85 マーサとミシェル
その年の冬、マーサはカルバン子爵家を継いでいくであろう長男、フリードを産んだ。
男児を産んだことでマーサの立場はますます強固になり、少なくとも『妻たちの共同墓地』に埋葬される事は無いと思えた。
マーサは最初赤ん坊のフリードに対し、フランクとレジナルドがどんな振る舞いをするかを警戒して、注意深く見守っていた。しかし二人はマーサの心配をよそに、貴族の父親と祖父として必要以上に赤子に接しないという一般的な行動を取ったので、マーサは心底ホッとした。
それはマーサが要求した、住み込みの乳母の存在も大きかった。
マーサはこの狂気に満ちた子爵家の、閉じられた環境だけで子ども育てたくなかったので、産み月の少し前になると、乳母を雇って欲しいと要求した。
「刺繍の仕事はしなくて良いんだぞ。それならお前一人で育てられるだろう」
マーサの希望を聞いたフランクは、外部の者を家にいれたくないと反対した。
「父上だって許さないだろう」
しかしマーサが「貴族で自ら子育てする者などおりませんし、私一人で乳が足りるかも分かりません。私の乳の出が悪ければ、子どもの栄養が足らなくなります」と訴えると、意外にもレジナルドが乳母を雇うのに賛成した。
「マーサの言う事にも一理ある。貴族が乳母を雇わないのは余程金に困っていると思われて、馬鹿にされかねない。子どもが育たないのも困るから、今回は言う事を聞いてやろう」
乳母に関してはレジナルドの妻探しの伝手は使えない為、マーサが実家の男爵家に頼り、遠縁の女性を手配する事になった。
「乳母探しはお前に任せたが、余計な事を教えたり、その女がコソコソ嗅ぎ回る事があれば、二人共どうなるか分からないから覚悟しておけよ」
尚も乳母に否定的なフランクから脅されたが、マーサは「分かっております」とだけ答えておいた。
乳母としてやってきたミシェルは、自分の子を産んだがすぐ死別してしまい、子を産む前から仲が悪化していた夫に離縁され、実家に戻ったという女性だった。
ミシェルは優しくてまっすぐな性質がどこかイブリンと似ていて、マーサは会ってすぐに彼女を気に入った。
ミシェルにはマーサの部屋の続きにある小部屋を与え、一緒にフリードの世話をしてもらう事になった。
邸に住む事になれば、レジナルドの妻が使用人以上に働かされていると気づくのは時間の問題だった。マーサはフランクから『あの女が父上の妻という事は黙っていろ』と口止めされていたので、指示通り自分の口からは何も伝えなかったが、使用人同士で話をすれば自然とミシェルの耳に入るだろうと考えた。
(それを知った時にミシェルがどういう反応を示すかで、私も彼女にどれだけ心を許すのかを決めよう)
本音を言えば、マーサはカラバン子爵家の闇にミシェルを巻き込みたくなかったので、彼女が何も気づかない振りをするならそれで良いと思っていた。
ミシェルはフリードに対して、亡くした子にする様に親身になって世話をしてくれ、マーサとも時間を重ねるにつれ次第に気安い間柄に変わった。嫁いでからお喋りする相手もいなかったマーサにとって、ミシェルの存在は日ごとに増していった。
また、乳母を雇う理由として挙げた乳の出だったが、マーサは実際に余り乳の出が良くなかった為、これについてもミシェルがいてくれて良かったと、胸をなで下ろした。
その日もミシェルがフリードに乳をあげ、マーサはその脇で請負仕事の刺繍をしていた。
ミシェルには刺繍と編み物が趣味だと話していたが、乳を飲み終えたフリードにげっぷをさせ、小さなベッドに寝かしつけたミシェルは、マーサの手元を見つめてこう言った。
「奥様。その刺繍は、まるで売り物みたいにお上手ですね」
マーサはミシェルの目を見て、何を言いたいかすぐに分かった。数か月経って、ようやくミシェルにも、使用人仲間から情報が届き始めた様だった。
「褒めてくれてありがとう。主人も、私の刺繍は評判だと言ってくれているのよ」
売り物としてね、という意味を込めて返事をすると、ミシェルも分かっていますと言う風にうなずいた。
「そうでしょうとも。本当の職人の様に綺麗な刺繍ですもの。
…それはそうとこの家の使用人は、皆骨身を惜しまず働いて偉いですね。一生懸命働き過ぎて、倒れてしまうのではと思う方もいる位です。私も沢山頂戴していますが、余程お給金がよろしいんでしょう」と冗談めかして続けた。
それを聞いたマーサも「あら。我が家はそんなにお給金が良かったのかしら。だけど倒れてしまう者が出ては、お給金が良いのも考え物ね」と笑って答えた。
「本当ですよ、奥様。あんなに働いては、女神様の罰が当たります」ミシェルの目が真剣な色を湛え、声は極限まで潜められた。
マーサはそれを聞くと席を立って、ミシェルに近寄り耳元で囁いた。
「ミシェル。あなたが何を知ったのか予想はつくけれど、自分の身の安全を守りたければ、それを口に出してはいけないわ。私はあなたに、フリードの為に来て貰ったの。あなたには無事に乳母の役目を終えて、元通り外の世界に帰って欲しいと思ってる。これは命令でも脅しでも無くて、私の願いよ」
「奥様。けれど私は、女神様に恥じない生き方をしたいのです。知ってしまって、このまま何もしないのは苦しくてたまりません」
声を抑えながらも訴えるミシェルに、マーサは言った。
「あなたをこの家に雇ったせいで、あなたが良心を痛める事になったのは気の毒だと思う。だけど正直言ってあなたも私も、今これに関して出来る事は何もない。せいぜいその人を陰で手助けするくらい。
例えばここであなたがお義父様を詰ったり、他所でこの家の内情を訴えた所で、何も変えられない。彼らは別に法を犯している訳でも無いから罰せられないし、下手をすればあなたが彼らの怒りを買って、命を落とすかもしれないわ。それは私であっても同じ事よ。
私たちに大きな権力があれば何か出来るかもしれないけど、そうではないでしょう?だから私はここで生き残って少しずつ力をつけ、目的を果たそうと思ってるの」
「奥様の目的って、何でしょう」
「私はこの邸に囚われた、名前の無い妻達を陽の光の下へ帰したい。そう、女神様に約束したのよ」
「約束、ですか」
「私は自分が、こうしている今も罪を犯していると知ってる。あなたの言う様に、知っていて何もしていないのだから。だけど、破れかぶれに立ち向かって死んでしまったら、女神様にした約束も、フリードも守れない。だから何としても生き残って、出来る事をしながら一歩一歩進むつもり」
「私は、どうしたら良いんでしょう」
ミシェルに縋る様に見つめられて、マーサは微笑んだ。
「出来るなら、あなたには今まで通り何も気づかない振りをして、一緒にフリードを育てて欲しい。何もしない事が辛くて自分を責めてしまうなら、私のせいにしてくれて構わない。
私があなたに側にいて欲しくて、その為には、あなたには黙っていて貰うしか無いのは本当だもの。
それでも我慢できなければ、ここを辞めて家に帰っても良いのよ」
ミシェルは、マーサの目を見て、眠るフリードを見てから、小さくうなずいた。
「分かりました、奥様。私は辞めません。ここで少しでも奥様と坊ちゃまの力になれる様、努力いたします」
そうしてフリードはマーサとミシェルに守られ健全に育ち、五歳を迎えようとしていた。
マーサは期待されていた次子を産んではいなかったが、フリードが健やかに育っているお陰で、レジナルドとフランクには嫌味を言われる程度で済まされていた。
カラバン子爵家は相変わらずレジナルドが当主で、姿と名前の無い‘’子爵夫人‘’がいて、フランクはいつまでも‘’跡継ぎ‘’のまま鬱々と暮らしていた。
子爵夫人は、数年の間珍しく同じ者が務めていた。その女性はどこかの貴族家で当主がメイドに手を付けて生まれた子で、身体が丈夫で言われた事を淡々とこなし、レジナルドも珍しく不満は無い様子だったが、やはり子どもは授からないでいた。
マーサはこの頃になると、あれだけの頻度で多人数と閨をしてもフランクしか授かっていないレジナルドに対して、疑惑を抱くようになっていた。
相手となる女性の健康状態にも問題があるのだろうが、子どもが生まれない理由がレジナルド側の問題だとしたら、フランクが生まれたのは何故という疑問まで生まれてしまう。
しかし当のフランクは、そんな事は夢にも思っていなさそうだった。彼はこの頃になると、いつまでも当主になれない鬱憤に加え、実の息子のフリードが自分と違って母の愛情を受け、伸び伸びと育つ様子に苛立ちと嫉妬の目を向ける様になっていた。
フランクはその感情をフリードにはぶつけられないので、父の目を盗んで‘’父の妻‘’へ躾けという形で鞭を与える様になっていた。子どもを産んだ正妻であるマーサへは、ミシェルの目もあって容易く暴力を振るえなくなった為、そちらへ矛先が向いたのだ。
そのせいもあってか、丈夫だった女性は体調を崩す様になり、まもなく命を散らして『妻たちの共同墓地』に入れられた。
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