72 残された人々とレイモンドの魔法
アランから悲劇のあったタリム村の森へ行こうと打診が来たのは、アランがガードナー領へ帰ってから一月が経つ頃だった。
その頃のトーマスは表面上平穏な日々が続いていて、その穏やかな日々が、かえってトーマスの孤独と無力を浮き彫りにし、寂しさを募らせていた。
気が付けばトーマスの周囲からは父母、ローズ、やり直すはずだったカミラの心も消えていた。息子であるレイモンドは、安全を守る為に遠く離れて暮らし、クラウスに至ってはもはや自分の子であったのかも分からず、全ての悪の元凶と考えられるまでの状況に陥っていた。
だからアランから連絡を貰ったトーマスは、溺れる者が垂らして貰った縄に縋りつく様な心持ちで「俺はいつでも大丈夫だ。出来るだけ早く行きたい」とすぐに返事を書いて送った。
アランはマーガレットとお茶を飲み、居間で休憩を取っているところにトーマスからの返信を受け取った。読み終えると「トーマスはやはり、相当参っているみたいだ」と傍で刺繍をするマーガレットに話しかけた。
「もっと早く連絡出来れば良かったが、ずいぶん仕事が溜まっていたから中々時間が作れなかった。こんなに経ってしまっては、森の中にある煙突の水もどうなっているか分からないな」
アランがそう言うと、マーガレットは「私はそう思わない」と首を振った。
「私はその水は女神様の力を湛えた聖なる水で、ずっと綺麗なままだと思ってるわ。
ねえ、アラン。私、ずっと実家の文献にあった伝説と、今回の悪魔の出現について考えていたのよ。文献では聖女は悪魔を封印する時、聖なる湖の近くへ悪魔をおびき寄せて、湖に宿る女神様の力を借りて封印したと書いてあったでしょう。
もし聖なる湖が、本当にカミラ様の実家の近くにある湖だとしたら、その辺りに悪魔は封印されていたはずよ。そして実家からついてきたメイド長のシモーヌは、カミラ様の乳母と息子が湖に沈んだ日から、急にカミラ様の性格が変わって別人の様になり、淑女として振る舞いだしたと言っていた。
文献とシモーヌの話を考え合わせると、私はその日カミラ様は、何かの拍子に封印されていた悪魔を解放してしまい、憑りつかれてしまったんじゃないかと思うの。
そこに偶然居合わせて湖に沈んだ乳母と息子は、女神様が湖の力を使ってどこかへ逃がして下さったんじゃないかって。
シモーヌが言うには、湖には底まで見える程綺麗水が満ちているそうね。
今回ローズが姿を消した後、レイモンドが作ったと思われる塔に残っていた澄んだ水は、聖なる湖と同じ、女神様の加護のついた水だと思うのよ。だから私たちが行く時も、変わらず美しいままだと思うわ」
「確かにあの湖が聖なる湖なら、そう考えても良いかもしれない。
そうなるとカミラが産んだクラウスは、その時カミラに憑りついた悪魔が、子どもという形を取って生まれてきた事になるな。聖女が封印した悪魔も、かつて赤子としてその貴族家に誕生していた。
今回理由は分からないが、ローズさんも女神様が助けて下さったのだとしたら、澄んだ水の中で姿を消したと言うのもカミラの乳母と息子と同じだ。…うん、そうだな。色々あって遅くなってしまったが、今から行っても、君の言う通り水は澄んだままだろう」
「私の推測が合っているかは分からないけど、そう考えると腑に落ちるの。
アランはあれから時間が経ってしまったと嘆くけど、それは仕方ないわよ。ガードナー家の騎士達には長い間シュタイン領に行ってもらったから、こちらに帰ったら休みをあげたかったでしょう。あなただって、王都での商談が沢山待っていたんですもの」
マーガレットは話をしながら、ハンカチに聖魔法の刺繍を施していた。彼女はリチャードが亡くなって以来、時間が出来ればずっと刺繍をしていた。今回シュタイン領を訪れる際にも、出来上がった物は全て持参するつもりだった。
「それはそうだが、トーマスの周りには今誰もいなくなってしまっただろう。せめてレイモンドだけでも早くシュタイン家に返してやりたいが、まだ安全とは言えないからね。土魔法の事も、悪魔の事も、何も解決していない」
「クラウスとタミーという侍女の行方も、何も手がかりが掴めていないのよね。ともあれ、私たちは出来る事を一つずつやっていくしか無いわ。神殿からは悪魔について、トーマス様に何も言って来てないのかしら」
「トーマスの手紙には何も書いていないから、きっと何も無いんだろう。
神殿にとっても悪魔や聖女は遠い昔の、それこそおとぎ話の中の出来事だろう。力になりたくても、君の実家の文献以上の物は残っていないのかもしれないな」
「そうかもしれないわね。正直言って聖魔法使いの私も、本当に悪魔が出現したなんて最初は信じられなかったもの。けれどハンカチの刺繍が一瞬で真っ黒になったと聞いて、実物を見せられたら信じない訳にいかなかった。少なくとも今まで見た事のある悪意の蛇とは、全く格の違う邪悪な存在がいると信じられた。
…こうして分からない事を考え続けても仕方ないわね。こうなったら早く森へ行って、レイモンドの作った塔と、中にある水を見てみましょう。レイモンドを連れて行ったら、塔にも変化があるかもしれない。きっとステファンは、レイモンドのお兄さんみたいに振る舞っているから、お留守番を寂しがるわね」
「そうだな。ステファンとレイモンドはずいぶん気が合ってて、昔の俺とトーマスを見ているみたいだよ。だがレイモンドは楽しそうに過ごしてはいるが、ここに来てから本当に土魔法を使わないね。子ども心にあの襲撃で傷ついて、魔法を使いたくないと思っているのかもしれないな。ステファンと遊ぶうちに、心を癒やしてくれたら良いが」
「そうね。心配しないでも、きっとしばらくすればまた使える様になるわ。今もレイモンドはステファンとする砂場遊びが大好きで、毎日二人で沢山の物を作っているんだから。
私はそろそろ二人の様子を見に行ってくる。トーマス様のところへ行く日程がはっきりしたら教えてちょうだい」
「ああ。俺もそろそろ仕事へ戻るよ」
マーガレットが子どもたちの遊ぶ庭に来てみると、ステファンとレイモンドが手をつないで駆け寄ってきた。
「お母さま」「あー」慌てた様子の乳母と侍女が、後ろから二人を追いかけてくる。
アランにそっくりなステファンと、トーマスにそっくりなレイモンドを見て、マーガレットは自然と笑みが浮かんだ。
「二人共、沢山遊べた?一緒におやつを食べましょう。今日のおやつは何かしら」
ステファンはおやつと聞いて、先日レイモンドと二人で食べたドーナツを思い出した。
「お母さま。僕は、お砂糖のかかったドーナツが良いです」
以前食べた時、ステファンはドーナツの真ん中の穴に指を入れ、くるくる回してレイモンドを笑わせていた。それを見ていたマーガレットには叱られたが、レイモンドは声を立てて笑い、ステファンがちぎってくれたドーナツを美味しそうに頬張っていた。
‘’ドーナツ‘’と聞いたレイモンドは、ステファンの顔を見上げ少し考えると、片手を回した。すると次の瞬間、地面の砂が円を作りドーナツの形になって、レイモンドの指が穴の中に通っていた。
「あ!」小さなそのドーナツをレイモンドがステファンに差し出すと、ステファンは「すごいね、レイモンド!」と大喜びした。レイモンドもステファンのその様子を見て笑い、マーガレットは驚きながらホッとして喜びが沸き上がった。
(レイモンドは、やっと魔法を使う事が出来たのね)
「良い物を貰えて良かったわね、ステファン。レイモンドもありがとう。さあ二人で手を洗って、食べられるドーナツをシェフに作ってもらいましょう」
マーガレットはレイモンドの魔法を見た乳母と侍女に「この事は誰にも話さないように」と告げ、邸へと戻って行った。
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