第187話 優太_一匹の犬と山の記憶
マルはよく躾けられた犬だった。ピッタリと俺の横を歩き、曲がり角ではスムーズについてくる。特に寄り道をしたがるわけでもなく、飼い主に従順でよく躾けられていることが良くわかる。きっと元の飼い主の吉田さんはしっかりした人なんだろう。
まだらに建っている民家の間を抜け、ひたすら田んぼしか見えない景色の中をてくてく歩き、またまばらに民家が経っているエリアに吉田さんの家はあった。
立派な松が生えている庭を眺めながら門をくぐり、インターホンを押した。指示を出す必要もないくらいマルが隣でお行儀良く座っている。
ドアが少しだけ開き、老人がドアの隙間から顔をのぞかせた。俺はぺこりと頭を下げ、「白川です」と挨拶をした。
「あぁ、英ちゃんとこの倅か。さっき、英ちゃんから電話があったよ」
英ちゃん?と思ったが、すぐに父の英太のことだと気付く。
吉田さんがドアを開けると、マルが勢いよく吉田さんに抱き着こうと後ろ脚で立ち上がった。その勢いに引っ張られてバランスを崩す。
「大和丸!元気にしていたか?」
吉田さんは嬉しそうにマルの体中を撫でまわした。なんと、大和丸という命名をしたのは父ではなく吉田さんだったようだ。
「庭に回って。今、お茶を入れよう」
「あっ、お構いなく…」
といったものの、スタスタと家の中に戻っていく。父親を筆頭にどうやら話を聞かない年配の方がこの町内会には多いようだ。手土産だけ渡して帰ろうかと思ったが、仕方なくドアを閉めてマルを連れて庭に回った。
立派な縁側があり、おれはそこに手土産を置いてマルのリードを外した。マルは嬉しそうに広い庭を走り回り、今日一番のはしゃぎようだ。
襖が開くと吉田さんがお盆に湯のみと、お茶請けを乗せてやってきた。その時、初めて片足を引きずるように歩いていることに気づき、慌ててお盆を受け取る。よいしょ、と言いながら縁側に座った吉田さんの元へマルが一直線に戻ってきた。
「あの、これ、父からです」
柿とさつま芋が入った袋を手渡した。
「悪いね。お礼に鹿肉を持たせたいところだが、まだ狩猟期間じゃないから、家になくてね。帰りに他のものを持たせよう」
「いえ、本当にお気遣いなく」
俺は遠慮しながらも、狩猟期間という言葉が気になった。話を聞くと吉田さんは狩猟免許をもっており、去年まで山で鹿を狩っていたそうだ。その時の相棒としてマルを連れて行ったと聞いて、よく躾けられていることに納得した。
吉田さんが話す狩猟の話は思いのほか興味深く、ジビエ料理に合う野菜に関する知識は仕事の役にも立ちそうで、夢中になって話を聞いた。
気づけば1時間以上もたっており、俺はお暇する旨を告げた。吉田さんは立派な自然薯と一升瓶の地酒を袋に入れて持たせてくれた。自然薯が立派すぎて、かなり袋からはみ出ている。
家の門をくぐると、マルは心残りがあるそぶりで吉田さんの家を振り向いたが、リードを少し引っ張ると素直についてきた。ほんとうによく躾けられている。
来た道に戻りながら先ほど吉田さんから聞いた話を反芻する。ジビエに合わせる野菜商品は、マーケットとしては大きくはないがニッチ層に刺さるのではないだろうか。出社したらもう少し詳しく調べてみよう。
そんなことを考えていたら、あっという間に実家についた。




