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第184話 優太_名前を知った夜

「…時間外労働だから?」

「そういうことじゃない」

 怒ったように言っている。なぜ、そんな顔をしているのかわからない。

「…ごめん」

「謝らなくていいんだよ」

 少し困ったように見上げてくる彼女に、俺も困った顔で見つめ返した。彼女が今、何を考えているのか分からなかったのだ。

「せっかくだから、もう少し散歩しよ」

 知夏の言葉に俺は黙って頷くと彼女から手を繋いできた。怒っているわけではなさそうで少しホッとする。歩きながら池の向こうにある高層ビルの明かりを見つめた。

「今週末、実家に帰らないといけないから、来週末に予約していい?」

「うん。この時期に里帰り?」

「弟が結婚するから、嫁さんつれて挨拶に来るって」

「米農家の弟さんだよね。おめでとう!」

 ありがとう、と言いながら俺は今週末に彼女と過ごしたい気持ちにかられた。

 しかし、土曜日の夜に一緒に食事をする約束をしているので日帰りは難しい。やっぱり日曜日の午前中に東京に戻ってきて午後に彼女を予約しようか。

「ちなみに今週の日曜日って予定空いてる?」

「ごめん、日曜日は予定ある」

「そっか、…他のお客さんからの予約?」

「違うよ。土日にリクエスト予約してくれるのは優太だけだよ。友達と遊びに行ってくる」

 淡い期待はあっさりと崩れたが、知夏の言葉に気分を持ち直した。

「あのさ、もし良かったら連絡先教えてくれない?迷惑はかけないから」

 そのとたん、明らかに困惑した表情が彼女の顔に浮かんだ。

「ダメ?」

 俺は立ち止まって彼女の顔を覗き込む。困惑から迷いが生じたように、うつむきがちで考えているようだ。

「…電話番号で良かったら」

 その言葉に俺は嬉しくて目に涙が浮かんだ。

「ありがとう」

「ん、いいよ」

 知夏は鞄から携帯を取り出すと、電話をかけた。080から始まる番号が俺の携帯に表示される。

「適当な名前で登録しといて。下の名前では登録しないで」

「どうして?」

「もし、彼女に携帯を見られたら、揉める原因になるでしょ」

 確かに。しかし、ゆずは人の携帯を見るようなことはしないと思うが、念のため知夏の意見に従う。

「苗字なんて言うの?」

「…アオキ」

「どういう漢字?」

「色の青に樹木の樹」

 空中に指で文字を書きながら説明してくれた。

「珍しい組み合わせだね。」

「そうね。アオキって苗字はよく聞くけど、この漢字の組み合わせの人には合ったことないかも」

俺は頷きながら彼女の連絡先を登録した。

「これって本名?」

「偽名の方が良かった?」

 笑いながら言う彼女に首を横に振って応えた。フルネームで本名を知れたことが嬉しい。

「今週末、電話してもいい?」

「土曜なら」

「わかった」

 携帯をポケットにしまうと、再び歩き出す。

「一緒に帰らない?日比谷駅から千代田線で1本で帰れるよね」

「んー、私はJRで帰る」

「この後、予定あるの?」

「ないよ。なるべく、もめごとの原因にはなりたくないだけ。」

 そう言って残念そうに彼女は肩をすくめる。先ほどの居酒屋で千早と遭遇したことを気にしているんだろう。その気遣いが嬉しくも、少しだけ寂しくもあった。知夏は冷静だな、と思ってしまう。

「じゃあ、駅まで送るよ」

 池をぐるっと回って日比谷公園をでた。有楽町駅に近づくにつれて人通りが増えてくる。知夏の配慮に従って、手は繋がないまま改札口につくと寂しい気持ちを抱えたまま手を振った。人込みに紛れて彼女の姿が見えなくなるまで見送る。

 本当に人妻かどうか、確認することはできなかったけど連絡先を聞けただけでも前進だった。俺は登録した電話帳を見て、今来た道を戻り日比谷駅へ向かった。

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