122 旅立ち3
応接室に入ったローズとフリードは、メイドがお茶と菓子を置いて去った後、しばしの間顔を見合わせ沈黙していた。
思い出の中にある面影を探すと、少し鋭角になった頬のラインと思慮深くなった瞳の色を見つけ、離れてからそれぞれの過ごした時間を感じ、辛く困難な経験をしたであろう相手を慮った。
しかしやがてお互いが纏う空気の中に、変わらない穏やかな明るさを見出した二人は、勇気を出して同時に声を発した。
「あの」
「あなたから」「君から」と慌てて先を譲り合ってから「じゃあまず最初に、お互い自己紹介をしないか」とフリードが提案した。「僕達は、ずっと自分の名を隠していたから」
「そうね。そうすべきね」
「僕の名前はフリード・カラバン。あの悪名高いカラバン子爵家の次期当主になる予定でいる。どうかフリードと呼んで欲しい」フリードが言うと、ローズも「私は今は平民で、ただのローズ。あの頃の名はローズ・アマンド。あの悪名高いアマンド男爵家の養女だったわ。私の事も、ローズと呼んで」
自分の家名を知られ嫌われる事を恐れ、距離を縮められないでもどかしい思いをした二人は、遂に相手を知って名前を呼び合える様になった。
自己紹介をした後、最初にフリードにお礼を言いたかったローズが話をした。
「フリード。私は学院では友達も居場所も無く孤独だったけど、あなたに会えてから図書室で昼食を取る時だけは、穏やかに過ごせた。
あなたが私の為に持って来てくれる林檎も、本当に嬉しかった。最初は偶然だったと思うけど、あの頃の私がいつもお腹を空かせているのが分かっていたから、いつも持って来てくれたのでしょう?そのお礼をきちんと言いたいと、ずっと思ってたわ」
ローズはまっすぐ、懐かしい黒曜石の瞳を見て礼を言った。
「ローズ。僕には少数の友はいたけど、やはり周囲からは偏見を持たれていたから、君と同じで心が休まる時間は少なかった。
僕にとって図書室は入学当初からの隠れ家で、君に会えてからあそこは、何と言うか…学院で初めて心躍る場所になった。林檎は、実は最初から偶然じゃなかった。僕は君にあげたいと思って、わざと転がしたんだ」
フリードの頬は赤くなっていて、あの頃と同じ少年の顔が蘇った。
ローズは眩しそうに彼を見ると「そうだったの。ありがとう。とても美味しい林檎だった」と笑った。
「君が姿を見せなくなってからも、毎日林檎を持って図書室に通っていた。そうしたら、あの日、君からの手紙とこのハンカチが置いてあった」フリードは胸の内ポケットから、林檎が黒くなってしまったハンカチを取り出し、テーブルに置いた。
「ガードナー伯爵夫人が、この刺繍に籠められた君の聖魔法のお陰で、僕の命が助かったのだと教えてくれたよ。僕こそ君にお礼を言わなければならない。君は僕の命の恩人だ。本当にありがとう」
ローズは手を伸ばしてフリードの出したハンカチを手に取って、懐かしそうに刺繍に指先で触れた。
「これがフリードを救ったのなら、あの頃の私が報われる。あなたにはもう二度と会えないと思いながら、気持ちを籠めて林檎を刺したから」
「僕は、君の家に婚姻申し込み書を送ったんだ」
ふいにフリードが打ち明けた言葉に、ローズは持っていたハンカチを取り落としそうになる程驚いた。
「そんなはずは…。だって、あなたは私の名前を知らなかったのに」
「僕の数少ない友人の一人が、僕達が図書室で過ごしているのに気が付いてね。君が誰なのか調べてくれたんだ。それで僕は母に頼んで、急いでアマンド男爵家へ婚姻申し込み書を送って貰ったんだ。君が卒業してしまったら、間に合わないと思ったから」
「私…。全然知らなかった。カラバン子爵家の話はアマンド男爵夫妻から出ていたけど、それは当主であるあなたのおじい様の後妻という話で、まさかあなたが申し込みをしてくれたなんて」
「うん。それも結局アマンド男爵家から断りの返事を貰って、無かった事になったけれど。こちらでも父が、僕の代わりに君を娶ろうと企んでいたのが分かったから、その時は断って貰って良かったと思った」
「お父様が、そんな事を」ローズはカラバン子爵家に到着した時、マーサとフリードがいる扉の間で暴れ、罵っていたフランクを思い出した。今はもう魂も壊れてしまい、自分を失っているフリードの父親。
「もしあなたからの婚姻申し込みだと知っていたら、男爵家は何と返事したのかしら」
ローズは、フリードに会わなくなり終わったと思っていた物語が、自分の知らない所で思いも寄らない形で続いていたのを知り、それに驚くと同時に、あったかもしれない未来を考えてしまった。
(もしもあの時フリードが私に打ち明けてくれていたら、私はどうしただろう。彼と歩む未来を望み、進めたのだろうか)
「君が姿を消す前に、勇気を出して僕の名前も気持ちも、全てを打ち明けて、君に面と向かって愛を乞うていたら何かが変わったのかと、何度も考えた」
やがてフリードは、ローズの考えと同じ仮定を口にした。
「だけど運良く君が僕の想いに応えてくれ、何とかして婚姻出来たとしても、この家と僕達の置かれた状況では、君と幸せになれたとはどうしても思えなかった。
家を捨てて二人だけで逃げればもしかしたら、と考えた事もあった。
母は僕がそれを願えば、自分の命を危険にさらしてでも手助けしてくれただろうが、そのせいで母が辛い状況に陥ったとしたら僕は幸せになれない。
だから僕は君を諦め、シュタイン家で幸せに暮らしてくれる事を祈るしか出来なかった」
「シュタイン家に行ったのを、あなたは知っていたの?」ローズはまたしても明かされた事実に驚き、顔を上げた。
「うん。さっき話した友達はとても顔の広い人間で、無理して君の行方を調べてくれたんだ。彼は一度、君とシュタイン伯爵を王都で見かけたとも教えてくれた。君はとても元気そうで、大切にされているようだったと。…だから僕は安心して、もう‘’もしかしたら‘’を考えるのを止めた」
フリードがそう言うのを聞いたローズは、同じような経験を自分も持つのを思い出し、思わず勢い良く同意した。
「私も。あちらの世界で両親と過ごして別れた後、‘’もしかしたら‘’を考えるのを止めたの。
それより今ある物事に感謝して、これからどうするかを考えようと思った。
だからフリードがそういう気持ちになったのは、良く分かる」
「分かってくれて嬉しいよ。僕は君のその強さと、悪い事ばかりの中でも美しい喜びを見つける心に惹かれたんだ」
「私はあの頃、何ひとつ自分では選べない未来の前で、このままずっと、あなたとここにいたいと思っていたの。どこにも行けなくて良い。ここに留まっていたいと」
フリードとローズは心を打ち明け合うと、互いの目を見て笑顔を作った。笑顔を作れば、悲しみが薄まるのを二人共知っていた。
あの頃の気持ちに嘘は無く、お互いをこの上なく大切に想っていた。けれど今それは、あの時、あの場所に閉じ込めておくべき美しい思い出だと分かって微笑んだ。
二人は思い出を宝物とし、それぞれが鍵を持つ自分だけの宝箱に大切に納め鍵をかけた。
「それで、これからローズはどうするんだい。聖女となった君は、王族にも尊重される立場だよ。シュタイン伯爵は良い方だが、最初の経緯を考えれば、このままシュタイン家で生きる必要はないだろう」
「そうかもしれないわね。あのね、フリード。実は私にはシュタイン伯爵との間に男の子がいるの。私にとって他の事はどうあれ、あの子がこの世界で一番大切な存在なの。
同時に女神様が与えて下さった聖女の力も、きちんと人々の為に使わなければと思っている。だから色々な事を沢山考えてから、自分で答えを出すつもり」
「そうか。今の君の前には、何でも自分で選べる未来が広がっているんだ」
良かった、と言ってフリードは笑顔を見せた。いつかローズを幸せにしたいと願ったフリードは、自分と道が分かれたのだとしても、幸福そうな彼女を見られて心から嬉しかった。
そろそろ皆の所へ戻ろうという時、ローズがこれをと言って二枚のハンカチを差し出した。昨夜遅くに彼女が刺繍を施したハンカチと、さっきフリードが彼女に見せてくれた古い方の、刺繍が黒くなったハンカチだった。
「これは」
フリードが気づいて古いハンカチを広げると、黒くなっていた林檎が浄化されて赤い色を取り戻し、その上で再び聖魔法が籠められていた。
もう一枚の新しいハンカチの林檎は緑色で、こちらにも聖魔法が籠められ、持っていると温かい気持ちがした。
「もう悪魔はいないけれど、これからも悪意や邪気に攻撃される事があるかもしれない。その時にあなたと、あなたの大切な人を守れるように渡しておくわね」
「ありがとう。お礼に今度、領地の林檎を沢山送らせてもらうよ。…これからは君に手紙を書いても良いかな」フリードが目を潤ませ、そう尋ねた。
「勿論よ。私も手紙を書くわ。あなたの領地の林檎、大好きだからすごく嬉しい」
二人はどちらからともなく右手を差し出し、固く握手を交わした。
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