の悪い噂を信じて、君を軽蔑していた。だが今年同じクラスになって半年間君の事を見ていたら、そんな噂を信じた自分が馬鹿だったと分かった。君は周りにどう思われようと、一人で黙って努力を続けていた。だから俺は、君と友達になりたい。もし嫌じゃ無ければ俺と組んでくれないか』
(あんなに真っ直ぐ、僕を認めてくれる言葉を言ってくれたのは、レオンが初めてだった。母上に言われた通り、自分の心が正しく在る様に守ってきて良かったと思ったんだ。それからレオンと付き合う僕を見て、少しずつ他の友達も出来た。
…カラバン家に生まれた僕には恋が実る見込みも無いけど、彼女にまた会えたらレオンに話を聞いてもらおう)
フリードはそんな事を思いながら、早足で図書室へ向かった。
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