第191話 知夏_絵麻の結婚報告
すっかり冷え込むようになった早朝の冷気を網戸越しに感じながら、部屋の空気を入れ換える。部屋の換気を行っている間にお湯を沸かし、マグカップに注ぐとレモン汁と蜂蜜を入れてスプーンでかき混ぜながら飲んだ。
今日はジムに行かず、YouTubeの動画を見ながら有酸素運動と筋トレを行い、プロテインを飲んでからシャワーを浴びた。
出かける支度を整え、黒の革ジャンを羽織るとまずは通っているフェイシャルエステのサロンに向かった。
2週間に1度の美容デー。私が最も楽しみにしているご褒美デー。来月でもう通うこともなくなってしまう。風俗嬢を卒業して一般企業に戻ることは楽しみであるが、美容に使えるお金がかなり少なくなることに多少の抵抗がある。
さすがに一般女性は毎月15万を超える金額を美容代に使えないもんな、と考えながらも嫌だなー、と本音を隠せない。
私はこの仕事をして自分のとある側面に初めて気づいた。物欲はそこまでないが、自分自身にお金を投資して外見を磨くことがどうやら好きなようだ。
内定はまだ決まってはいないが、給与によっては月1位ならフェイシャルやボディのサロンに通えるかもしれない。今通っているところは高くてさすがに無理なので、もう少し庶民的なサロンを探してみよう。
私は午前中にフェイシャルサロンに行き、終わるとアロママッサージを全身に受けた。表参道でお洒落だが量が少ないのに高いランチを食べ、なんで表参道ってこんなに高いんだ?と文句を言いつつ、イケメンオネェのタクヤさんに髪の毛を染めてもらい、トリートメントをしてもらった。
全身ツヤツヤになりご満悦で新宿に向かうと、絵麻との待ち合わせまで駅中にあるカフェで読書をして時間を過ごした。1時間程で絵麻から駅に着いた旨の連絡が来たので、駅の改札に向かう。
多くの人込みの中にも関わらず、絵麻はすぐに見つかった。紅葉を思わせるようなきれいなグラデーションのワンピースの裾をはためかせながら、黒に近い茶色のかっちりしたコートを羽織っている。相変わらず目立つ。
特にお店を決めていなかったので、とりあえず新宿三丁目方面に向かい肉バルのお店に入った。赤ワインと肉の盛り合わせ、ピクルスを注文し、運ばれてくるまで絵麻が出店した先日のイベントの話を聞いた。
絵麻のブースは大盛況だったようで、大幅黒字。来店したお客様から陶芸教室の予約も入り、結果は上々だったようだ。
運ばれてきたワインとピクルスを受け取り、おめでとう、と言って乾杯した。
「で、報告したいことってなに?」
私は先日、絵麻から送られてきたラインを思い浮かべた。
絵麻とはよく遊びに行くが、珍しく報告したいことがある、と硬い文面で連絡が来たのだ。絵 麻は少し困ったような顔をして言った。
「…私、たぶん陸と結婚すると思う」
「えぇ!まじ!?おめでとう!!」
大声をあげてしまったが、絵麻の表情に気づいて声を落とした。
「え、待って、どうしてそんなに微妙な顔してるの?もしかして、あまり乗り気じゃない?」
「乗り気じゃないというか…」
歯切れが悪い絵麻なんて珍しい。絵麻が話し出すまで、とりあえずピクルスを食べながらワインを飲む。注文した肉の盛り合わせが来たところでようやく絵麻が話し出した。
「知夏、前にお店に来るお客の多くがレスになってくる、って言ってたじゃん。あれってどうしてそうなっちゃうのかな?」
「レス?あぁ、セックスレス?」
「ちょっと、こんな人がいる場で止めてよ」
平然と言った私に絵麻が慌てて言う。風俗業界にいるとセックスという言葉を口にするのに何の抵抗も無くなってしまうので、つい口から出てしまった。私はごめん、と言いながら思案した。
「なぜセッ…、レスになるかというと、理由は人それぞれだから一概にはこれ、とは言えないんだけど」
「いいよ。知ってる範囲で教えて欲しい」
「あー、そうだな、子供が生まれたことがきっかけっていう人は多い印象かな。やっぱり近くに子供がいる環境だと集中できないって話はよく聞くし。あと、奥さんが出産してから断られるようになった、っていう話もよく聞くよ」
「なるほど。お子さんがいない夫婦は?」
「女として見れなくなった、って言う人もいるよ。異性じゃなくて家族って認識しちゃうとスイッチが入らないって」
「なるほど。他には?」
「年齢を重ねて性欲が減退するとか、奥さんが閉経してそもそもするのが難しくなった、とか。」
絵麻がなぜ?という顔をしているので、付け足した。
「閉経すると濡れにくくなるから、痛みを感じやすいみたいだよ」
「そうなんだ。他には?」
「あー、そもそも奥さんに性欲があまりない、プラトニックな関係を望んでいるけど、旦那側はそうじゃない、自分で処理しきれなくて来る人もいるし」
「そっか…」
前のめりに話を聞いていた絵麻が、椅子に寄り掛かった。
「…私たち、その、夜の方があんまり上手くいってないんだ」
「あ、そうなんだ。どのくらい期間が開いているの?」
「もう1年ちょっとくらい」
「あー、けっこう空いてるね」
絵麻はため息をつくと、ワイングラスを揺らしながら目線を落として言った。
「私さ、やっている時に中々いけないのが悩みだったんだけど、陸だといけるんだよね。精神的な面が大きいんだろうな、とは思うけど」
でもさ、と絵麻は続けた。
「…ここ1年間、私がいったら終わりなんだよね」
「え?あ、うん?」
それの何が不満なんだ…?というかやってるじゃん。
「その、あれってさ、入れたら成立するもんじゃん?」
「…?」
しばし沈黙が流れる。
「…いや、べつに本番行為がなくても成立すると思うよ」
「業界用語過ぎ」
笑いながら絵麻が言った。
「あー、つまり、本番がなくて物足りないってこと?」
「いや、物足りないとかじゃなくて、私じゃダメなのかなって」
「え、なにが?」
「だから、女性として魅力がないというか、女として求められていないのかな、って」
「いやー、そんなことないと思うけど…。だっていかせてくれるんでしょ?」
「でも陸はいってないんだもん…」
「陸さんはそのことについて何か言ってたの?」
思いっきり眉間にシワを寄せた。理解できない、と顔に書いてある。
「私がいってる姿を見て満足なんだって」
それを聞いて私は感心してしまった。さすが陸さん。元女風のキャストなだけある。
「陸さんがそう言ってるなら、そうなんじゃない?」
「でも、私にとっては特別なことなんだよね。私は付き合った人としかやったことがないし、やっぱりそれがないって、寂しいし。あぁ、私って女として求められていないのかな、ってさ」
…なるほど。絵麻にとってのセックスとは挿入行為を伴うものを指しているのだろう。彼女にとっては挿入行為そのものが恋人である証なのだ。




