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いつかあなたを  作者: Jun
悪の作る世界

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86 告げられない真実

 レジナルドの新しい妻がまだ迎えられない間に、乳母のミシェルはフリードが五歳を迎えるにあたり職を解かれ、実家に帰る事が決まった。

「ミシェル、元気でね。今までありがとう。フリードも、ほらさよならをして」

 自分のスカートの裏に隠れて泣きじゃくるフリードに、マーサは声をかけた。

「ミシェル。行かないで。僕、ずっと一緒にいたいよ」


 フリードの言葉にミシェルも涙をこぼし、彼の手を取った。乳を飲んでいた赤子の頃からずっと繋いでいたその手を、ミシェルは最後に大切に握った。

「坊ちゃま。ミシェルは、お邸を出ても坊ちゃまを決して忘れません。坊ちゃまが大きくなって、もしミシェルを忘れていなかったら、どうかお手紙を下さいね」

「僕、忘れない。お勉強して、手紙を書くよ」フリードが約束すると、ミシェルは優しく彼を抱きしめた。


 フリードをマーサの手に返してから、ミシェルはマーサに向き直った。

「私はあの時の奥様からのお願いを果たし、乳母の仕事を終えて外の世界に戻ります。だから、私からも奥様に一つお願いさせてください。奥様がこれから女神様となさった約束を果たしたら、その時こそ、どうぞご自分の幸せを考えて下さい。私は奥様もフリード坊ちゃまも決して忘れませんし、私に出来る事があれば、いつでもおっしゃってください」

「ありがとう。ミシェル。私も手紙を書くわ」

 マーサとフリードはいつまでも門の所に立って、去って行くミシェルを見送っていた。


 数か月後マーサは、実家に帰ったミシェルから手紙を受け取った。乳母の給金を貯めた金を元手に、小さい雑貨店を開いたという報告だった。


『奥様、フリード坊ちゃまお元気にしていらっしゃいますか。


 私はお陰様で、元気に過ごしております。実は先日、子爵家で貯めたお金で、街に小さな店を持つ事が出来ました。ポーチやハンカチなど小物を売る雑貨店です。

 坊ちゃまのお世話をしている時、奥様はいつも刺繍や編み物をなさっていて、私にも色々教えて下さいましたね。


 私は最初全然上手く出来ませんでしたが、奥様が諦めず根気強く教えて下さり、とても有難かったです。あの時間が、今こうして実を結びました

 店は二階建ての古い建物で、一階が店舗、二階が住居になります。

 もしも奥様がこの街にいらっしゃる事がありましたら、是非お立ち寄りください。フリード坊ちゃまにもお会いできる日が来るのを、祈っております。


 ミシェル」


 マーサは手紙を読み終え、久しぶりに心からの笑みを浮かべた。

 カラバン子爵家の思い出は嫌な事ばかりだったろうに、ミシェルが今後の人生を少しでも潤せたと言ってくれるのなら、こんなに嬉しい事は無かった。罪悪感ばかりが降り積もる自分の人生を、まだ頑張っていける勇気が持てた。

(きっとミシェルは本気で、私の居場所を作ろうとしてくれているのね)


 それはミシェルがここに残ると決心してから、二年が過ぎた頃だった。彼女はマーサを、思い詰めた顔で問い質した。

『奥様はあの時、生き残って約束を果たすとおっしゃいましたが、約束を果たされた後はどうなさるのですか。フリード坊ちゃまと、この子爵家を支えられるのですか』

 マーサは一瞬黙ったが『そうね。もし私がフリードの邪魔で無ければ、そうしようかしら。フリードが結婚して奥方と二人で頑張るのなら、私は実家の領地の隅にでも引っ込むわ』と答えた。

 その顔をじっと見ていたミシェルは『奥様には罪は無いんですよ。何も知らず嫁いできた奥様は、巻き込まれただけです。ご自分が私におっしゃったように、今の私たちには何も出来ません。それを奥様は分かってらっしゃるから、今は口をつぐみ、目を閉じておられるんですよね』


『そうね。それは理解しているわ。だから、私の事を心配する事は無いの。大丈夫』

 笑ってみせるマーサに、ミシェルは『私が乳母を辞めた後、奥様をお迎えできる場所を作ってお待ちします。だから、決して早まった事をなさらないで下さい』と頼んできた。

『分かったわ。大丈夫よ。私を迎えてくれる場所、楽しみにしているわね』

『絶対ですよ。忘れないで下さい』


 マーサは、イブリンが亡くなり自分の罪を自覚したあの日、すぐさまこの家と刺し違えるのではなく、妻達を解放するという目的を達成出来るまでは生き残る決心をした。

 同時に、目的を達成する為に自分の命が必要なら、その時は命を捧げ様と決めた。

 その覚悟を持つ事だけが、これから先カルバン子爵家で行われる非道を見逃し、自分は安全地帯で生きる償いだと思った。

 そう思い決めなければ、マーサの良心はマーサが何事も無かった様に生きる事を、許してはくれなかった。


 だからミシェルの申し出も雑貨店の連絡も嬉しかったが、今さらそれに応える気は持たなかった。

 マーサはこれまで通りレジナルドの妻達とは個人的な接触をせず、見て見ぬふりを貫いて、フリードの教育にだけ注意を払った。


 思いがけない事に、レジナルドは年をとったせいか孫には甘く、苛烈で専横的な面をフリードには見せなかった。

 フランクは、自分が施された教育に比べて甘やかされるフリードに気づき、時折憎しみの目を向ける様になっていた。

 フランク自身が気づいていないその感情にいち早く気づいたマーサは、出来るだけフランクとフリードを関わらせない様に努め始めた。

(あの人の残虐性を、フリードに向けさせない様にしなくては)

 同時にフランクには「お義父様も、今日はフリードに厳しく注意されていたわ」などと適当な嘘を言い、妬みをそらす努力もした。


 マーサは何とか義父の残虐性と父親の歪みをフリードの目に触れさせず育て、家庭教師の代わりに自分が勉強を教えて、十三歳の学院入学へ備えた。

 フリードは素直な性格で勉強も良く出来る方だったので、マーサはフリードの学業は何も心配していなかった。学院へ行くに当たり何よりも大きな心配は、言わずもがな、カラバン子爵家の評判は最悪だという事と、フリードはそんな内情をまるで知らないという事だった。


 マーサの実家の男爵家は、婚約を申し込まれた当時貴族社会に無知だった為、格上からの申し込みというだけで舞い上がり、婚約を受けてしまった経緯がある。

 その実家ですら婚姻後、娘を嫁がせた家がどんな家だったかを知って、遠回しに縁を切りたいという手紙をマーサに寄越した。

 両親は古くから続く貴族家と話をしている時、娘がカラバン子爵家の嫡男の嫁になったと自慢してしまい、相手から大げさに眉をひそめられ、初めて実情を知ったらしい。

 手紙には‘’そんな家に嫁がせて心配したが、お前はうまくやれているらしくて良かった、ただこちらとしては余りに酷い評判の家なので、今後の商売に差しさわる、それ故今後一切の付き合いは断ちたい‘’と書いてあった。


 結婚してからマーサから手紙が来ない事も、夜会で会った娘の様子がおかしい事も、周囲の貴族が声をひそめて噂をしていても、何も気づかなかった両親だが、はっきり教えられてからは、対応が素早かった。余りの素早さに、マーサは一人で笑い出し、笑い過ぎて涙を流した。散々泣いた後で返事を書いた。

『お父様。お母様。

 お手紙拝読致しました。ご希望の件、承ります。今後一切あなた方とは他人となり、親子としてお目にかかる事はございません。どうぞお元気で』

 何の装飾も無い便せんにそう認め、マーサは両親と決別した。


 フリードが学院へ行った時、自分の実家の様に爵位も貴族社会での地位も低く、何も知らない相手ばかりなら問題は無いだろう。しかし、ほとんどの貴族はカラバン子爵家の噂を知っている。その噂はいやでもフリードの耳に入り、周りからも爪弾きにされるだろう。

 今のうちにフリードにこの家の事を伝えるべきか、伝えるならどう伝えるか、マーサにはなかなか答えが出せなかった。

 相談相手もいないマーサが独り悩み、どうするか決められないでいる間に、明日はフリードが学院へ入学するという日は来てしまった。


 

読んでいただき、ありがとうございます。


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