第86話 知夏_素直な言葉、ゆらぐ沈黙
「ちなみに、なんて呼んだらいい?」
気を取り直して質問した。この質問は私がお客様に良くする質問で、相手が希望する呼び名で呼ぶことで距離感を縮めることに役立つ。
多くのお客様は偽名の名字でお店に登録しているが、この質問を投げかけ下の名前で呼んで欲しい、というお客様はだいたいが本当の名前である。
「じゃあ、優太で」
「優太さんね」
私はわざとおどけて警察官のように敬礼しながら「承知いたしました」と答えた。そして私は、気になることを聞いてもいい?と断りを入れた。優太さんが頷くのを見て、若干の迷いがあったものの質問をした。
「どうしてもう一度指名してくれたの?」
な ぜ再び指名してくれたのか、この質問をお客様に投げかけるのは初めてだった。初回でご満足頂ければリピートしてくれる。そんな当たり前のこと聞くまでもないが、前回のプレイ内容でご満足頂けているとはとても思えなかった。
「えっと、それはどういう…?」
戸惑ったように答える彼に、私は申し訳なさもあり目を逸らした。
「その、この前は私の技量不足でご満足頂けなかったんじゃないかと。普通、不満が残るキャストを再度指名する方はいらっしゃらないと思うから」
私の言葉に彼は、あぁ、と納得がいった表情をした。
「不満なんてなかったよ。むしろ俺の方こそごめん」
まさか謝られるとは思っていなかったので恐縮した。あれで不満ではないとはどういうことか。優太さんは私の顔を見ながら、少し困ったように説明した。
「まぁ、そういうこともできたらいいな、とは思っていたけど、それ以上に人肌が恋しかったというか…」
「年上の女性に話を聞いてもらいたい、って言ってたよね。ごめんなさい、もしよかったら他の人気キャストを教えようか?」
「いや、莉奈さんが良いと思ったから、あの、また話をしてみたくて指名したんだ。人妻専門店ってかなり年上の人がいるイメージだったから、そこまで期待していなかったというか。だから、莉奈さんみたいに綺麗な同い年の人がきて、前は緊張してダメだったんだ。ごめん。莉奈さん、風俗嬢という感じがしないというか、普通の人っぽいというか、今も話していてすごく楽しいし」
しどろもどろに一生懸命話している様子に私は照れた。風俗嬢になってから今まで、お客様相手に照れたフリをすることはあっても、照れたことなんて一度もなかった。
「…ありがとう」
もっと気の利いた言葉を言いたかったのに何も思いつかない。なんとも気恥ずかしい沈黙が流れ、お互いはにかんだように笑った。
「その、前に言っていた話を聞いてもらいたい、ってなに?」
「あー、いや…」
気まずそうな顔で鼻の頭を指でかいている。先ほど注文したジントニックと夏みかんのノンアルコールカクテルが運ばれてきたので、受け取ると私は飲みながら相手の様子を伺う。優太さんはジントニックを一口飲むと意を決したように言った。
「あの、気を悪くしたらごめん。莉奈さんを次も指名した時に追加料金を払えばその、セックスってできる?」
「はい?」
急な申し出に、思わず裏返った声で返事をしてしまった。なんと答えるべきか考えてしまう。
「ごめん、彼女とはその、できなくて…」
私の沈黙を気にしたのか、私が答える前に優太さんは言った。
「できない、っていうのはどうして…?」
「あの、彼女はアセクシャルなんだ。ノンセクシャルと言った方が良いのかな…」
その単語を聞いて、私は頭の中でジェンダーに関する引き出しを急いでひっかきまわした。
「つまり、性欲を持たない人のことだよね?」
「あ、知ってる?」
「私、バイだから。ジェンダーに関することは割と興味あるよ」
とは、言ったもののアセクシャルやノンセクシャルについて細かく話せるほど知識があるわけではない。あくまでも性欲を抱かないタイプの人、ということしかわからず、以前調べたことがあるが、アセクシャルとノンセクシャルの明確な違いについては覚えていなかった。




