26 閑話 カミラと蛇のはなし3
必死で道を戻り邸に向かって走りながら、カミラは沈んでいく乳母と水底で揺れるトムの髪の毛を思った。二人が湖に沈んでしまったのが自分のせいだと思えてならず、あの石を持ち上げなければこんな事にならなかったと、本能がカミラに教えていた。
(あいつが、トムをあそこに沈めたんだ。わたしが王子様に会いたいって言ったから!)
涙を流しながら足を動かし、息が切れて苦しくなっても、カミラは走り続けた。
(わたしを哀れな子って呼んでた。わたしは哀れじゃない!トムも乳母もいるんだから)やっと裏門まで来ると、その先にベンが立っていて、足元に子犬が遊んでいるのが見えた。
(そうだ、ベンだっているし、子犬だって)気づいたベンが走り寄って来るのが見えて、カミラは張り詰めた気が抜け、その場に崩れ落ちた。
「カミラお嬢様!」慌てた様に自分の名を呼ぶベンに、朦朧としながらトムと乳母の事を伝えたカミラは、そのまま意識を失った。
気づいた時、カミラはあのピンク色の採掘場跡地に来ていた。
ごつごつした感触が素足に感じられるが痛みは無くて、不思議な気持ちで少しだけ太陽に暖められた岩の上を歩いていた。少し先を見ると、乳母とトムが手をつないで立ってカミラを見ていた。二人は湖に入ったはずなのに髪も服も乾いていて、何事も無かった様だった。
「二人共助かったんだね!」喜んで走り寄ろうとしたが、カミラが近づく分だけ、二人は離れて行く。トムが悲しそうに何かを言うが、カミラには聞こえなかった。
「待って」呼びかけるカミラの背後に冷たい風が吹いて、あの声が聞こえた。
「お前は置いて行かれたんだよ」振り返ると真っ黒な塊が蛇の様に長く伸び、カミラを見下ろしていた。真っ黒で目など見えないのに、確かに自分が見られているのがカミラには分かった。
「置いて行かれてなんてない。あんたが何かしたんでしょう」カミラの反論に、蛇は楽しそうに笑った。
「思い出してみろ。あの時乳母は、お前の手を振りほどくのを一瞬でもためらったか?お前の事は後回しさ。当たり前だ。水の底には乳母の大切なトムがいる。迷っている暇は無い」
「それはトムを助けなきゃいけないから」尚も言い返すカミラに、蛇は「良い物を見せてやろう」と言って見る見るうちに身体を大きく膨らませて、明るかった周囲を暗黒に変えた。
「何も見えないじゃない」と文句を言おうとした時、突然目の前が明るくなり銀髪の女性と男の子が見えた。カミラはハッとして目をそらそうとしたが、顔が固定された様に動かす事が出来なかった。
『マーク。あら、また少し背が伸びたのかしら。新しいお洋服を作らなければね。足もどんどん大きくなって、すぐに私を追い越しそうよ』優雅に日傘を差しかけられながら幼児のお喋りに笑顔で応え、庭を歩くのが自分の母と弟だという事を、カミラは知っていた。
カミラは母と弟に直接触れ合った事は無く、おぼろげな認識しか無かったが、一度だけ乳母と一緒に邸の廊下ですれ違う機会があった。その時は歩き始めたばかりの弟がカミラの方に来ようとして、手をつないでいた母が「ダメよ。汚いから」と言って弟を抱き上げたのだ。そして「ここは私たちの部屋に近いから、あまり出歩かないで」と乳母に注意した。乳母は「かしこまりました」と答えて頭を下げ続けていたが、カミラは母をじっと見つめていた。
すると母は「あの人にそっくり」と吐き捨てる様に言い「マーク。早く行きましょうね」と香水の匂いをまき散らし去って行った。後に続くメイド達も、乳母とカミラを馬鹿にした様に見て通り過ぎた。
あの日から、カミラは母と弟、メイド達、香水の香りまでもが嫌いになった。
その時の事を悔しく思い出していると、蛇の声が聞こえた。
『いいぞ、いいぞ、何て心地良いんだ』
「やめて!」抗議しても意味を為さず、目の前には次の光景が現れた。
今度は自分とそっくりな男が、もう一人のよく知らない男と何か話していた。
カミラ、という言葉が聞こえて、自分と同じ髪と瞳の色の男が父親であることを知る。カミラは絵本などで父親というものを理解していたが、実際に会った事は一度も無かった。
「カミラお嬢様の誕生日が近いですが、プレゼントはいかがされますか」男に聞かれた父親は「カミラ…ああ、あの女児か。何歳になるんだ」と聞き返した。
「今年で五歳になられます」
「そうか。社交をしている訳でも無いし、特に何もいらないだろう」父親は簡単に答えた。「それより来月、マークの二歳の誕生日はどうなってる。嫡男のお披露目だ」
「そちらは奥様が進めていらっしゃいます」
「そうか。どうせならその日に、カミラも一緒に披露すれば面倒が無いんじゃないか」
その言葉に男は渋い顔をした。
「カミラお嬢様は平民同然のマナーしかお出来にならないので、マーク様の誕生日に皆様にお目にかかるなら、今から急いでマナーを習いませんと。二歳のマーク様と違いもう五歳ですから、きちんと出来ないと恥をかきます」
「何だと。そんなに出来が悪いのか。先が思いやられるな」
カミラは、毎年乳母とトムに誕生日を祝ってもらっていた。庭師のベンも一輪だけ花を切って贈ってくれた。誕生日の日は、乳母は料理人に頼んでいつものデザートに少しだけクリームを増やして貰い、三人で嬉しく頂くのだ。編み物の上手な乳母がトムとお揃いで編んでくれた手袋は、カミラの宝物だ。昨年弟の一歳の誕生会が邸の中で盛大に行われていても、自分にはこの三人の誕生会があると思えば、カミラは寂しく無かった。
『本当か?弟は今年も山の様にプレゼントを貰うぞ。お前は乳母もトムもいなくなって、誰からも祝われない』クツクツと笑う声がして、カミラは惨めな気持ちを抑えられずに悔し涙が流れた。蛇の笑う声がますます大きくなり、耳を塞いだ。
『最後だ』と言う声と共に現れたのは、水の底に横たわるトムと、沈んでいく乳母だった。
「乳母や!トム!」目の前の光景に縋りつこうとしたが、カミラは動けない。
生きているのか分からないトムの許に乳母がたどり着いた時、大きな光が水底から差してきて二人を包んだ。光に目がくらんだカミラは一瞬目を閉じ、次に目を開けた時二人の姿はもう見えなかった。
「どこにいるの。トム、乳母や、返事をして」
『良い事を教えてやろう。乳母とトムは、もうこの世界から姿を消した。お前が水底の王子を見たいというからあの子どもをあそこへ送ったが、忌々しい力が母親と一緒にどこかへ逃がしたらしい。俺はお前があの石を持ち上げてくれて、外に出られたから構わないがな』
「どうして、どうしてトムを水の底に送ったの。私は王子様に会いたいって言っただけよ」
『お前の王子は、あの子どもだっただろう』嘲笑う声に、カミラは「もう嫌よ、もうこんな事はやめて。何も無かった事にして」と泣きじゃくった。
すると、蛇の声の調子が変わった。
『全部無かった事にして忘れたいか』
カミラは顔を上げた。「忘れたらどうなるの」
『何も思わなくなって、苦しくなくなるぞ』ワクワクしている様な蛇の声に、心のどこかで警鐘が鳴ったが、カミラには二人がいなくなった事が苦しすぎて耐えられなかった。
「全部忘れたい」
カミラが口に出した途端、二人と過ごした日々の記憶が空っぽになった。
乳母とトムと三人で幸せを感じた日々が無くなり、カミラの記憶の全てが寂しさと口惜しさ、悲しみと憎しみだけに変わった場所に蛇がやって来た。
『ああ、お前の心の暗闇はとても良いな。俺はお前がここに来た理由が最初から分かっていたが、あの二人が邪魔してたんだ。これからは、俺と二人で仲良くやっていこう』
クツクツと嗤う声を聞き再び眠りに落ちたカミラが、次に目を覚ました時、彼女は全く違う少女に変わっていた。
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