12 レイモンドの誕生
昨夜から産気づいたローズにシュタイン邸の離れはいつになく人の出入りが激しく、早朝から緊張がみなぎっていた。
トーマスも昨夜短時間の仮眠を取っただけで目が覚めてしまい、出来る事もないのに離れの階下の居間に待機して、ひたすら子の無事な誕生を祈っていた。
カミラは医師と産婆が到着し「初産ですから十時間程度はかかるでしょう」と言われると、「では子が無事に産まれたら呼んでちょうだい」と本邸へ戻り、通常の予定通りの一日を過ごしていた。
「ローズは無事なんだろうな」何度目かのお茶を持って来たメイドへ、トーマスが何度目かの同じ質問をした所で二階から大きな泣き声が聞こえてきた。
「生まれたのか!」
階段を駆け上がり寝室の前に来るとちょうどドアが開き、疲れた顔をした産婆が出てきた。
「無事か⁈」
「お二人とも無事です。元気な坊ちゃまですよ」
「男子なのか」
トーマスが部屋に飛び込むと、産後の処置を終えた医師が手を洗いながら、笑顔でこちらを振り返った。
「おめでとうございます。母子ともに無事です。男の子ですよ」
医師が身体をずらすと、青白い顔で横たわるローズが見え、その横で看護婦が赤子に産湯を使わせていた。動転していて気づかなかったが、赤子はいつの間にか泣き止んで、綺麗なタオルに包まれてすやすやと眠っている様だった。
「ローズ。よく頑張ってくれた。ありがとう」トーマスが近寄って行くと、医師は「それでは私はこれで」と部屋を出て、看護婦もローズの横にそっと赤子を置いて去った。
「トーマス様」ローズは潤んだ目でトーマスを見て微笑んだ。
「ありがとう、無事に産まれて良かった。本当にありがとう」壊れた機械の様に同じ事を繰り返すトーマスはローズの手を握り、髪を撫ぜ涙をこぼした。
「男の子、後継ぎが出来ましたね」
「ああ、ああ、そうだね。なんてかわいいんだ」
「トーマス様と同じ黒髪です」
言われてみると、髪だけでなく顔立ちも自分に似ているようだった。まだ目を開けないので瞳の色は分からないが、なんとなくそれも同じ茶色のような気がする。
「君に口元が似ているような気がするよ」
「そうですか?」
ローズも疲れた様子ながら、赤子を見て幸せそうな笑顔を見せた。
その時ドアの所に人影が見えて二人が目を向けると、男児誕生の報告を受けてやって来たカミラだった。
「シュタイン家の跡取りが無事生まれて良かったわ」
彼女はツカツカと近づいて、トーマスの前に割り込んで赤子を抱き上げ、じっと見つめてから「黒い髪なのね」とつぶやいた。
そして興味を失った様子で赤子を寝かせると「名前はレイモンドにしましょう。男の子ならレイモンドが良いと思っていたの」とトーマスに話しかけた。
「ね、トーマス。レイモンド・シュタイン。良い名前だと思わない?」
「あ、ああ」トーマスが曖昧に同意すると満足気にうなずき「じゃあ私はこれから教会の慰問があるから、失礼するわ」ローズに一瞥もくれないまま去って行った。
カミラが立ち去ってトーマスが気まずげにローズを見ると、彼女の顔色が紙の様に白くなっているのに気づいた。
「大丈夫か」慌てて尋ねると、ローズは震える手を伸ばしてトーマスの腕をぎゅっと握った。「トーマス様。お願いがあります」
顔を強張らせて言葉を振り絞る様子に男爵家との絶縁を願った時の彼女を思い出し、「お願いって何だい」震える声で尋ねた。
トーマスは、この自分の子を産んでくれた可哀想な女の願いを、何としても叶えてやりたいと強く願った。
「名前はレイモンドでもなんでも構いません。けれどこの子を、少なくとも物心ついて教育が始まるまでは、私から取り上げないでくれませんか。
この子の記憶が曖昧な間だけで良いんです。私がこの子を愛して、愛された事がある時間を残してあげたいんです。カミラ様は、この子を愛さないでしょう」
涙を流しながら懇願するローズと隣で眠る赤子を、トーマスは覆いかぶさるようにして抱きしめた。
「分かった。カミラが何と言おうと、少なくとも三歳までは君とこの子を離さないと約束する。僕はこの子もローズも愛している。君たちを必ず幸せにすると誓うよ」
その夜晩餐を終えて夫婦の部屋に二人になった時、トーマスはカミラに話をした。
「カミラ。赤子の名前はレイモンドにする。ローズも同意してくれた。
それでレイモンドの養育だけど、赤子は最初母親の乳を飲ませる方が丈夫に育つと医師も言っていたし、少なくとも三歳まではローズの元で育てる事にしようと思う。貴族としての教育はせいぜい五歳からだから、それで良いだろう」
「レイモンドは私の子よね」カミラの目が細くなると、トーマスは以前と同じく、何かに締め付けられる様に苦しくなった。
「カミラ」それでも今回は引けないと声を絞り出し「赤子のうちは誰が母親かなんて分からないし、君も家政や社交があるから、どのみち自分で世話なんて出来ないだろう。それを生みの母がやると言っているんだ。有難く任せよう。何と言ってもレイモンドへの愛情があるから、他人の乳母よりずっと信頼出来るだろう」
「愛情…ね。私には愛情が無いって言いたいのね。そうね、私には愛情なんて無いわ。あなたはあの人にも子どもにも愛情があるようだけど」
「ローズは俺たちの為に、命がけでレイモンドを産んでくれたんだ。愛情も感謝もあって当たり前だろう。逆に君は何も感じないのか。今日も出産を終えた彼女に、感謝の一言も無かった」トーマスは気色ばんでカミラを問い詰めた。
「あなたは何か勘違いしている様ね。こちらは報酬を支払って、そういう役割としてあの娘を買ったの。その上あの娘のお願いを聞いて、実家と縁も切ってあげたのよ。果たすべき役目を果たしただけの者に、何故私が感謝しなければいけないの。
…まあ良いわ。あなたが当主ですもの。レイモンドを三歳まであの娘が養育する事は認めましょう。但しあなたも当主として、今後は正妻の私との閨の義務を果たしてくださいね。あなたが以前おっしゃった事でしょう。私との子が出来ると信じているって」
喋り続けるカミラから闇の魔力が立ち昇り、身体を締め付ける力が強まった。
「わ…分かってくれたらいいんだ。俺も当主の義務は果たす」
「そう、それならよろしくお願いしますね。私は今日は疲れたから、自分の部屋で休むわ」
音も無くカミラが立ち去った後、未だ何かに縛られ動けない錯覚にとらわれたトーマスは、そのまましばらく固まったままでいた。
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