第五話 境界
震える指で、私は壁に文字を書いた。
『やめてよ』
たった四文字。
掠れた文字。
でも、今の私にできる最後の抵抗だった。
静寂が訪れる。
鉄の巨人は動かない。
赤い瞳だけが、じっと壁を見つめていた。
やっぱり駄目か。
そんな都合のいいこと、あるはずが――。
ガシャン。
不意に、鉄の巨人が膝をついた。
「……え?」
思わず声が漏れる。
今まで私たちを見下ろしていた巨体が、ゆっくりと目線を下げたのだ。
そして。
ガコン。
ガコン。
胸の辺りが開き始めた。
「……!」
ツバキが私の後ろへ隠れる。
私も息を呑む。
中から現れたのは――。
一人の男だった。
黒い髪。
見慣れない服。
だけど。
獣人でも、竜人でも、エルフでもない。
私の元の姿
過去に見慣れた人間だった。
「……。」
「……。」
お互いに、ただ見つめ合う。
男は驚いた顔のまま、私と壁の文字を何度も見比べていた。
そして、小さく何かを呟く。
でも、何を言っているのか分からない。
やっぱり、言葉は通じない。
それでも。
男の顔には、敵意はなかった。
むしろ――。
信じられないものを見ているような。
そんな顔だった。
しばらくして。
男は自分の胸に手を当てた。
「……レン。」
「……?」
意味は分からない。
でも、きっと。
名前。
そういうことなのだろう。
私は少し迷い、自分を指差す。
「……サクラ。」
男の目が見開かれた。
そして。
今度は、本当に安堵したように息を吐いた。
どうしてだろう。
その顔を見ていると。
急に、張りつめていたものが切れていく。
怖かった。
苦しかった。
ずっと。
ずっと。
生きることだけで精一杯だった。
「……お姉ちゃん?」
ツバキの声が遠い。
足に力が入らない。
視界がぐらりと揺れる。
「あ……。」
倒れる。
そう思った瞬間。
男が慌ててこちらへ駆け寄ってきた。
そして、意識は、ゆっくりと闇へ沈んでいった。
最後に見えたのは。
困ったような顔をした、一人の人間の姿だった。




