105 悪魔の侵入
「私がここの女主人です。門番から聞いたけれど、あなたは紹介状も持たないで雇って欲しいと言っているそうね。見たところ貴族家に仕えていたか、所縁があるようだから、自分のしている事が非常識だとは分かっているんでしょう?」マーサが冷淡な調子で言うと、女は赤子を抱きしめながらまっすぐ目を見て懇願した。
「奥様。後生ですから私達親子をこちらにおいてください。私は何でもします。こちらの子爵家では、定期的にご当主様の妻か妾が必要と聞いています。奥様はご当主の子息の夫人でいらっしゃいますよね。ご当主様に是非一目お目通りさせてください」
わざわざ門まで出向いた自分を差し置いて当主を出せという、女のあり得ない程失礼な言葉を聞いて、さすがのマーサも腹が立った。門番に向かい「この女を追い払って。本当に不快だわ」と言い放ち邸に戻ろうと踵を返した。
すると、門番がマーサの前に回り込み立ちはだかった。
「奥様、お待ちください。この女性を見捨てると言うのですか」
門番からの余りな態度と言葉に、この男はいつからこんなに図々しく無礼になったのだろうと驚いたマーサは、門番の顔を見上げた。すると目つきが虚ろで、正面にいる自分を彼が見ていない事に気づいた。
「あなた。どこか悪いんじゃないの。頭が痛いとか、身体がおかしくない?」
思わず気遣う言葉をかけると、門の外にいる女が「奥様。その男の身体を心配されるなら、私達を中に入れた方が良いですよ」と言い出して、マーサの堪忍袋の緒が切れた。
「お前、さっきから貴族に向かって失礼な口をきいて、一体どういうつもりなの。憲兵を呼ばれたくなければ、今すぐここから立ち去りなさい」振り向いて怒鳴ると、女の腕の中の赤子が自分を見つめていた。目が合うと赤子の目が光って、マーサは自分の思考が鈍っていくのを感じた。
そしていつのまにか頭の中に(紹介状も無いのに訪ねて来るなんて、この女性はよっぽど困っているんだわ。だから酷い扱いを受ける妻や妾になっても良いなんて言っているのよ。それに、何も分からず連れてこられた赤子に罪は無い。ここで私が二人を放り出せば、路頭に迷ってしまうわ。気にかけて力になってやるのが、人として正しい行いよ)という考えが渦巻いて、何かに操られる様にマーサの口は動いていた。
「分かったわ。あなた、住むところも無いんでしょう。うちには住み込みの下女がいないから、あなたを雇って住まわせてあげる。赤ん坊は背中におんぶして働けば良いわね」
「はい。ありがとうございます。奥様」
門番が大きく開いた門から、女と赤子は影の様に滑り込んだ。マーサは先に立って邸に向かって歩きながら、自分が今まで何を考えて何をしようとしていたか、よく分からなくなっていた。女を邸に雇い入れるなどおかしいという考えも、もう頭に残っていなかった。
女はタミーと名乗り、赤子の名前はクラウスだとマーサに教えた。
「クラウス、そう。良い名前ね。…ところで、あなた達の部屋を考えなくてはね。うちは住み込みは下男が数人しかいないの。皆北の棟に住んでいるのよ」
男達のいる棟に女一人は良くないだろうと思っていると、タミーは「私たちも北側の棟に部屋が頂ければと思います」と言い出した。
「だけど男ばかりの棟に、女性一人は良くないわ」
「無理に雇っていただくのですから、そんな事は気にしません。使用人ですから眺めや日当たりが悪い、北側の棟が相応しいと思いますので」
しかし北側の棟には今、フランクがいる。下男が見張って部屋には鍵がかかっているとは言え、女性と赤子がその近くに住むのはどうかと思ったマーサは「あそこは赤ん坊には寒すぎるわ。西の棟に小さな部屋があるから、そこに用意しましょう」と決めた。
タミーの返事は一瞬間があったが「分かりました。お気遣い下さって、ありがとうございます」と頭を下げた。
それからマーサは古参のメイドを呼んで「この人はタミー。赤ん坊はクラウスよ。これから下女として住み込みで働いて貰う事になったの」と紹介した。
「西の棟に小さい部屋があるでしょう。あそこに住んでもらうから、案内しながら邸の中を説明してあげてくれるかしら」
「はい。かしこまりました」
古参のメイドは住み込みと聞いて驚いていたが、カラバン子爵家に長く勤める内余計な質問はしない様になっていたので、何も聞かずにうなずいた。
マーサはタミーとクラウスに向き直り、二人の薄汚れた身なりを見て言った。
「タミー。湯と布を貰って二人で体を浄めなさい。身支度が終わって落ち着いたら、食事を貰いに台所に行くと良いわ。クラウスはもう柔らかい物は食べるのかしら。必要なら、料理人に頼んで作らせて貰って。今日は仕事は良いから、明日からお願いね」マーサはそのままメイドに二人を任せると、フリードに新しく人を雇い入れた事について報告しに向かった。
「フリード。今少し良いかしら」マーサが執務室に入っていくと、フリードは書いていた書類から顔を上げた。
レジナルドの葬儀とフランクの錯乱から数か月が経ち、フリードはすっかり一人前の子爵らしく仕事を進められる様になっていた。
「母上。はい、ちょうど切りが良い所です。お茶でも飲みますか」
「それじゃあ、私が淹れるわ」
マーサはいそいそと壁際にあるカップボードから、お茶の道具を取り出した。
フリードの好きなお茶を淹れてソファの前のテーブルに運ぶと、フリードも机を立ってソファに腰かけた。
茶を一口飲んで「ああ。ホッとしますね。母上の淹れるお茶は美味しい」と言って微笑んで「何かありましたか」と尋ねた。
マーサはその頃には、自分が紹介状も無い母子を雇った事が不思議でならなくなっていた。けれど今更どうしようもなく、おずおずとフリードに今あった事を話し始めた。
「フリード。さっき門の所に見知らぬ母子が来たの。子どもはまだ赤子だったわ。それで、うちで雇って欲しいと言うのよ」
フリードは眉をしかめた。「うちにですか?誰かの紹介でしょうか」
「それが紹介状も持たずに来て、何でもするから雇って欲しい、当主の妾か妻になっても良いって言われたの」
「何て事を。確かにおじい様が長年非道を行っていましたが、いくら何でも行きずりの平民を選ぶ事は無いし、無礼が過ぎます。母上がお一人で対応なさったんですか」
マーサは、怒気を露わにしたフリードの反応が至極まともだと思った。
(私も最初はそう考えたはずなのに、何故雇う事にしてしまったのだろう。それに門番の様子もおかしかった)
しかし、自分でも理解出来ない話をうまく説明出来ず、マーサは仕方なく事実を打ち明けた。
「そうよね。そう思うのが普通だわ。私も最初は追い払おうとしたのだけど、女性と赤子を見ている内にとても可哀想に思えてしまったの。当主の妻か妾になっても良いなんて本当に失礼な言い草だけど、今までのお義父様のなさり様で考えれば、それは自分の身を捨てても良いって意味になるでしょう。赤ん坊もいるし余程切羽詰まった理由があるのかと思って、つい同情して雇い入れてしまったの」
「母上。そんな身元の分からない人間を雇うなど、正気ですか」驚いたフリードに言われても、マーサは何一つまともな反論は出来なかった。
「本当にフリードの言う通りよ。私も今になってみると、何故承諾したか分からなくて。その上邸に住み込みにして、もう西の棟に部屋を与えてしまった。フリード、相談も無く勝手な事をして、本当にごめんなさい」
フリードは萎れたマーサの様子を見ると、気持ちを落ち着けて態度を和らげた。
「慎重な母上らしくないですが、赤子もいて同情してしまったんですね。分かりました。しばらく働かせて様子を見て、いずれ神殿や大きな商家など、平民が住み込みで働けそうな所を紹介してやりましょう。その代わりここにいる間おかしな事をしない様、母上も気を付けて下さい」
「そうね。外でやる洗濯場の仕事を頼む事にするわ。あの仕事なら邸内の部屋に出入りしたり、人に会う事も少ないから。私も気を付けて見守る事にするわ」マーサは情けない気持ちで立ち上がると、部屋を出て行った。
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