84 懐妊と変化
その日からマーサは、レジナルドとフランクの二人に表立って反抗する事は無く、上手く立ち回りながら少しずつ自分の裁量で出来る事を広げるのに努めた。しばらくすると次のレジナルドの妻がどこかの貴族家から買われてきて、マーサは朝食作りの任を解かれ、元の生活に戻った。
新しく来た妻はどこかの貴族の庶子で、自分の若さと美しさに自信を持っている様だった。その為レジナルドが最初は自分を冷遇して使用人として扱っても、いずれは自分を愛し、子爵夫人として遇すると信じ、マーサはもちろんフランクにさえ、時には馬鹿にしたような態度を取っていた。
この女に出会った事で、マーサは誰もがイブリンでは無いという事実に今更ながら思い当たり、この家で上手く生き残る為には、不必要な相手に思いやりや同情心を持つのは止めようと決めた。
女の自信とは裏腹に、マーサの目から見たら当然だったが、レジナルドの女に対する態度は何も変化しなかった。女は今までの妻と同様夜は閨、昼間は家事に酷使され続け、日が経つにつれて自慢だった美しさを失い、見た目も実際の年齢よりも老いていった。
そうなると女は、マーサが男爵令嬢ということだけで酷使されず、フランクの正式な妻として夜会に出られる境遇に憎しみを感じ始め、朝食でマーサの料理にだけ強い香辛料を入れたり、汚れた皿を使うなどのささいな嫌がらせを繰り返すようになっていった。
マーサは女の境遇を思えば騒ぎ立てる気は起こらなかったので、そういう時は朝食に口をつけず、メイドが出勤してから軽食を取ってやり過ごした。レジナルドもフランクも女のマーサに対する態度に気づいてはいたが、自分達以外の事はどうでも良いと看過していた。
そんなある日、マーサは遂にフランクの子を身ごもった。
数日身体が怠く、食べ物も余り受け付けず、眠くて仕方ない日が続いたマーサを見て、古参のメイドがフランクに言って医師を呼んでくれた。
邸に来た医師がマーサを診察し「おめでとうございます。若奥様はご懐妊されています」と告げた時、フランクは勿論、あのレジナルドでさえ「我が家はなかなか子が出来ん家系だが、やはり多産の家系のお前を入れて正解だったな」と微笑みの様なものを浮かべた。この瞬間、カラバン子爵家のマーサの地位は確立され、名実ともに次期子爵夫人となった。
しかしそんな変化に気づかない女は、マーサの懐妊を知り更なる嫉妬に狂い、翌日の朝食の席で失策を犯した。
傷んだ食材で朝食を作りそれを不潔な皿に載せると、汁が飛び散ってマーサにかかる様に、音を立て乱暴に置いたのだ。
マーサの服にソースが飛び散るのを見た女は、いい気味だと言う様に鼻を鳴らした。
次の瞬間、女はいきなりフランクに殴り飛ばされ、テーブルの角に頭をぶつけ血を流した。
「大切なカラバン子爵家の子を身ごもった俺の妻に、どういうつもりだ!」
頭を押さえて床でうめく女を見たレジナルドも、眉をひそめた。
「こいつはいつまでも自分の価値を認識せん。その上、子爵家の血を引く子を宿す嫁を害そうとは、不良品もいいところだな。…もうこいつは要らない。こいつを売りつけた相手からは、金を返して欲しいくらいだが、代わりに次の女を送らせよう。フランク、こいつはお前が後始末をしておけ」
レジナルドは食事を切り上げ、立ち上がった。出て行く前にマーサの方を見て「身ごもった女は、食が変わると言う。お前も食べたいものがあれば、料理人に言いなさい。お前の最優先は子を無事に産む事だと心得ろ」と言って出て行った。
「はい。ありがとうございます。お義父様」マーサは頭を下げて見送った。
「父上もいらないと言うし、この女はどうしようか。下男に言って、このまま埋めても良いよな」とフランクが言い出したので、マーサは「それなら、私に下さいませんか」と口を挟んだ。
「どうしてだ。こいつはお前を馬鹿にしていただろう。それもまたお前の好きな偽善か?」フランクが言うのに「いいえ。下働きが増えた方が助かるというだけです。私に危害を加えると困りますから、今までと違って邸内でなく主に外で働いて貰いますが。…洗濯場などはどうでしょう。子が生まれたら、洗濯物も多くなります」
フランクはフンと鼻を鳴らしたが、洗濯物の事までは分かっていない彼は、一応納得したらしかった。
フランクが立ち去った後で、マーサは出勤してきたメイドを呼んだ。
女は気を失って未だに倒れていたので、数人で自室へ運んでソファへ寝かせて貰い、手当をしてもらった。それから刺繍を始めてしばらくすると、女はうめき声を上げて目覚めた。
こちらをぼんやり見ている女の目に、今まで浮かんでいた敵対心が消えているのを見て、マーサは話しかけた。
「あなた、もう少しで生きたまま穴に埋められるところだったのよ」
暴力を振るわれたショックで怯えていた女は、マーサの言葉を理解するとガタガタと震え始めた。
「あなたももう分かったと思うけど、この家は常識が通用するところじゃないの」
マーサが薄々考えていた通り、話をしてみると女はイブリンと違って、ここに来るまで身体的にひどい目に遭った事は無いと言った。周りにいた男達は、最後には自分の言う事を聞いてくれたので、ここでもそうなると思っていたと。
女は泣きながら「こんな所は出て行きたい。殺されてしまう。助けて」とマーサに縋りついた。
マーサは「見ていれば分かると思うけれど、私にできる事は少ないの。あなたを殺させない為に洗濯場の仕事にしてもらったから、しばらくは洗濯場で働きなさい。あそこは全員通いの女達だし、外仕事だから邸の外に出る機会もあるかもしれない。真面目に働きながら、自分でチャンスを掴んで」
女は不満そうにマーサを見て「もっと何とかしてくれても良いじゃない」とつぶやいたが、マーサに「それなら自分でお義父様に頼みなさい」と言われ、仕方なしに洗濯場で働く事になった。
それから何ケ月かが過ぎ、マーサのお腹も大分膨らんで来た頃、フランクがマーサの部屋を珍しく昼間に訪れた。マーサはその頃は生まれて来る赤子の為の刺繍や編み物をすることが許されていて、小さな靴下を編んでいる所だった。
「へえ。それが子どもの靴下か。小さいな」珍しそうに見るフランクに、マーサももう完成した品を見せてやり、少しの間、普通のまともな若夫婦の時間を過ごした。
やがて手に取って見ていたヒヨコ色の帽子をマーサに返すと、フランクは「あの女が死んだよ」とマーサに教えた。
「あの女?」フランクは聞き返すマーサを探る様に見たが、本当に何も知らないと分かって幾分ホッとした様に続けた。
「お前が洗濯場の下働きにした女だよ。昨日、下男と駆け落ちして逃げようとした所を捕まえられて、死んだんだ。お前が手引きしていたら、腹に子がいるから面倒だと思ったが、違っていて良かったよ」
ゆっくり過ごして良い子を産めよと去って行こうとするフランクに、マーサは尋ねた。
「あの人も、邸の共同墓地に入ったの?」
「いや。あそこは妻たちの場所だから。貴族に逆らった平民として、神殿の共同墓地へ連れて行かれたと思うよ」
「そう」
本当に好きだったのかは知らないが、自分の為に逃げてくれた男と共に死んで、神殿に埋葬され祈りを捧げて貰える女の事を、マーサは憐れみこそすれ、悲しいとは思わなかった。
ただ、自分を睨みつけた生気に溢れた女の緑の瞳を思い出しながら、心の中で冥福を願い祈りを捧げた。
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