81 悪魔の家1
数か月前あの女と子どもがやって来た日、マーサは何故この二人が紹介状も無しにカラバン子爵家に現れたのか全く分からなかった。
それまでこの邸で悲劇が繰り返されてきたのは事実だが、わざわざ自分が登場人物になって悲劇を演じようとした者はいなかったのに、その女は門番に向かって「この家で働かせて貰いたい。当主の妻か、何なら妾になっても良い」と言ったのだ。
カラバン子爵家の噂を聞いてこんな台詞を言ったのだろうが、生憎今の子爵家はその役の者を求めていなかったし、平民が貴族に向かって言うには無礼過ぎる言葉だった。
さすがに腹が立ったマーサは女と赤子を追い払おうとしたはずなのに、自分でも何故か分からない内に、怒りは二人へ同情する気持ちに変わっていた。
女がここに来たのはまともな理由では無いだろうが、何も知らずに連れて来られた赤子は可哀想だ、何かあれば力になってやろうとまで思い、住み込みの下女として女を雇い入れてしまった。
マーサはまさかこの二人によって、この家で今まで以上に常軌を逸した事が起きようとは想像もしていなかった。
マーサは商人あがりの男爵家の四女という、貴族とも言えない末端の生まれで、両親もマーサ自身も、いずれは平民となるものだと思っていた。しかしマーサが学院の最終学年も終えようという頃、突然カラバン子爵家から嫡男であるフランクの相手として、結婚の申し込みが舞い込んだ。
両親は交流のないカラバン子爵家からの申し込み、それも跡継ぎがお相手というのに戸惑ったが、平民になるはずの娘が子爵夫人という玉の輿に乗れる話に乗り気になり、マーサ本人は元より平民より貴族が良く、それも生家より階級の高い子爵からの申し入れに舞い上がっていたので、前向きに検討するという返事を子爵家に送った。
両親はさすがに商いで財を成し男爵になっただけの事はあり、カラバン子爵家の財政状況はきちんと調べた。それはマーサの為と言うより、万一カラバン子爵家が没落しそうな場合、とばっちりで財産を吸い取られるのは勘弁だという思いからだった。その結果、子爵家としては負債も無く、少々税は高いが領地運営にも特に問題が無いという事が分かり、それ以上申し込みの背景を調べないまま婚姻を承諾した。とにもかくにも、これは男爵家にとって格上の子爵家と結びつけるチャンスだったから、娘個人の幸せについては、そう深く考え無かった。
婚姻は学院卒業後一年の婚約期間を経てという事に決まり、マーサとお相手のフランクは、月に一度交流の為お茶の席を設けた。それは子爵家の事もあれば男爵家の時もあったが、当主のレジナルドには婚約の時儀礼的な挨拶を交わしたのみで、親しく接する機会は全く無かった。またフランクの生母は既に亡くなっていると聞いていたし、婚約の席でも子爵夫人の姿はなかったので、マーサはレジナルドは再婚をしていないと思い込んでしまった。
姑もおらず、舅ともあまり関わらないで済みそうな環境を、マーサは気が楽だと思い喜んでいた。
(あの時、もっとはっきりお義父様の再婚についてフランクに問い質していたら。あの人の生母が亡くなっていて、婚約式に子爵夫人がいないからと言って、再婚していないと思い込むなんて、若かかったとは言え私が愚か過ぎた)
今になって思えば、当時から子爵家当主レジナルド・カラバンの残虐性と、狭量な性質は社交界では有名で、そんな当主のいる家に嫁に行こうとする者がいなかったのだと、よく分かる。だから嫡男のフランクの婚姻は、同格の家は勿論、下位の男爵でも由緒ある古くからの家には軒並み断られ、マーサを逃したら後は平民をどこかの家の養女にしてもらい、その者を娶るしかなかったのだ。
マーサが十八歳、フランクが二十三歳の年に二人は結婚した。
当主のレジナルドはフランクが遅く生まれた子であったので既に五十二歳で、同じ位の年の貴族家当主達は皆、嫡男の結婚に伴って家督を譲っていたので、マーサもこれでフランクが当主となるのだと信じて疑わなかった。
「ねえ、フランク。お義父様はあなたに家督を譲ったら、どこで隠居生活を送られるのかしら。隠居先の邸の準備は進んでいるの?」
婚姻後ひと月が過ぎても夫が子爵家を継ぐ気配が無い事に焦れていたマーサは、話がどこまで進んでいるのか探りを入れようと思い、義父の隠居先についてフランクに尋ねた。隠居先となる邸の用意が出来なくて話が進んでいないなら、私が手伝って差し上げようと、そんな新妻らしい、夫に良く思われたい気持ちもあった。
尋ねられたフランクは、感情の無い虚ろな目で彼女を見た。
それは本当に何も映さない瞳で、マーサは背筋に冷たい氷が差し込まれた様にブルっと震えた。
「君が何の話をしているのか分からないが、父上が俺に家督を譲るなんて本気で思っているなら、今すぐその希望は捨てた方が良い。カラバン家には隠居先の邸など無いよ。俺たちの住む家はここだけだ。父上とその妻と、君と僕の家だ」
マーサはフランクの言う事が理解出来なかった。
「希望を捨てろって、お義父様がずっと家督を譲らないとでも言うの?他の貴族家は皆、嫡男が結婚したら家督を譲ってご自分は隠居なさってるじゃない。カラバン家だけずっとお義父様が当主なんてあるわけないわ。それと、その妻っていったい何のこと?あなたのお義母様は亡くなったって言ったわよね」
マーサがこの言葉を言い終えるか、終えないかという時、二人の部屋のドアからレジナルドが姿を見せた。レジナルドはノック一つせずに、息子夫婦の部屋に入って来た。
「お義父様、ノックをして下さい」思わずマーサが咎めた次の瞬間、彼女の身体は床に倒れていた。レジナルドの持っていた杖で、したたかに打たれたのだ。
「マーサ。お前は自分の身の程を弁えろ。フランク、結婚してひと月も経ったのに、何でこの女をきちんと躾けていないんだ。お前の愚鈍さには呆れ果てたぞ。
…それで、お前も俺から家督を譲り受けられると思ってるのか」
倒れたマーサには目もくれず、レジナルドはフランクを見据えて問いただした。
レジナルドに責められたフランクは、一瞬で青褪め震えると、ひざまずいて父親の膝に縋りついた。
「父上。申し訳ありません。この女の躾けが出来ていませんでした。私が家督を継ぐなど、滅相もありません。父上のおっしゃる通り、私には荷が重過ぎます」
レジナルドは、フランクの申し立てを鼻で笑った。
「ふん。そうだろうとも。お前に何が出来るものか。体裁を整えて子孫は増やさんといかんからお前にも嫁を取ったが、やはり本物の貴族で無い者はダメだな。おい、マーサ。結婚後ひと月は休ませてやったが、お前は元々平民同然だ。明日からは余計な事を考えないで、お前もちゃんと働けよ。それと、子どもは色々使えるから、多ければ多い方が良いぞ。フランク、そちらは馬鹿なお前でも出来るだろう。この女の家は多産だから、精々役に立ってもらえ」
そう言った後で、レジナルドは部屋にあったベルを激しく鳴らした。
二、三分経った頃、一人の若い女が息せき切って部屋にやって来た。
彼女は女性には珍しく髪を短く切り、薄汚れ傷んだ服を着ていた。
「お呼びでしょうか。旦那様」声を出した途端、レジナルドはマーサにしたように彼女を杖で打ち据えた。女はかろうじて倒れないで、壁に手を付いて耐えた。
「遅い!またどこかでサボっていたな。おい。この倒れている女が、フランクの妻だ。お前の事を知らないみたいだから、挨拶をしろ」
薄汚れた女は、倒れているマーサに向かい口を開いた。
「私はイブリン・カラバン。レジナルド様の妻です」
驚愕しているマーサに向かい、レジナルドは「お前はかろうじて貴族の一員だから下働きはさせんが、明日からは刺繍なり、編み物なり、金の稼げる仕事を朝から晩までやれ。本当なら結婚式の次の日からでも働かせたかったが、お前の両親が結構な額の持参金をくれたから大目に見てやってたんだ。だがあんなろくでもない事を言い出す様では、フランクには任せておけん。
そうそう、イブリンは落ち目の貴族の庶子で貴族じゃない。だから昼間は下働き、夜は妻として俺の相手をしている。子どもがフランクだけじゃ心許ないからな」
レジナルドはそう言うと嫌らしく笑った。
「こうすれば、使用人も少なく済んで節約になる。マーサ、分かっているだろうが、家の外でおかしな事を話したら、ただじゃおかないからな」
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