38 閑話 マーガレットとローズの刺繡の会
「マーガレット。今日風魔法の研究会が無くなったんだ。良かったら、東街の画廊でやっている絵画展に行かないか」
学院の廊下で婚約者のアランに呼び止められて、予定に無かった誘いを受けたマーガレットは、自分を見下ろす優しい青い目を見つめて微笑みながら断った。
「ごめんなさい、アラン様。今日は前からの約束があるから、私は行けないわ。アラン様の時間が空くなんて珍しいのだから、トーマス様達と行かれたらどうかしら」
愛らしい婚約者に言下に断られてがっかりしたアランは、少しも残念そうに見えないマーガレットを恨めし気に見下ろした。
「トーマスが絵画に興味が無い事くらい、君だって知っている癖に。あの絵画展には、君も好きだと言っていた画家も出展しているんだよ。だから君と一緒に行きたいと思っていたんだ」
「私の好きな画家、シエルですね。シエルは、確かカミラ様もお好きでしたよ。カミラ様が行くと言えば、トーマス様も一緒に行って下さるでしょう」
少し意地悪そうな顔をするマーガレットに、アランはお手上げという様子を見せた。
「うん。確かにカミラはシエルを好きだよ。そして、この前カミラとその話をずっとしていて、君とトーマスをないがしろにしてしまったのは謝る。だから意地悪をしないで、一緒に行こうよ」眉を下げるアランは、カミラが自分とアラン二人だけの話を続ける為に、わざわざアランの興味ある事を調べて、勉強している事を全く気づいていない。
マーガレットはそんな鈍感で誠実な婚約者を、これ以上責めても仕方ないと思い「もうその事は本当に気にしていませんから、謝って下さらなくて大丈夫です。ただ今日は、本当に先約があるの。だからごめんなさい」と言うと「次の授業の準備があるから、もう行きますね。また今度誘ってください」と去って行った。
残されたアランは残念そうにマーガレットの背中を見送り、ため息をついて踵を返した。
放課後、マーガレットの足取りは軽かった。今日は半月に一度、一つ年下のローズとの刺繍の会の日だ。
マーガレットは、刺繍が苦手だ。嫌いでは無いのだが、謙遜では無く、本当に下手くそだと自分でも思っていた。丁寧に刺しているつもりが、いつの間にか目が乱れたり、布がよれたり、太さが揃わなかったりで、アランのイニシャルを刺繍したつもりなのに、知らない誰かのイニシャルになる事などザラだった。だから刺繍に関しては半ば諦めていたマーガレットが、何としても綺麗に刺繍したいと思う様になったのは、理由があった。
『アラン様。トーマスに贈ろうと思って練習しているのですけど、沢山作ったので良かったら貰って頂けませんか』
マーガレットは少し前に、アランの親友のトーマスの婚約者、カミラ・ウィルソン伯爵令嬢がアランに刺繍したハンカチを差し出すのを目撃した。
普通なら婚約者のいる者同士、刺繍したハンカチを上げる事も受け取る事もしないはずだが、幼馴染という気安さと、婚約者の為の練習と聞いて、アランはそれを受け取った。
『これは素晴らしいね。カミラは本当に刺繍の名手だな。トーマスもこんな素敵なハンカチを貰えたら大喜びだろう。練習とは言え、俺にまでありがとう』
アランに褒めたたえられたカミラの頬は紅潮し、目が輝いたが、それを目の前で見ているアランが何も感じていないのは明らかだった。
多くの人々に憧れや好意、様々な感情を向けられ続けたアランは、はっきり言葉にされた思い以外、相手の気持ちを推測したり、汲み取ろうとはしないと決めている。過去に嫌な思いを散々してきた結果だが、そう決めて実際に気にせずにいられるのは本当に彼の強みだと、物陰で見ていたマーガレットは思った。
(アラン様がそういう強い人だから、人の心の黒い感情や負の揺らぎを感じると辛い私でも、一緒にいる事が出来る)
マーガレットは、アランがカミラへ全く心を動かさない限り、刺繍を褒められているのを見ても平気だと思っていたが、やはり少し悔しかったらしい。
自分の強みである聖魔法を刺繍に籠めたらアランに近寄る魔が祓えるし、多少下手でも普通の刺繍より役に立って喜んでもらえるのではないかと、後日思いついたのだ。
そして自分の刺繍の腕が壊滅的なのを忘れ、一つ二つ作ってみた結果、これは自分一人ではどうにもならないと判断したのである。
一人では無理だと悟ったマーガレットは、最初は友達に教えてもらおうと思っていた。しかし一番刺繍の上手な友達が、よりによってアランが原因の嫉妬で蛇を出す様になってしまったので、それ以外の友達に助力を求めるのが怖くなった。
母に教えてもらえれば良いが、遺伝なのか、母も壊滅的に刺繍が出来ない。侍女達も毎日とても忙しそうで、自分の不出来な刺繍で時間を取らせたくない。
マーガレットは解決策が浮かばず、頭を抱えていた。
困っていたある日、侍女が持っていたポーチに刺してある小鳥に、マーガレットの目が留まった。小さい刺繍だったが、小鳥が愛らしい上、今にも小首をかしげてチチッと鳴きそうに生き生きして見える。
私もこんな刺繍を刺してみたいと思ったマーガレットは、その侍女に「このポーチを買った店を教えて」と頼み、護衛と共に連れて行ってもらった。
初めて行ったその店で、作者であるローズと運命の出会いを果たし、それ以来マーガレットは、ローズに頼み込み刺繍を教えて貰ってきた。
最初は相変わらずの腕前で、教えるローズもどうなる事かと不安そうにしていたが、根気強く練習するうちに、簡単な図案なら問題無く刺せる様になってきた。そのお陰で最近は、聖魔法を籠めた魔除けのハンカチを何枚もアランへ贈る事が出来て、マーガレットはとても満足している。
けれど本当に満足している事は、刺繍の腕が上がった事ではなく、ローズという友が出来た事だった。
ローズの方は今も変わらず自分を『マーガレット様』と呼ぶし、お茶やケーキをご馳走して刺繍の会の謝礼を払っている自分を友達では無く、云わば雇い主の様な存在と思っているかもしれない。しかし、マーガレットの心の中では、彼女は既に最も親しい友で、親友だ。
マーガレットは珍しい聖魔法使いという事で、周囲に人が集まり、好意を寄せられる事は多かったが、同時に人の悪意や邪な思いには敏感だった。幼い頃は向けられた悪意で憔悴し、神殿で悪意を跳ね返す方法を学び、やっと普通に暮らしていける様になってきた。
今現在も、アランと言う人々に憧れられる婚約者がいるせいもあり、妬みの感情を向けられる事も多い。しかし、ローズからは一切そういう感情を感じなかった。
ローズの生い立ちや現状を考えれば、人一倍周りを恨み、人を妬んでもおかしくないはずなのに、彼女は周りを見て自分と比べ、その場に立ち止まる事を選んでいなかった。それよりも自分の出来うる最善を考え、希望を捨てず、あがく事を選んでいた。
彼女が刺繍した小物を売って金を稼いでいるのも、文房具や必要な物を買う為で、何も恥じる事では無い。刺繍の腕前もとても見事なものだ。
けれど貴族としては、平民の様に仕事をして金を貰うのは恥だから『これ以上皆さんに蔑まれたくないので、私がしている事は黙っていてください。マーガレット様も私と付き合っている事を、皆に知られない様にしてください』と言うので、マーガレットはローズに会う事を誰にも言わず、人に会わない様に、毎回二人きりの個室で会っている。
(だけどいつかあなたを私の親友だと皆の前で宣言して、笑い合いたい)
今はまだローズの言う通り、誰も知らない所で二人きりの刺繍の会をするだけが、マーガレットとローズの結びつきで、マーガレットの出来る全てだ。
けれどこの美しく強い私の友が本当の自分の姿を取り戻し、何も恐れず生きていける様に、自分の出来る事を見つけていきたいと考え、その日が来るのを心から願いながら、マーガレットはローズの待つ店の扉を開いた。
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