第190話 知夏_お客様ではない時間
濡れないよう漫画を慎重に開きながら、肩まで湯船につかった。脱衣所に置いてあるミニスピーカーから軽快な音楽が流れている。
たっぷり30分は湯船に浸かったところで上がり、部屋着に着替えるとパックをしながら髪の毛を乾かす。鎖骨下まで髪の毛を切ったので乾かす時間が短縮されてだいぶ楽だ。
リビングに戻り携帯を見ると、優太から着信が残っておりドキッとした。私は直ぐに折り返した。コール音が切れると、少しだけ緊張しながら「もしもし」と言う。
『もしもし、ごめん、忙しかった?』
「ううん、お風呂入ってた。気づかなくてごめんね」
『いや、こちらこそ、いきなり電話してごめん』
「いいよ。気にしないで。実家、どう?」
優太は新しい柴犬が飼われていたこと、大和丸と船みたいな名前が名付けられていたこと、近所の猟銃免許を持っている人からジビエ料理の話を聞いたことや、弟さんのお嫁さんのことなど今日あったことを色々話してくれた。私は笑いながらその話を聞いた。
今日何をしていたのか聞かれたので、ジムに行き、就活の準備をして漫画を読んでいた、と我ながら何ともない平凡な日常の話をした。そこから他愛のない話になりそれは高校生の頃、好きだった女の子と長電話をた夜を思い出させた。
『次の土曜日、11時から予約していい?』
「いいよ。いつものところで待ち合わせ?」
『そうしよう。お昼ご飯、用意しておくよ。何食べたい?』
「簡単なものでいいよ。いつもありがとう。」
『それが一番困るんだよなぁ。じゃあ、アクアパッツァとかどう?』
「おしゃれ。じゃあ、ワインと薔薇を持っていくわ」
私は冗談めかして言った。優太の誕生日を彼の部屋で過ごしてから、ずっとホテルではなく自宅コースで予約してくれている。
彼はいつも美味しい料理を用意してくれており、ランチを食べながら一緒に話すひと時がたまらなく楽しい。こんなに楽しませてくれる彼に、なにか少しでも感謝の気持ちを表したい。
「次からの予約時間、最短コースにして欲しい」
『その日、予定あるってこと?』
「ないよ。優太が予約してくれる日は丸々一日空けてる。予約時間が終わっても、まぁ、一緒にいてもいいかな、と思って。いつもそうしてるし」
『それは時間外労働をしてくれるってこと?』
あはは、と私は笑った。
「そういうこと」
かすかに息をのむ音が電話越しに聞こえる。その仕草に彼の表情が目に浮かんだ。
しかし、優太は私の収入を心配してくれた。私の売上が下がらないか、と。そんなことにまで気を回せるお客様は他にはいない。つくづく、気遣いの塊だな、と思う。
それに、優太からの指名による売上が下がったところで、私の生活に影響が出るほど収入に響きはしない。
「大丈夫。困ってないから」
『奨学金の返済が終わったってこと?』
「…まぁ、そんな感じ」
つい躊躇いがある返事をしてしまった。噓をつくのがしんどい。しかし、優太は深く突っ込みはせず、「おめでとう」と言ってくれた。
短い沈黙が流れたのち、優太は呟くように言った。
『俺さ、彼女と別れようと思う』
「えっ、どうして?」
驚きのあまり声が裏がった。
『今度、会った時に話すよ』
「わかった。私でよければ話を聞かせて」
『ありがとう。遅くまでごめん。また電話してもいい?』
「いいよ」
『ありがとう。そしたらまた連絡する。おやすみ』
「わかった。おやすみ」
電話を切ると2時間半も話していた。時間が溶けたのかと思うくらい、時が経過していた。
なぜ、ゆずさんと別れることにしたのだろうか。先日、ハンドメイド展で絵麻のブースで見かけた時は、ゆずさんあんなにも楽しそうに優太のことを紹介していたのに。
想いを巡らすも、どれも想像の域を出ない。次の土曜日に話してくれるとのことだったが、気になって仕方がなかった。




