第199話 知夏_辞めたい理由、続ける理由
クローゼットの奥から煙草の箱を取り出した。
1日1箱のペースで消費していた大学時代に比べて、ほぼ禁煙できていると言っていい。今では年に1〜2本しか吸わない。
黄色いパッケージに煙草を吸っているインディアンが描かれている箱から1本抜き取ると、私は今年初の煙草に火をつけた。
昨年、蓋を開けてからまだ2本しか減っていない。思ったよりしけてはいなかった。
約1年ぶりの喫煙だ。前回吸った時は仕事で本番行為をしつこく迫ってくるお客様に本番行為はできない、と断ったら思いっきり頭を鷲掴みにされて「やらせろよ!」と暴力行為を受けた時だ。その時はその場で店長に電話して、即その客を出禁にしてもらった。
これだから、鶯谷を指定してくる客は嫌いなんだ!孤独死しろよ、クソジジイが!そう思いながらコンビニで買った煙草の蓋を開けて、路地裏で2本だけ吸って事務所に戻った。
私が在籍しているお店ではキャストが仕事中だろうが、待機時間中だろうが喫煙することを固く禁止している。匂いが髪の毛や服についた状態でお客様に会うことは望ましくない。
あの日、煙草の匂いをプンプンさせて事務所に戻っても、藤本店長は何も言わなかった。それどころか、変な客を付けて悪かったね、と有名なお店のシュークリームを食べさせてくれた。
お店を初めて利用する新規客が、どのような人かは会ってみないと分からない。それを分かった上で仕事をしているわけだから、藤本店長が謝ることではないとは思ったものの、その気配りが嬉しかった。
後にも先にも、即出禁になるほどのクソ客に遭遇したのはあの1回きりだ。店長のおかげで客質はかなり良いと思う。
深く息を吸い込み、ゆっくり口から吐き出す。煙が夜空へ逃げるように広がり、目の前を舎人ライナーが駆け抜けていく。
大学の頃はあんなに吸っていたのに、今では全く美味しいと思わなくなった。それでも、煙草を吸っている時は、好きなだけ文句や愚痴、言い訳をして良い、というマイルールに私はずいぶんと助けられ、気持ちを切り替えてこれた。
私は優太と一緒に過ごした今日を振り返った。
優太からの告白は本当にうれしいものだった。優太は待つと言ってくれた。私がこの仕事を卒業するまで待つ、と。その真摯な眼差しが、私への想いが、本当に本当に嬉しい。
今まで色んな人と関係を持ってきた。プライベートでも仕事でも。でも今日のセックスは最高だった。気を遣わなくて良いセックスはいつぶりだろう。
こんなに気持ちが満たされたのは、大学の頃に付き合っていた彼氏とのセックス以来だ。きっと精神的な部分が大きいんだろう。相手に身を任せられるって幸せなことだな。
仕事でもプライベートでも色んな人とセックスをして学んだことは、気持ち良いかどうかは肉体的な相性が合うかどうかよりも、精神的に満足できるかどうかだ。
私が今まで色んな人とベットを共にしてきても、どこか虚しさを孕んだ気持ちが消えないのは、結局のところ、消耗品でしかないセックスだったからだ。精神的に満足できれば、彼と離れた今でさえ心が満たされている。
優太を好きだと自覚した今、風俗嬢の仕事を続けていくのは辛い。気持ちの切り替えが果たしてうまくできるのか。今、仕事を辞めても3カ月は貯金でなんとか生活はできる。贅沢をしなければ、4~5ヶ月は持つだろう。
でも、いいのか?それで?
自分が決めたことを他人に左右されるような人間になってもいいのか?
しかも、恋、という不確定要素しかない感情で、自分の在り方を変えるようなことをしていいのか?
頭では最後まで仕事をすべき、と主張していた。私も自分で決めた約束は守りたいし、そういう人間でありたいと思う。
しかし、心の主張は強烈で、今すぐ風俗嬢の仕事を辞めたい、と叫んでいた。せめて、事務スタッフとして年末まで働けばいいのではないか、と。
しかし、藤本店長になんて説明する?好きな人ができたから事務スタッフだけにしてくれって?
そんな女々しいことは恥ずかしくてとても口にできない。
私は社会人になってから、こんなにもプロとしてプライドをもって仕事をしている、と自負を感じることは初めてだった。きちんとやりきって卒業したいし、そうした方がきっと後悔しない。
それに、優太はまだゆずさんと別れたわけでない。いや、本人は別れたつもりだろうが、話を聞く限りゆずさんは明らかに納得していなかった。
途中で横取りした、みたいに思われたままの状態で優太と付き合うのは嫌だった。
私は今まで、浮気や不倫をしてしまう人物の心境は小説や映画、お客様からの話でしか知る機会がなかった。しかし、あれほど自分は浮気相手になるようなことは絶対に、絶対にするまい、と思っていたのに、いざとなったらどうだ。
優太が今まで大事にしてきたゆずさんが、知ってしまったら悲しむであろうことを私は平然とやってしまった。
あんなにも、浮気や不倫をする人を内心では蔑視していたのに。さすがに予約時間外でセックスしてしまったら、風俗嬢の仕事の内、という言い訳は立たない。なるほど。恋は盲目、とは昔の人はうまいこといったものだ。
私はチューハイの缶に煙草を落とし込み、新しい煙草に火をつけた。
好きな人がいる状態で風俗の仕事をしたくないという気持ちと、プロとして最後まできっちり勤め上げたいという気持ち、どちらも私の本心だ。
それでも私の頭の中では、一時の恋愛感情に任せて行動をとるべきではない、こういう時は周りが見えなくなりがち、と警報が鳴っていた。
それに私は色恋事で他人に自分の感情を激しく左右されることが、好きではない。だが、好きになってしまった気持ちはどうしようもなく強烈で、私の手に余る
「あー、しんどい」
がんばれ私。仕事はきっちりやれ。
西日暮里駅方面に向かって走り抜けていく舎人ライナーに向かって、私は思いっきり煙を吐き出した。




