117 決着3
「どうして。こんな、刺繍が黒くなるなんて」
「それは、あなたを守ってくれた証よ」
愕然とした様子で気落ちするフリードに、マーガレットは教えた。
「刺繍に籠められた聖魔法が、あなたを襲った蛇を追い払ったの。その時力を使って黒い魔力を吸い取ったから、刺繍が黒く変わったのよ」
私の刺繍もそうなるわと言って、マーガレットはさっき倒れた男の上にかけていたハンカチを取り上げ、代わりにもう一枚新しい物を置いて戻って来た。
「ほら、見て」と広げたハンカチの刺繍は黒くなっていた。それは簡単にマーガレットの花が刺された物で、一連の事件が始まって以来、悪魔の攻撃に備えて彼女が日々、出来る限り多く作成してきたハンカチだった。
「こっちが元の花の色よ」マーガレットがまだ使っていないハンカチを出して見せると、花びら部分は白に花芯は黄色に彩られていた。
「本当だ。…あの男が黒い魔力に侵されていたから、この花の色が変わったんですね」
「そう。さっき私の放った聖魔法を直接受けて、悪魔の支配が解けて気を失ったけど、長い間かけて浸透していた魔力はなかなか抜けきらない。だから起きた時暴れない様に、聖魔法を籠めたハンカチをかけておいたの。こうすれば少しでも正気に返るから。私の聖魔法ではすぐに黒くなってしまうけれど、やらないよりはやった方が良いわ」
「だからこそ悪魔は、蛇を退散させるほどの力は、聖女の力だと考えたんだと思います」ケイトが言った。「先ほどこれは誰かに貰った物だとおっしゃいましたが、その方はどなたでしょう。きっと、その方も聖女の力を持っていらっしゃると思います」
「これは…学院時代に、名前も知らない女性から頂いたものです」フリードは言いづらそうに答えた。
「その方の名前もご存知無いのですか?それなのに、刺繡した物を下さったのですか」多少なりとも貴族の事を知るケイトは、学院というなら貴族女性だろうに、見知らぬ男性に自分で刺繍した品をあげるなんて信じられないと言う顔をした。
マーガレットはどうしたら良いのか分からず、口を挟まないで聞いていたが、フリードがハンカチをローズから貰ったのが学院時代だと知って、驚いていた。
(その頃ローズは、まだ聖女として覚醒していなかったはず。それなのに彼に渡した刺繍が力を発揮するなんて、よほどの想いを籠めて刺した刺繍なんだわ。だから彼女が聖女として戻ってきた後で、彼を守る力を持ったんだろう。彼女の名前も知らないと言っていたけど、どういう知り合いだったのかしら)
そこまでローズが彼を大切に思っていたとしたら、さっき彼を見た時気がついたに違いない、とマーガレットは考えた。
(ローズは何も言わなかった。勿論今はそれどころじゃなくて、悪魔との闘いを最優先にしたのだろうけど。学院時代の彼女がこの人を愛していて、今もまだ心が残っているのなら…私はローズの力になりたい)
そう思ったマーガレットが、更にフリードにローズについて尋ねかけた時、暗闇だった窓の外に突然光が溢れた。
急いで窓辺に駆け寄り、闇を打ち払う光の矢が無数に放たれるのを見たマーガレット、ケイト、フリードは、あの矢は聖女による女神の力の行使で、悪魔へと加えられた一撃だと確信した。
「ケイトさん、あれはローズの聖女の力ですよね。これで悪魔は滅ぼされるでしょうか」マーガレットが興奮して聞くと「あれだけの聖なる力です。きっと悪魔も消え去ると思います」とケイトも自信を持ってうなずいた。
勝利を信じて喜色を浮かべる二人の横で、フリードは色々な思いに囚われながら、母マーサの無事を祈り、聖女と呼ばれるローズを心配していた。
(僕が何も出来ずにここで寝ている間に、彼女は闘っていたんだ。ずっと心の清らかな人だと思ってきたけれど、まさか聖女だったなんて。母もローズも、二人共どうか無事でいてくれ)
しばらくすると光が消え、窓の外に静かな夜の風景が広がった。空には月が光り星空が見え、三人は歓声を上げた。
「雨と雷は去りました。皆さんが勝利した証拠です。きっともうすぐ戻ってくることでしょう」ケイトが言うと、マーガレットは「アランを迎えに行くわ」と言って急いで部屋を出ようとした。
「あら、マーガレット様。アラン様が、ドアを開けるまでじっとしている様にとおっしゃったじゃありませんか」ケイトがからかうと「いくらアランでも、無いドアを吹き飛ばせないわ。もう開いてしまっているんだから、私から出て行っても構わないでしょう」マーガレットも笑顔で返した。
フリードも「僕も母が心配なので、ご一緒させて下さい」と言って、三人は倒れている下男の刺繍の色が変わっていないのを確認すると、そのまま壊れたドアから出て階下へ向かった。
階段を降りていくと、ちょうどアランが運んだ使用人達とタミーを玄関ホールに下ろし、トムと二人で床に並べているところだった。トムはケイトを見つけると「母さん!」と顔を輝かせ「俺達、悪魔を倒したよ」と声を上げた。
「トム!無事で良かった」ケイトがトムに駆け寄り抱きしめ、トムも抱き返しながら「皆無事だよ。ローズ達は後から来る」と教えた。
マーガレットもアランに駆け寄り、怪我が無いのを確認して安堵した。
「アランも無事で良かった」
「君も無事で安心した。しかし、部屋で待っている様に言っただろう。じっとしていなかったんだね」アランはマーガレットを優しく抱き寄せながら、半分本気、半分ふざけて咎めたが、マーガレットは「だって、窓からローズが放った光の矢が見えたのよ。あれで大丈夫だと分かったわ。それに私達のいた部屋のドアは枠から外れてしまって、もう開いているのよ」と教えた。
「何だって」
「心配しないで。操られた下男が、ドアを壊して押し入って来ただけだから。私が聖魔法を命中させたら倒れて、気絶しまったわ」とマーガレットは笑った。
そこで皆の様子を見て、声をかけるかためらっていたフリードは、明るい月の光が差す庭の小径を歩いて来るマーサを見つけた。
「母上!」叫んで駆け出そうとしたが、続いてやって来たローズとトーマスを見て、一旦足を止めた。
しかしマーサに「フリード!」と名前を呼ばれて、玄関から走り出た。
「母上、ご無事で良かった」「フリードも助かって良かったわ」
マーサとフリードが固く抱き合い、互いの無事を喜び合うのを、トーマスの後ろでローズは優しい目で見つめ、そんなローズをマーガレットは気づかわし気に見ていた。
「初めまして。私が次期カラバン子爵のフリード・カラバンです。皆様の御力でこの家の闇を晴らす事が出来、私の命も助けて頂きました。本当にお礼の仕様もございません。ありがとうございました」
あれから使用人達は次々に意識を取り戻したが、操られている間の記憶は一切残っていなかった。短期間しか操られなかったのが幸いして、玄関ホールで目覚めた彼らは、自分達が何故こんな所で寝ているのかと驚き、慌てるばかりだった。
塀にぶつかった際負傷をした者は数人いたが、それも軽い怪我だったので何事も無く起き上がり、通いの者達は訳の分からないまま家に帰って行った。
ただ、深く操られていた住み込みの下男達とタミーは目覚める気配が無かった為、北の棟の部屋にそれぞれ寝かせ、部屋に鍵を掛けた。闘いの前に閉じ込めておいたフランクも、未だ目覚める様子は無く眠り続けていた。
彼らには、明日落ち着いてからローズが浄化をかける事になり、その前に軽く夕食を取りながら話をしようと、一同は子爵邸の食堂に集まっていた。食事は意識を取り戻した料理人が、簡単につまめる程度のものを用意してくれた。
「あなた方のご助力のお陰で、犠牲になった女性達が女神様の手で浄化され、天に召される事が出来ました。私の長年の悲願を叶えて下さって、ありがとうございます」マーサもフリードと共に頭を下げ、感謝の言葉を述べた。
トーマスは「いや、どうか頭をお上げ下さい。元々はクラウスもタミーも、我が家からカラバン子爵家へ流れ着いたのです。私達はそれぞれが、あの悪魔との因縁を持っていました。こうしてお互いに協力して闘いを終えられ、こちらこそ感謝をするべきなのです」と慌てた様子で答えた。
「そうです。私達母子も何年も前からの悲願を果たす為に、ようやくここに辿りついたのですから」「その通りです」ケイトもトムもそう言って、頭を下げるマーサとフリードを押し留めた。
シュタイン伯爵から慌ただしい先触れが送られてから、後は矢継ぎばやに起こる出来事に対応するのがやっとだったカラバン子爵家の二人には、トーマスやケイトの言う皆の事情は全く飲み込めていなかった。
その為、それからかなり長い時間を使って、トーマス達は彼らに話せる範囲の出来事で、かつ話す必要のある事を説明した。話を聞きながらマーサとフリードは、悪魔と関わった人々の数奇な運命に驚き、畏れ、涙し、そして最後に女神の救済が為され、ここで決着がついた事に安堵した。
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