83 イブリンの行方とマーサの決心
レジナルドはマーサの給仕には特に何も触れず、いつもと変わらない態度で食事を終えると食堂を出て行った。フランクもそれに続いて出ようとしたが、マーサはどうしても我慢出来ず、躾を覚悟して彼を引き留めた。
「フランク。イブリンはどうしたの。もしかしたら…どこかに逃げたの?」
自分を置いて、イブリンは一人だけこの地獄を逃げ出したのか。
一度そう思ってしまうと、マーサは確かめずにいられなかった。自分は彼女を助けて、優しくしていた。それなのに私に何も言わず、一人だけ逃げるなんて。
マーサはイブリンが無事逃げおおせて、自由の身になっていたら嬉しいと微塵も思えない自分に気づかず、フランクに取りすがった。
再度の問いかけに怒りを隠さず振り返ったフランクは、マーサの浮かべる表情を見ると、嫌な笑みを浮かべた。
「お前があの女に同情心を抱いて、あれこれやっていたのは知ってたよ。善人ぶって気持ち良さげに働いているから放っておいたが、相手が無事に逃げおおせたかと思うと、そんな顔になるんだな。お前の素直な気持ちがそれなら、何があったか話してやっても良いだろう」
フランクは嬉々として話し出した。
それによると昨晩閨の最中、いつもの様に彼女をひどく扱っていたレジナルドは、イブリンがもはや息をしていない事に気がついた。レジナルドは服を着て、すぐに数少ない住み込みの下男を呼んだ。
「そういう時の為に、下男を何人か住み込みにしているんだよ」マーサに説明して、フランクは続けた。
レジナルドに命じられ、イブリンの亡骸と衣服を寝室から運び出した下男は、敷地の片隅にある場所に穴を掘り、両方ともそのまま埋めて一仕事を終えた。
「イブリンはお前を裏切って無くて良かったなあ」からかうように言うフランクに、マーサは我を忘れて詰め寄った。
「本当に亡くなっているのか、お医者様に診せなかったのですか。葬儀はどうするんです。墓石は?せめて神殿に運べば良いじゃないですか。そうすれば共同墓地に埋めて貰えて、司祭様が祈ってくれたんじゃないんですか?」
怒りで声を震わせるマーサを見て、フランクは馬鹿にした様に言った。
「今さら善人ぶる事はないだろう。本当の善人なら、イブリンがいなくなったと知った時、あいつが無事に逃げられたかどうかを心配したんじゃないのか。お前は、彼女が逃げたんじゃなくて、死んだと知って安心しなかったか?
だいたい、子を産んだ僕の生母以外の妻は、皆あそこに埋められているんだ。全員葬儀もしていないし、墓石も無い。共同墓地が良かったというなら、あの場所は父上の妻たちの共同墓地だ。それで良いだろう」
マーサは、フランクに指摘された事を図星と感じて怯んだが、尚も心を奮い立たせて言った。
「お義父様は、イブリンを妻として籍に入れていたじゃないですか。籍に入れたのなら名前を残して、子爵家の墓に入れるべきです」
「母は嫡男を産んだから名を残して、子爵家の墓にも入ってるよ。お前だって僕と婚約を結んでからも、子爵夫人がいたなんて知らなかっただろう。今までの女達も皆同じだ。誰にも存在を知られていないし、誰も知ろうともしない。あの女達は、最初からいないのと同じなんだよ」
怒りか、恐怖か、何だか分からない感情に震えが止まらなくなっているマーサに、フランクは楽しそうに命じた。
「こうなると、お前がイブリンを手伝っていて助かったよ。次の父上の妻が来るまで、朝食はマーサ、お前の役目だ」
フランクが立ち去っても、マーサはしばらくそこでじっとうずくまっていた。
やがて通いのメイド達が姿を現すと、何かを察したのか「若奥様。片付けは私達が致しますので、どうぞお部屋でお休み下さい」と彼女を部屋まで連れて行ってくれた。
マーサの手元にはフランクから与えられた刺繍の仕事が沢山あったが、手を付ける気になれず、ふらふらと庭に出て行った。
どうしてもイブリンが埋められた場所、『妻たちの共同墓地』とフランクが言った場所を、見たいと思ったのだ。
子爵邸の庭は婚約時代に何度かフランクと散歩し、時にはテーブルを出してお茶を飲んだ事さえあった。まさかその同じ敷地内に『共同墓地』があり、自分は何も知らず結婚生活に夢を抱いて茶を飲んでいたと思うと、マーサは頭をかきむしり、泣き喚きたい衝動にかられた。
花の間にしつらえられた石の小径を進んで行くと、庭師が日陰を作る樹木の手入れをしているのに出くわした。彼も又通いで週に三、四日見かけるが、すれ違ってもほとんど口をきかず、軽く帽子に手をかけ頭を下げるだけだった。
(きっと、このおかしな家の者に関わりたくないんだろう)
今日も無言で頭を下げ彼女に道を譲る庭師の方へ、マーサは近づいて行った。普段と違う行動を取る彼女に庭師は警戒心を見せ、自らは別な場所へ移ろうとしたが、マーサは回り込んで彼の真正面に立った。
「何か私に用事ですか」仕方なくといった調子で口を開いた庭師は、綺麗な緑の目をしていた。
「あなたに、教えて欲しい事があるの」マーサは声を潜めた。
今は一日が始まったばかりの午前中で、空は晴れ、お日様は輝いている。初夏の庭は緑が息づき、蝶が見え隠れしながら飛んでいる美しい、生の喜びが溢れる日だ。
その中でマーサと彼女の周囲は闇に包まれ、感じられるのは恐怖と死だけだった。
「教えて欲しい事とは、何でしょう」庭師はマーサを見ずに尋ねた。
「妻たちの共同墓地、どこにあるの。昨日、イブリンがそこに埋められたの。どこにあるか教えて、彼女が埋められた場所を」
マーサは彼の輝く緑の瞳だけが現実と繋がる扉の様に感じられ、庭師の目を必死に見つめて懇願したが、彼はマーサと目を合わせようとせず、扉は開かれなかった。
「若奥様。私には何の事か分かりません。若旦那様か、旦那様に聞いて頂けますか」
「それなら!」マーサは大声を出した。
「それなら、私に花を切ってちょうだい。出来るだけ多く、出来るだけ華やかに沢山色が入っている花束を作って」
「花を切るのは、旦那様に許可を得ないといけません。庭の調和を崩すのを旦那様は嫌います。ですから申し訳ありませんが、花は切れません」庭師はそう言って、もうこれ以上付き合ってはいられないと言う様に、どこかへ立ち去った。
(私には、イブリンに花一つ供えてやれないんだ)
マーサはそのまま庭の奥へ奥へと進み、敷地の北の端までやってきた。
そこは一日中日陰になっている場所で花も木も植えられておらず、湿った冷たい空気が流れていた。
ぼんやりと立っていたマーサは、やがてそこここに、土が不自然に盛り上がっている場所が点在しているのに気づいた。そのうちの一番奥にある一つは他の場所とは明らかに色が違い、掘り出したばかりの黒く柔らかそうな土が盛り上がっていた。
いくつもの固く踏みならされ乾いた小山を通り過ぎ、マーサはよろよろと奥にある黒い土の山に向かい進んだ。その途中、足元に転がる何かに意識がいって、マーサは足を止めて拾い上げた。
それは細い銀の指輪で、一緒に朝食を作っていた時、イブリンがマーサに見せてくれた物に間違いなかった。
『イブリン。私、いつかこの家から逃げ出したい。あなたもそうでしょう。その時は、一緒に逃げましょうね』誰もいないと分かっていても、小さい声で囁くようにマーサが言うと、イブリンは『私はもう良いんです。けれど、いつかマーサ様をここから出してくれる様、女神様にお祈りしますね』と答えた。
『どうして。イブリンも外に出られたら、絶対今より幸せになれるわ』
イブリンは黙って首を振った。
『私の身体はもう限界です。逃げ出す体力も無いし、生きていたいとも思っていません。…私は私生児として生まれて父に捨てられ、母と二人で暮らしていました。貧しくても幸せだったのに、金に困った貴族の父親が突然現れて、私をカルバン子爵家に売ったから連れて行くと言われたんです。母が必死に抵抗して家から逃してくれて、私はそのまま結婚の約束をしていた人と二人で逃げました。だけど父親の追手に見つかって、恋人は殺されました。私もその時、あの人と一緒に死んだんです。
だから私がここを出る時は、あの人に会える様に女神様が導いて下さる時だと思っています』そう言うとイブリンは、そっとポケットから銀の指輪を出して、左の薬指にはめた。
『これ、あの人がお金を貯めて買ってくれた結婚指輪なんですよ。その時が来たらこの指輪をはめて、あの人の所へ行こうと思っているんです』そう話すイブリンは、マーサが今まで見た事のない、幸せそうな笑みを浮かべていた。
マーサは指輪を失くさない様にハンカチに包み脇に置くと、泣きながら黒い土の上にかがみこんだ。
(イブリンの指に、この指輪をはめてやらなければならない)
道具が無いので素手で土を掘り返したが、爪の間が真っ黒になって指が痛くなっても、深く掘られた穴の中にいる彼女を見つける事が出来ず、マーサは諦めて掘り進んだ土の中に指輪を埋め女神に祈った。
(女神様。この指輪をはめたイブリンを、どうかその人に会わせてあげて下さい。
彼女を疑い幸せを願えなかった私は、この家で自力で生き抜いてみせます。そして私はいつか彼女達を、陽の光の元に返したい。どうか私を見守ってください)
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