111 巡り合い
部屋の中で外の物音を聞いていたマーサは、フランクの声が途切れた後、ドアの外からかけられた声に涙が溢れた。
一日早くて申し訳ないと無礼な訪問を詫びるシュタイン伯爵の声が、マーサの耳には女神様の福音に聞こえた。
マーサは何とか声を張り上げ、その声に答えた。
「私はカラバン子爵子息の妻です。部屋には次期子爵である息子もおります」
トーマスは返って来た返事を聞いて安堵し、再度自分の身分を明かしてドアを開けてくれる様に頼んだ。
「夫人。私はシュタイン伯爵トーマス・シュタインです。他にガードナー伯爵夫妻と、家の者達と一緒に伺いました。どうか私達を信用して、このドアを開けて頂けないでしょうか」
トーマスはさっきまで騒ぎ暴れていた男が、まさか夫人の夫だとは夢にも思っていなかった。更に息子がまだ幼い子どもだと思い込んでいた為、夫人は迂闊にドアを開ける事が出来ず、迷っているのだろうと考えた。マーガレットも、女性が声をかける方が安心するかもしれないと「私はガードナー伯爵夫人のマーガレットと申します。夫人、私たちは怪しい者ではありません。先触れを出したのですが、もしかしたらまだ届いてはいないでしょうか」と一緒に声をかけた。
マーサは震える足で何とか立ち上がると、ドアの前に置いた家具の前まで来て、廊下に向かって返事をした。
「先触れは頂いています。私はあなた方を、心からお待ちしておりました。実は扉が開かない様に、沢山の家具をドアの前に置いてしまったのです。さっきは必死だったので一人で運べたのですが…申し訳ありません。今は力が抜けてしまい、立っているのがやっとの有様なんです」
それを聞いていたアランは、「じゃあ僕が風魔法でドアを開けよう」と言った。
そして部屋の中に向かい「夫人、ドアを壊してしまいますが、宜しいですか」と尋ねた。
「勿論構いません。けれど息子の意識が無く、床に倒れている状態なんです。風魔法でドアや家具が飛んでくると、当たってしまう恐れがあります」とマーサは答えた。
「息子さんがいるのは、ドアからどのあたりでしょう」
「そちら側から見て向かって右の方、大人の女性が歩いて十歩くらいの所です」
「分かりました。そちらの方へは物が飛ばない様にします。夫人も、息子さんのいる辺りに移動して、準備が出来たら声をかけて下さい」
ケイトが心配して「大丈夫でしょうか。ドアが吹き飛ぶほどの衝撃では、家具が部屋中に散らばってしまうのではないですか」と、マーガレットに囁いた。
「大丈夫ですよ、ケイトさん。アランはそういう繊細な魔法がすごく得意なんです」マーガレットが笑顔を見せると、聞いていたアランが「お褒めに預かり光栄です」とおどけてみせた。
お陰でずっと漂っていた暗い雰囲気がほぐれ、皆の肩の力が抜けたところで、アランは呪文を唱え始めた。
マーサは苦しそうなフリードの脇に戻ると、敷いていたクッションで念のために彼の頭や体を覆ってから、廊下にいる面々へ知らせた。
「準備が出来ました」
それを合図にアランが風魔法をドアに向かって放ち、一瞬後にドアが吹き飛んだ。
ドアそのものは勿論、ドアの前に置いてあった家具も全て、マーサ達の居る場所の反対側、向かって左側に綺麗に積み重なり、アランはマーガレットの信頼が間違いで無かったと証明した。
「すごい。本当に少しもあちら側に飛んでいない」
皆が興奮してアランを褒めたたえる横を、ケイトがサッと通り過ぎて部屋の中に入り、倒れているフリードに近寄った。トムも気づいてすぐにケイトに続いた。
「この方は悪魔に害されていますね」ケイトに聞かれたマーサは、激しくうなずいた。
「はい。蛇が現れたんです。それで息子に牙を突き立てました。何かを身体に入れられていた様でした。それから息子は倒れて、ずっと苦しんでいます」
「それは、黒い魔力を入れられたんだと思います。取り除かなければいけません」
「黒い魔力、どうやって取り除けば良いんでしょう」蒼い顔をするマーサに、ケイトは微笑みかけた。「大丈夫です。私が取り除けます」
マーサが見守る中、フリードの手を握り締めたケイトは、女神に与えられた力を使った。
「ああ、フリードの顔色がどんどん良くなってきました。呼吸も辛そうだったのに、今は穏やかです」黒い魔力を吸い取って貰い、回復していくフリードの様子に喜びが溢れていたマーサは、ケイトを見るとハッとした。
「あなたの具合が悪くなっているんじゃありませんか。もしや息子を助ける代わりに、あなたが辛い目に遭うのですか⁉」マーサは焦ったが、ケイトは弱く首を振り、そのまま魔力を取り除き続けた。トムはケイトの横に付き添い、終わった所で倒れそうな彼女を抱き留めると、ローズを呼んだ。邸の中の悪魔の気配を探っていたローズは、すぐに飛んできてケイトの浄化を始めた。
「ケイトさんは、かなり大量の魔力を吸い取ったみたいですね」ローズはケイトの中に渦巻く黒い魔力を感じながら、浄化を行った。ケイトは少しずつ顔色を戻しながら「現れた蛇がご子息に牙を立てて、黒い魔力を注いだそうよ。悪魔の蛇が注いだ魔力だから、相当大きい力だったと思う。間に合って、本当に良かった」と言った。
「悪魔の蛇に牙を。それは苦しかったでしょうね」
マーサがクッションを元通り頭の下に入れてやっている、意識の無い次期カラバン子爵という子息を見たローズの顔色が変わった。
懐かしい黒髪に、目は閉じられているが、開けばきっと黒水晶の瞳が現れるだろう。図書室の薄暗がりで、何度も見つめたあの瞳の持ち主を、ローズが見間違えるはずは無かった。
『良かったら、召し上がりませんか』良く熟れた赤い林檎の香りが、鼻先をかすめた。
「ローズさん、どうかしましたか」自分の浄化をしてくれながら、どこかに意識をやってしまった様なローズに、ケイトが怪訝そうな目を向けた。
ハッと意識を戻したローズは「いいえ。何でもありません」と返事をして、そのまま浄化を続けた。
ケイトもトムもローズの様子がおかしいと感じながら、彼女が何も言おうとしないのでそれ以上尋ねようとはしなかった。
しばらくして部屋の中に散らばった家具の片づけを終え、トーマス、アラン、マーガレットもローズ達の所に集まって来た。
トムはマーサに聞いた話を後から来た三人に説明してから「それにしても、悪魔の蛇に直接牙を立てられて、生きておられたのは奇跡ですよ」とマーサに話しかけた。
「普通の蛇ならともかく、悪魔の出す蛇は邪悪の塊ですから」
「そう言えば」と、マーサはその時の不思議な出来事を話し始めた。
「牙を立てていた蛇が、フリードに止めを刺そうとしたんです。大きく口を開いて、丸のみするようにフリードに迫りました。私は倒れたまま、もうダメかと思いながらそれを見つめていました」マーサはその光景を思い出して身震いした。
「それが突然蛇が何かに弾かれて、悪魔の影に逃げ込んで消えたんです。悪魔は『まさか聖女が付いているのか、そんなはずはない』と言って、急に部屋から立ち去りました。息子に聖女様の加護があるなんて、聞いた事も無いのですが」と困惑するマーサに、マーガレットも「悪魔がそんな事を?」と驚いた。
「おとぎ話に出て来る聖女様以来、この世界に聖女様はいなかったはずです。私は聖魔法使いとして幼い頃から神殿に行っていますが、司祭様も聖女の存在についてはおとぎ話だと思っていました。ご子息を守ってくれたのは、一体何だったのでしょう」
勿論マーガレットは、今この世界にはローズという聖女が存在していると知っている。だがローズが聖女の能力を現したのは、あちらの世界から帰ってからだ。それからずっと一緒にいたマーガレットは、ローズが次期カラバン子爵と接点を持っていない事は分かっていた。だから悪魔の言っていたフリードに与えられた加護を、聖女によるものとは思えなかった。
「そうですよね。私もこの世界に聖女様がいらっしゃると聞いた事も無かったので、驚きました。フリードの目が覚めたら、心当たりがあるかどうか聞いてみます」
マーサはそれから、皆に向かって訴えた。
「御力を借りてばかりで申し訳ないのですが、今悪魔が、更なる力を求めて『妻達の共同墓地』へ行っているんです。何とか悪魔の目論見を阻止して頂けませんか」
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