121 旅立ち2
マーサが用意した花を持って皆でその場所へ向かうと、薄暗く澱んでいた空気が消え、明るい日差しと共に柔らかい風が吹いて来るのが感じられた。
「もうこの場所は、完全に浄化されています」
ローズが言うと、それを聞いたマーサは涙をため、今日まで胸に抱いてきた思いを口に出した。
「それを知って本当に嬉しいです。私はイブリンや皆を、絶対に陽の光の元へ帰してあげたかった。その為に沢山の悪事を見逃して生きてきた私は、フリードが無事に爵位を継いで軌道に乗るのを見届けたら、神殿に入り女神様に仕えて、罪を償いたいと思います」
「母上、それは」初めて聞く母の決心に狼狽えるフリードに、マーサは笑顔を見せた。
「フリード、大丈夫。私がいなくなっても、あなたは立派にやっていける。本当はこれを成し遂げる為に、私はあの人達と刺し違える覚悟でいたの。
それが女神様と皆さんのお陰で、こうして生きている間に奇跡を見届けられたんですもの。もう思い残す事無く、残りの人生は女神様に捧げられる。皆の名前を刻んだ墓碑を建て終えたら、神殿に行く時期を考えるわ」
それからマーサは、改めてローズへの感謝を口にした。
「ローズさん。もう一度心からお礼を言わせて下さい。あなたが聖女の力で悪魔を倒して下さったお陰で、私達は救われました」
「私は女神様に力を授かり、自分の役割を果たしたに過ぎません。お礼は女神様に、祈りの中でおっしゃって下さい」とローズは答えた。
それからフリードの方を見ると「私も、ご子息にお礼を言いたい事があります」と遂に口にした。ローズの言葉にマーガレットは目を見張り、ケイトは小さくうなずいた。
「息子に礼をですか?」マーサはまさか今、ローズの口からそんな言葉が出るとは思っていなかったので、驚いて聞き返した。
「はい。私が学院で最後の年に、ご子息のお陰でどれだけ心を救われたか、ご存知ではないでしょう。その事でお礼が言いたいのです。出来れば後で、二人でお話をさせて頂けませんか」
「え、ええ。勿論、私は構いません」マーサが是非もなく承諾してフリードを振り返ると、彼は無意識に胸元に手をやって静かにローズを見ていた。
女神の光と共に皆の魂が昇って行った場所に花を手向け、思い思いに祈りを捧げて邸へ戻ると、ローズはフリードと話す為に二人で応接室へ向かった。
結婚していない男女が二人きりで同室にいるのは普通は問題になるが、ここにいる人々の中にローズを疑う人間は誰もいなかったし、悪意や邪悪に敏感なマーガレットがフリードの人柄を信用しているので、そういう心配は誰もしていなかった。
ただトーマスだけは、どうして二人が知り合いなのかも分からず、カラバン子爵家との因縁もあった為、気が気でない様子が隠せなかった。
メイドに二人へお茶を出す様に頼み、他の五人がいる部屋にもお茶と菓子を用意してマーサが戻ってくると、トーマスは我慢できずに質問した。
「夫人、ご子息はローズと知り合いなのですか」
マーサはトーマスとローズがどういう関係なのかを知らず、ただシュタイン家を逃げ出したタミーとクラウスの後を追ってトーマスが、そして聖女としてローズが悪魔退治に訪れたと思っていたので、特に隠す事無く答えた。
「はい。二人は学院で知り合いだった様です。…実はローズさんが卒業する直前に、私は息子からローズさんと結婚したいと願われて、アマンド男爵家へ婚姻申し込み書を送っていました。けれどアマンド男爵家から断りの返事が来て、それは実現しませんでした」
「そんな事が…」トーマスは全く知らなかった話にショックを受け、そのまま黙り込んだ。
「もちろん息子は悲しみました。けれど結果的に、アマンド男爵家が断ってくれて良かったんです」
「どうして良かったんですか」
マーガレットが、黙ってしまったトーマスに代わって尋ねた。
「実は夫のフランクが、アマンド男爵家から承諾の返事が来たら、私を離縁して自分がローズさんを妻に迎えようと画策していたんです。申し込みには相手が『カラバン子爵家令息』としか書かれていませんでしたから、自分も子爵家令息だという理屈で通すつもりだった様です。申し込みを断られて怒った夫が口を滑らせた事で、私達はその企みが分かりました。そうと知った息子はローズさんがこの家に来ないで済んで、本当に良かったと言っていました」
マーガレット達は父親としてあり得ない酷い計画を聞いて、フランクに回復の見込みが無いと聞いたフリードが『ある事をきっかけに、この人を父親とは一生思えなくなりました』と暗い目で言った意味が分かった。そこまでの事をされてきたからこそ、彼はあの男を見限ったのだろう。
「自分が望んでいた未来を手に入れられなかった時に、相手が不幸にならずに済んだ事を喜べるなんて、素晴らしい息子さんですね」ケイトが、しみじみした口調でマーサに言った。「幸せな時に他人を思いやるのは容易いですが、自分が不幸の底に沈んだ時、人の幸運を喜べる人は少ないです」
「ありがとうございます」マーサは感謝の目をケイトへ向けた。
「私はこの狂った家で、あの子が正しさを失わず成長出来る様心を尽くしてきました。あの子も学院では辛い事が沢山ありましたが、こうして真っすぐに生きている姿は、私の誇りです」
「ローズも、学院では辛い事ばかりでした」マーガレットも思わず口を挟んだ。
「アマンド男爵家の評判はご存知ですよね?
私はローズの一つ上の学年で、彼女が内職をして、刺繍した小物を卸していたお店で知り合いました。その頃の私は刺繍が苦手で、授業料を払うから刺繍を教えて欲しいと彼女に頼み込んだんです。
ローズは私に、働いてお金を稼いでいるのを皆に知られたくない、だから刺繍の内職をしているのも、私に教えているのも秘密にして欲しいと言いました。だから私たちが会うのはいつもカフェの個室で、極力人目に付かない様にしていました」
マーサには、肩身の狭いローズの境遇が良く理解出来た。
「カラバン子爵家が他家の事を言えた義理では無いですが、アマンド男爵家の評判も負けず劣らずですから、ローズさんも学院では周囲の目が厳しかったのでしょう。事情はよく分かります」
「ローズは自分へ向けられる視線も気にしていたのでしょうが、本当は自分と関わって、私が変な目で見られるのを心配していたのだと思います。
だから神経質な程、私達の関係を隠していました。彼女は自分の方が辛いのに、人の心配を出来る人です。だから私は、彼女が大好きなんです」
「フリードも、そんな風に言っていました。彼女は家で不遇でもその愚痴を言わず、楽しかった事や嬉しかった事を話してくれるのだと。自分はあれ程心の綺麗な人を見た事が無いと、話していました」
マーサはフリードが頬を紅潮させ話していた姿を思い出し、寂しそうに微笑んだ。
「だけどローズは、今回カラバン子爵家へ行くと決まった時も、自分の知り合いがいると言ってなかったよな。あれは何でだったんだろう。ご子息は結婚を考える程だったのに、彼女は忘れてしまうなんてあるのかな。それともあちらの世界に行った時、記憶が抜け落ちてしまったんだろうか」トムが思い出して、不思議そうに言った。
「それはフリードが名前を名乗っていなくて、ローズさんはフリードがカラバン子爵家と知らなかったからです。ローズさんも自分が誰なのか伏せていたので、フリードもずっと彼女が誰なのか知りませんでした。それを見かねた友人が、彼女がアマンド男爵家の令嬢だと調べてくれて、初めて知ったそうです」
「じゃあ、二人は互いの素性を言わずに会っていたという訳か」トムが感慨深げに言った。「きっとそれで救われていたんだろうな」
「ご子息は、今もローズの事を愛しているんでしょうか」
ずっと黙っていたトーマスが、突然口を開いた。
マーサが質問の内容に戸惑い、とっさに答えられずにいると、アランがトーマスを諭した。
「トーマス。今その質問をしても仕方ないし、夫人も答えを知らないだろう。いや、今は本人も分からない事かもしれないよ。
俺達は二人の話が終わってから彼らの様子を見て、彼らが俺達に伝えてくれる事を聞き、これからどう振る舞うかを考えるべきだ。だけど絶対に、自分独りで考えを進めるな。それをしてしまったら、最初の出会いと同じく彼女の意思が置き去りになる」
「そうか…。そうだな。俺はまた彼女の人生を勝手に解釈して、良かれと思った行動を取る所だった」
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