107 悪魔との邂逅
その頃フリードは、執務室で今朝届いた手紙を読んでいた。
事業に関係する手紙ばかりの中で、一つの手紙が彼の心をかき乱した。
それはローズ・アマンドが妾として売られて行った、シュタイン伯爵家からの手紙だった。もしや何かローズに関係する事かと、すぐに封を開けて読んではみたものの、書いてある内容に全く見当がつかないフリードは、頭を悩ませていた。
(当主が新しく迎えた、平民の妻と連れ子について聞きたい事がある。ついては、カラバン子爵家を訪ねたい…だと? 何て事だ、訪ねて来る予定の日は明日じゃないか。という事はこちらの返事も聞かず、手紙を出してすぐに出発したのか。もし僕も母上もいなかったら、どうするつもりだったんだろう)フリードはローズを買った家からの手紙と言うだけで、シュタイン伯爵に対して敵意を抱いていた。
(うちが子爵家で格下だから、好きに振る舞おうというのか。何て傲慢な人なんだ)
不快な気持ちで更に読み進めていくと、ますます書いてある内容が理解出来なくなった。
(その二人はもしかしたら、シュタイン伯爵家からいなくなった伯爵の息子とメイドかもしれないだって? しかも二人の周辺で既に異変が起きていたら、すぐに神殿へ行って相談する様にとは、どう言う意味だろう。タミーとクラウスという名前だと書いてあるが、僕に新しく迎えた妻などいないし、何を言っているのかさっぱり分からない)
そこへ突然ドアが開いて、誰かがノックも無しに駆け込んできた。フリードは驚いて手紙を置いて顔を上げ、入って来たのが母と分かると、いつも礼儀正しいマーサがこんな風に入ってくるなんて、ただ事ではないと思った。
マーサの顔色は真っ白だったので、フリードは慌てて近寄って彼女を支えた。
「母上。一体どうしたんですか」
息も絶え絶えな様子で口のきけないマーサを、フリードはソファに座らせ、水差しの水をコップに注いで渡した。マーサは震える手でコップを受け取り、少しこぼしながら水を飲むと、唇を震わせてフリードに言った。
「フリード。私が間違っていた。やはりあんな得体の知れない親子を邸に入れてはいけなかった」
「親子って、ひと月位前にやってきたというあの母子ですか。洗濯場で真面目に働いていると聞いていましたが」
「ええ、ええ。タミーとクラウスよ。あの二人は、普通の人間じゃ無いわ。今この目で見たの。あの二人が勝手にフランクの部屋に入り込んで、子どもは赤子だったのに、十歳位に大きくなっていたのよ…」
「母上、落ち着いて。…待ってください。今、タミーとクラウスと言いましたよね?実は僕が読んでいたこの手紙なんですが、シュタイン伯爵家からのもので、その二人について書かれているんです」
「シュタイン伯爵家からの手紙?」
フリードが立ちあがって机に向かい、手紙を取ってマーサに渡した。
「これです。もしかしたら、その二人が伯爵の息子とメイドではないかと書いてあって、話を聞きたいから明日ここに訪ねて来ると」
「何ですって?あの二人が伯爵家の?いいえ。違うわ。息子なんてはずは無いわ。あの子どもは、クラウスは悪魔よ。フランクの憎しみと恨みに満ちた魂を吸い取って、成長したのよ」怯えるマーサを見て、フリードは手紙に書いてあった『二人の周辺で既に異変が起きていたら』という言葉を思い出した。
「母上。手紙には、異変が起きていたら神殿に相談するように書いてありました」
神殿と聞いたマーサはハッとした。混乱していた頭が少し静まり、瞳にも光が戻った。
「神殿…。そうよ。あれは悪魔なんだから、私達は女神様にすがるしか方法は無いわ。フリード、今からすぐに神殿に行きましょう。私達だけの力では、悪魔に太刀打ち出来ない」
フリードを急かし、シュタイン伯爵家からの手紙をポケットに入れると、マーサは取る物も取り敢えず邸を出て神殿へ向かおうとした。しかしフリードがドアを開こうと手を伸ばした時、先に向こう側から勢いよく扉が開かれ、数人の下男が二人を通さない様に立ちふさがった。
「お前達、何をしているんだ。そこをどけ」フリードが命令したが、下男は虚ろな目つきのまま微動だにしなかった。
「フリード。下男達は皆、悪魔に操られているのよ」マーサが教えると、大きな男達の後ろから少年が進み出てきた。少年の後ろには、タミーとフランクが続いた。
「お前がフランクの息子のフリードか。可愛がってくれる母親と一緒に神殿に逃げるつもりらしいが、神殿なんて行ったところで、今のあいつらには何も出来やしないさ。面倒だから好きにさせてやりたいところだが、残念ながら俺に力をくれたフランクが、それは許せないと言うんだ。フランクはお前の父親なのに、お前が憎くて仕方ないらしい。あいつの憎しみがどれだけ大きな力になったか、お前には想像も出来ないだろう」
「お前は誰だ。子どものくせに、偉そうに何を言い出すんだ」
クラウスがフランクに視線を向け瞳を光らせると、ぼんやりと突っ立っていた彼が突然表情を変えてフリードを罵った。
「フリード!お前が父上に取り入って、俺を排除する遺言を書かせたんだろう⁈
お前はいつもそうだ。お前が笑って祖父と母親に愛されて過ごしていた同じ年の頃、俺は鞭打たれ、罵られて育ってきたんだ。やっと俺の、俺だけの意思で好きに生きられると思ったら、お前が全部持って行こうとする。そんな事は決して許さない。お前が笑って生きていくなんて、許すものか!」
父親から向けられる憎しみの深さに衝撃を受けながらも、フリードは毅然として言い返した。
「僕はおじい様に遺言を書くようになんて言っていない。あれはおじい様が、父上には子爵家を任せられないと判断して決めた事だ」
「うるさい!うるさい!うるさい!」
顔を真っ赤にして叫んだフランクを、クラウスは再び一瞥した。すると途端にフランクは沈黙し、無表情に戻った。
クラウスは楽しげにクツクツと嗤った。
「お前の父親は自分を憐れむあまり、息子を愛する事が出来ないらしいな。俺としてはお前を生かしておく方が闇の力が手に入って好都合なんだが、俺に力をくれたこの男の、望む褒美も与えてやらねばなるまい」
そう言うとクラウスの背後から黒い影が立ち昇り、巨大な蛇の形を取った。
「何をするつもり⁈」マーサがフリードを庇って前に出たが、蛇の影が素早く迫って彼女の身体を締め上げた。
「母上!」それを見て飛び出して来たフリードに、マーサを放り出した蛇が大きく口を開き牙を立てた。フリードは牙を通して流れ込む黒い魔力に苦しみ、うめき声を上げた。
「お前がいなくなれば、子爵家は容易に俺の物になる。そこで倒れている母親の悲しみと憎しみも、良い味がするだろう」
クラウスがニィっと口角を引き上げ、蛇を使ってフリードへ止めを刺そうとした。しかし突然何かに弾かれ、蛇はフリードから離れてクラウスの影の中へ逃げ去った。
「フリード!」起き上がったマーサがフリードに駆け寄ると、クラウスが憎々し気にこちらを睨みつけていた。
「お前、一体何を持っている。ここには聖魔法使いなどいないはずだ。…いや、あんなちゃちな魔法じゃない。聖女か⁈まさかお前に聖女が付いているのか」
急に慌て出したクラウスは、タミーとフランク、下男達を引き連れ部屋から出て行った。
マーサはフリードの脈と呼吸を確かめ、生きていると分かって脱力した。しかしフリードの顔色は悪く、苦悶の表情のまま呼吸が浅い。
何度声をかけても意識は戻らず、マーサは途方に暮れた。こんな状態のフリードを置いて、一人で神殿に逃げ込む事は出来ない。マーサは震える足をなんとか進めてドアまで辿り着き、急いで鍵をかけた。
それからソファに置いてあったクッションを運んで、フリードを少しでも寝やすいように整えてやっている時、ポケットに入れたシュタイン伯爵家からの手紙を思い出した。
さっき焦って神殿に行こうとして、話を簡単に聞いただけでポケットに入れた手紙だった。
藁をも掴む思いで、マーサは手紙を読み始めた。
そこには明日タミーとクラウスについて尋ねる為、シュタイン伯爵がこの家を訪問したいと書いてあった。既に何かが起こっているなら神殿へ行けという指示を見る限り、恐らくシュタイン伯爵はクラウスの正体を知っているのだ。マーサはこれは女神様の御導きだと、深く感謝した。同時にたった今経験した恐怖に、何とか明日彼らが到着するまでは、一人で立ち向かわなければと勇気を奮い立たせた。
(何としても、フリードを守り切らなくては)
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