115 決着1
悪魔の蛇が塵となり消えたカラバン子爵邸には、さっきまで黒い雲と雨、稲光で覆われていたのが嘘の様に、月と星が輝く夜空が広がっていた。澄み渡った空気の下、ローズとトムは二人とも、しばらくの間呆然と立ち尽くしていた。
やがて爽やかな風が吹いて来て、二人の鼻先を撫ぜた。少し冷たいそれに我に返った二人は、どちらからともなく視線を合わせて互いが無事だと確かめると、無言のまま一歩一歩近づいた。
正面に来たトムが右手を差し出し、ローズも同じように差し出した右手で、しっかりと力を籠めた握手を交わした。
「やったな、ローズ。すごかったよ」「ええ。トムも勇敢だった」
改めて見直してみると、散々蛇を殴りつけ傷んでいるはずのトムの手は傷一つ無く、全力疾走して魔法を放ち、乱れていたローズの髪も服も、今身支度を終えたばかりの様に整っていた。
今の出来事が夢の様に思えて辺りを見回すと、レイモンドのダリアが依然として輝きを放って存在しているのが見えた。
「ダリアが、残ってる」
二人は輝く花の前に歩み寄って、自然に手を伸ばし、閉じられた花びらに触れた。
するとダリアは輝きを撒きながら溶け始め、それが消え去った後には、花に包まれた時のまま、丸く固まり目を閉じて眠る三人の姿があった。
「トーマス様」ローズがそっとマーサを庇って伸ばされた腕に触れると、トーマスは目を開き茶色の瞳でローズを見た。
「ローズ」トーマスが状況が掴めずぼんやりとしている間に、アランとマーサも目覚めて辺りを見回した。
「俺達は、助かったのか」アランがつぶやき、マーサも「月が輝いて、星空が見えます」と言って、大きく息を吸い込んだ。
「蛇にもうやられると思った時、レイモンドのダリアが飛んで来て、俺達を包んでくれた様に思ったが。あの花が守ってくれたんだよな」
トーマスが花の行方を捜して辺りを見回すと、ローズが「レイモンドのダリアは立派に役目を果たして、消えてしまいました」と教えた。
それからトムが太陽みたいに笑って「悪魔は、ローズが女神様に授かった聖女の力で滅びたよ」と三人に告げた。「ローズが、立派にやり遂げた」
「トムも散々悪魔の蛇を殴りつけて、弱らせたんですよ。そこを光の矢で貫かれた蛇は、塵になって消えていきました。もう、この世界にはいません」ローズも笑顔でうなずいた。
「そうか。俺達はあいつにやられないで済んだのか」
眩しそうにローズの笑顔を見返したトーマスは「ローズ、トム、ありがとう」と言った。
「みんなの力ですよ、シュタイン伯爵。誰かが揺らいでいたら、きっとこう上手くはいかなかった」トムに肩を叩かれ、トーマスも笑った。
「そうか。そうだな」
「さあ、俺はマーガレット達の所へ戻って、ドアを吹き飛ばさなきゃ。よろしいですか、夫人」
アランに言われ、マーサも満面の笑みで答えた。
「はい。我が家のドアで良ければ、いくらでも」
その場を立ち去る前に一同は、意識を失って倒れている使用人達とタミーの様子を確かめに行った。
皆息をしていて生命に別状は無い様子で、彼らを吹き飛ばしたアランを始め、主人であるマーサも安堵した。しかし使用人達は石壁にぶつかった外傷が無い者も、悪魔の消失によって洗脳が突然解けた衝撃で、すぐに目覚める気配は無かった。
また、悪魔に長い間付き従っていたタミーと、共に過ごしていた住み込みの下男達は、他の使用人よりも深く眠っている状態で身じろぎ一つしなかった。
「仕方ないな。風魔法で皆一斉に邸内に運ぼう」アランがそう言って魔法を展開し、使用人もタミーもまとめて宙に浮きあがらせた。
「先に行っているよ」トーマス達に声をかけ、アランが浮かせた人々と一緒に歩き出すと、トムも「母さんが心配だから、俺も先に行く」と邸へ向かった。
残った三人は、邸に戻る前にもう一度『妻達の共同墓地』を見渡した。
「お二人も、彼女達が女神様に導かれて天に召されて行くのをご覧になりましたよね」
夢では無かったと確かめたくて問いかけるマーサへ、ローズもトーマスも、しっかりとうなずいて答えた。
「はい。皆さんの解放されたいという嘆きが、女神様に届きました。女神様によって光の粒に変えられ、天へ昇って行かれました」
「夫人のお知り合いの女性には、男性が迎えに来られましたね。二人共一緒に天に召されるのを、この目で見ましたよ」
そうですよね、とマーサは安堵して「この場所に満ちていた暗く澱んだ空気が、浄化されて澄んだものになった気がします」と微笑んだ。
三人は穏やかな安堵に満ちた気持ちで、邸に向かって歩き出した。
五人を送り出し、眠るフリードと共に残ったマーガレットとケイトは、すぐに部屋の鍵を掛けた。それから協力してドアの前に家具を積み上げ終わると、並んでソファに座り外の様子を窺っていた。窓から見える空はさっきから黒い雲に覆われて、雨が強く降って雷も鳴り始めた。
ケイトが「悪魔が現れる時は、こうして天気が荒れるのです」と言った。
「ローズさんのご両親があちらの世界で悪魔と闘った時も、街は雨に閉ざされていたと書いてありました」
「ローズのご両親を、ケイトさんはご存知なんですか」
「私とトムは、実際にお目にかかった事はありません。私達があちらの世界に移ったのは、お二人が悪魔との闘いで亡くなられた後だったんです。けれど神殿に残されていた文献を読んだので、おおよその話を知る事が出来ました。私達とカミラ様には悪魔との因縁があったので、何か手がかりが無いかと調べたんです」
「そうだったんですね。確か、ローズのお母様は聖女だったんですよね」
「はい。お母さまは聖女で、お父様は優れた土魔法の使い手だったそうです。あちらの世界では皆普通に魔法が使えて、聖女も特別ではなく、職業の一つなんですよ。お母さまは神殿に勤めて、お父様は役所で土魔法を生かして働いていらっしゃいました」
ケイトの話を興味深く、うなずきながら聞いていたマーガレットは「私はローズの清らかさが、長い間不思議だったんです」と言った。
そしてソファに深く腰掛け、背もたれに背を預けると、遠くを見ながら話し出した。
「私は学院の二年生の時、ローズと知り合いました。彼女の義理の両親は本当に酷い人達でした。あの義両親のせいで、ローズは苦労続きだったんです。それなのに、そんなひどい環境の中でも、ローズの心は全然汚れていませんでした。彼女は強くて、いつも美しかった。聖魔法使いとして生きてきて人の悪意に敏感な私は、彼女と出会って初めて、安心して心を許せる友が出来ました」
「ローズさんは、この世界で苦労されていたんですね…。
私には彼女のこちらでの生活は分かりませんが、あちらの世界のローズさんは、ご両親に大切に育てられ、心から愛されていました。もうお聞きになったと思いますが、彼女があちらの世界に戻った時、ご両親は彼女の為の世界まで用意していました。この世界で彼女に危険が迫ったら、そこへ逃がしてくれる様に女神様に頼んでいたんです。その世界の中で三人は、一時にせよ共に過ごせました」
「ローズはご両親に会えて、変わりました。以前も強く前向きに生きていましたが、戻ってからは、前よりも自分の人生を愛して、大切にしている様に思えます。きっとご両親は素晴らしい方達だったんでしょう」
しばらくしてケイトが席を立ち、眠るフリードの様子を見に行った。
フリードは顔色も良くなり、呼吸も穏やかに深いものに変わっていた。
「大丈夫そうです。本当に助かって良かった」ケイトがホッとしてソファに戻ると、マーガレットがケイトに尋ねた。
「ケイトさんはカミラ様に溜まった魔力を、長い間取り除いていたんですよね。その時もさっきの様に苦痛を伴ったのですか」
「はい。けれど聖女様に浄化して貰えば、回復しましたから」
「それでも、とても苦しそうでした…。ケイトさんは大変だったでしょうが、お陰でカミラ様が救われて良かったです」
「そう言って頂けて嬉しいです。マーガレット様も、カミラ様の為に嫌な思いをされていたでしょうに」
ケイトが王子に似ているアランを思い浮かべてそう言うと、マーガレットは苦笑いして言った。
「全くそんな事はないとは言えませんが…。でも、私がローズと知り合いになれて、その上刺繍も上手になったのは、間違いなくカミラ様のお陰なんですよ」
密やかな声で話し続けていると、黒雲の隙間から急に眩い光が差し込むのが見えて、二人は窓辺に駆け寄った。
「あれは、女神様の光です」ケイトが頬を紅潮させ、畏れ敬う様にマーガレットに告げた。
「奇跡が起きているに違いありません」
それに続いて天に昇っていく光の粒に、マーガレットは見覚えがあった。
タリム村の森で、シュタイン前伯爵達が浄化され、天に召された時と同じ光だった。
「きっとあそこに葬られていた女性達の魂を、女神様が救って下さったんだわ」
マーガレットとケイトは、その光が消えてしまうまで窓から見守っていたが、光が消えた後、再び景色は暗闇に包まれた。
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