110 到着
シュタイン伯爵 フリードを餌食にしようとして失敗したクラウスは、自分の力を跳ね返した強い聖魔力に焦っていた。かつて聖なる湖へおびき出され、まんまと聖女に封印された苦い過去が蘇る。
(おかしい。聖女が今のこの世界にいるなんて俺は知らない。ずっと俺といたあの女も聖女はいないと思っていた。やっと封印を解いてここまで力を取り戻したのに、また聖女にしてやられてたまるか。この男の闇の力で成長した事だし、そろそろあの場所へ行こう)
クラウスは振り返るとフランクへ「お前はさっきの部屋に戻って、あいつらが逃げたり余計な動きをしないか見張っていろ」と命じた。フランクは無表情に踵を返し、かつての自分の執務室へ向かって戻って行った。
クラウスの目に、フランク同様無表情なタミーが映った。彼女もやはり虚ろな瞳で歩いている。
シュタイン伯爵家にいた時から王都でならず者を集めさせたり、正体のバレた自分を邸から連れ出すのに利用し、長い間便利に使ってきた女だが、そろそろお払い箱にしても良い頃だと考えた。
(こいつは自分の意思が無いから、多くの力を費やさず操れて使い勝手が良かった。しかし意思がないせいで闇の力も少ない。肝心な時に力の供給が出来ないから、次の駒を探さなければ)
クラウスに命じられ執務室へ戻ったフランクは、ドアノブに手をかけ扉を開こうとした。しかしマーサが鍵を掛けていた為、ノブは回らなかった。
鍵をかけられたのに気が付いて苛立ちを感じたフランクは、遺言状公開のあの日以来、暗闇の中に閉じ込めていた自我がよみがえった。
あの時フランクは、レジナルドの遺言の衝撃で与えられた失望、怒り、恨み、憎しみに押しつぶされ、自分の置かれた状況を受け入れられずに、現実から自分を逃がした。
しかし悪魔がフランクの負の感情を闇の力として吸い取り、圧し潰されそうだった感情が薄まった結果、運が良かったのか悪かったのか分からないが、正気を取り戻してしまった。さっきまで虚ろな人形だったのが嘘の様に、フランクは自分を締め出したマーサへの怒りに燃え、ドアを蹴って暴れ始めた。
シュタイン家からの手紙を命綱の様に握り締め、意識の無いフリードの横でうずくまっていたマーサは、ドアノブを回す音に続いて聞こえてきた、激しく扉を蹴る音に身を縮こまらせた。
(悪魔が戻ってきたんだろうか。いや、悪魔なら魔法で何とかしようとするはず。それならあれは下男か、それともフランク?ドアが開かない様に、家具を動かして扉の前に置かなければ)
マーサは再び手紙をポケットに入れると、自分が動かせそうな家具を手当たり次第運んでドアの前に積み重ねた。小型のチェスト、一人掛けのソファ、花瓶を置くテーブル、執務机の椅子、一つ一つは軽い物でも、積み重ねれば相当重量のある障壁が出来上がった。
最後に一番手前に置いた書類を入れる腰高の棚と、ドアが開く方向の壁の間につっかえ棒をしようと思ったマーサは、何か良い物が無いかと部屋を見回した。すると部屋の隅に、レジナルドが元気な頃使っていた杖があるのを見つけた。
それは人を叱責する時、レジナルドがよく使っていた杖だった。マーサも嫁いできたばかりの頃、それでしたたかに叩かれてひどい怪我をした。その時イブリンが手当をしてくれて、マーサは初めて、彼女を対等な尊敬すべき人と理解出来たのだった。
マーサはその杖を持って来て棚と壁の間に押し込み、ドアが動かない様にした。
貴族夫人がするはずも無い重労働を終えると、恐怖で冷え切っていた身体は汗をかいて、マーサは頭の中まで熱くなっていた。そこで杖によって醜悪な記憶と共に思い出されたレジナルドに向かって、彼女は心の中で叫んだ。
(この杖で酷い事しかしてこなかったお義父様、私達を守るのに、少しは役立ってちょうだい!)
マーサは廊下で暴れているフランクにも、この際罵詈雑言を浴びせてやりたかったが、下手に刺激して馬鹿力を出させてはいけないと思いグッとこらえた。その代わり心の中で、貯め込んできた言葉を吐き出した。
(フランク。あなたは実の息子であるフリードを愛する気持ちも、守ろうとする気持ちも、一かけらも持たなかったわね。いくらお義父様から虐げられてきたとは言え、自分も同じことを繰り返す必要なんて無かったでしょう。あなたはお義父様が倒れた後、いくらでも明るく正しい道に進めた。それをしなかったあなたの選択が、悪魔に魂を吸い取られるという、今の結果に繋がったんだわ)
「これで命を落としたとしても、全て自分が選んだ道なのよ」
マーサがつぶやいた最後の台詞は小声だったが、廊下にいるフランクの耳には届いた。その言葉が自分に向けられたものとは思わないフランクは、ドアを蹴るのを止めて哄笑した。
「マーサ!よく分かってるじゃないか。お前とフリードがここで命を落とすのも、お前達が自分で選んだ道なんだよ。お前達が欲をかかず、あの時俺に言われた通り邸を出て行っていたら、こんな目に遭わずに済んだんだ。
お前はいつも自分が正しいという顔をしていたが、お前も所詮、俺と同じ穴のムジナだ。昔父上の妻だった、お前が朝食を一緒に作っていた女を覚えてるか。お前はあの女が消えた時、自分を置いて一人で逃げ出したと思ったよな。あの時の憎しみに満ちた、悔しそうな顔がお前の本性だよ」
マーサが返事をしないでいると、しばらくしてフランクが静かになった。
ドアを破られなかった事に安堵していると、廊下から嬉し気な声が聞こえてきた。
「クラウス様が、『妻達の共同墓地』に向かわれたらしい。お前はあそこをどうにかしようと画策していたが、その前にクラウス様が力として使ってくれそうだぞ」
マーサはイブリンを始めとして、あそこに埋葬された妻達が悪魔に食い物にされそうな状況を悟った。しかしこの部屋を出る訳にはいかず、出たとしても、彼女に出来る事は又しても何も無かった。
(私は結局、あの人達の為に何も出来ないのか。自分にはどうする事も出来ないという言い訳を、何度重ねれば良いんだろう。女神様。私はあなたに祈る他、出来る事がありません。どうか、どうか女神様の御力でイブリン達の魂を救ってやって下さい)
フリードの脇でひざまずき、祈るだけしか出来ないでいるマーサの耳に、数人の足音が聞こえ、フランクが「誰だ」と声を上げた。
カラバン子爵家に急ぎ到着する為、速度を保ったまま走り続けたローズ達の馬車は、遂に邸の門まで辿り着いた。門番が見当たらないのでそのまま中に入り、車寄せに二台の馬車を回したが、邸の中からは誰も出て来なかった。
「いくらカラバン子爵家でも、使用人が一人もいないのはあり得ない」
馬車を降り立ったアランがつぶやいた。他の者も皆馬車から降りて、鍵のかけられていない玄関扉を開けホールに入った。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか」何度か声を張り上げても返事は無かったので、アラン達は仕方なく、御者と馬車をその場に残し邸の中に入って行った。
すると二階から、誰かが暴れているような音が響いてきた。
「こっちで音がしています」ローズが二階に続く階段を指さした。
「俺が先に行く」トムが言うと先頭に立って階段を上り、その後をアラン、トーマス、ローズ、マーガレット、ケイトと続いた。
二階に着いて長く伸びる廊下を見渡すと、奥の部屋の前でドアに向かい、大声でわめいている男がいた。男は髪も髭も伸び、痩せていて、額に汗をかき息も乱れていた。
「あの男の様子はおかしい。部屋の中にいる人に危害を加えようとしてるに違いない」
素早く近づいて自分を取り押さえようとするトムを見つけ、男は「誰だ」と声を上げて身構えたが、トムに手刀をくらわせられ、呆気なく昏倒した。
「やけに手慣れているな」アランが感心すると「神殿には、精神が錯乱しておかしくなった人も大勢来ますからね」と何でもない風にトムは答えて「ここに置いておくと邪魔ですから」と倒れた男をずるずると引きずり、廊下の端に寄せた。
「その人は、悪魔に操られてはいないの?」マーガレットが尋ねると、トムは首を振った。
「この男の目つきはしっかりしていたし、自分の意思で話していました。だから操られてはいないと思います。ただ、もしかしたら以前操られていて、今は自分に戻ったのかもしれないですね。着ている服は上等なのに、身だしなみが酷くて痩せているのは、そのせいかもしれない」
マーガレットが念のために刺繍入りのハンカチを男の胸の上に置くと、刺繍の色は変わらなかったが、一度眉を寄せた後で深く眠った様だった。
「やっぱり、少しは影響があったのかしら」
「聖魔法は、心を落ち着かせる力もありますから。興奮していたのが収まって眠りについたのでしょう」とケイトが答えた。
その間にドアを開けようとして諦めたトーマスは、鍵のかかった部屋の中にいるであろう誰かに声をかけた。
「どなたか部屋の中にいらっしゃいますか。外で暴れていた男は静かにさせたので安心して下さい。私たちは手紙を差し上げた家の者です。一日早くて申し訳ないのですが、訪問させて頂きました」
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