第160話 知夏_実家に帰省
空が広い。少しずつ紅葉し始めた山々がどんどん後ろに流れていく。車窓からの景色を楽しめるよう、私の頭上から足元まである特別仕様の大きな窓のおかげで景色の中を走っているような気分になる。
まるでホテルのような絨毯使用の床に、触り心地の良いゆったりとした椅子。いつもは一番安いルートで帰省していたが、今回は少し贅沢をして全席指定の特急に乗ることにした。
というのもつい先日、テレビでこの列車が紹介されているのを見て乗りたくなったのだ。実際の乗り心地は予想以上に良く、これが旅行だったらテンションがさらに上がったかもしれないが、残念ながらただの帰省なので特にワクワクするわけではない。しかし、頭まである背もたれに体を預けるとのんびりした気持ちになる。
特に何をするわけでもなく、景色を眺めながら電車に乗る。贅沢な時間の使い方だと思う。移動時間はいつだって情報収集に費やしてきた。世の中のニュース、常連客と話を合わせるために必要な知識、最近の流行など。
難しい話ができなくても男性は自分が話す話題に対して感心され、リアクションを示されればある程度は喜んでくれる。でも、それは見た目がずば抜けて魅力的な女性なら、それで通用するかもしれない。
いい女が俺に感心している、それだけで男性の自尊心はくすぐられると思う。しかし、私レベルの女性では、それだけでは多くのお客様を維持し続けることは難しい。ずば抜けたスタイルがあるわけでも、幅広いプレイテクニックがあるわけでもない。体で繋ぎとめる自信がない分、会話能力を磨くしかない。
手ごたえのある会話をするには、話を合わせられるだけの知識が必要だ。とはいえ、知識をひけらかすようなことは絶対にせず、あくまでも相手に気持ちよく話してもらうために必要な知識だ。
会話は前提知識があるのと無いのとでは全く違う。地道な努力だが、振り返ってみれば移動時間を有効活用したおかげで今の収入を維持できていると思う。だからこそ私は暫しの間、何もしない贅沢な時間を楽しんだ。
西武秩父駅に到着すると、思いのほか観光客がいた。駅前に温泉施設ができたおかげか、ちょっとした観光スポットになっている。紅葉にはまだ少し時間が足りないが、今の時期は登山するにはちょうどいいだろう。
駅前のロータリーで兄の車を見つけると小走りで近寄った。10歳離れた1番上の兄、イチ兄だ。私に気づいたイチ兄がずんぐりむっくりした手を振ったので私も振り返す。助手席に座り、シートベルトを閉める。
「お迎えありがとう。」
「全然いいよ。お腹すいてる?フィナンシェ食べる?」
ダッシュボードに置いてあった紙袋を受け取り、中をみるとふんわりとバターの匂いがした。
「自作?」
「もちろん」
パティシエである兄はこの生まれ育った地元で小さな洋菓子店を営んでいる。ケーキがメインだが、私は兄が作るフィナンシェが世界で一番美味しいと思う。
「うま!相変わらず美味しい。ってか、イチ兄、また太った?」
「いや~、40になるとなかなか体重が落ちなくて」
たっぷりしたお腹まわりの肉布団のせいで、運転席が狭そうだ。元々、柔道をやっていたせいでガタイが良い方だが、筋肉の上に脂肪がついているので余計にでかく見える。
車を数十分走らせると、父方の祖母の家に到着した。昔ながらの母屋と離れがある家で、とても広い。私の実家はこの祖母の家から歩いて5分もかからないので、学校が終わると共働きの両親の仕事が終わるまで、ほぼ毎日この家で遊んだり、宿題をしていた。
学校終わりに友達と一緒に行けば、七輪で焼きおにぎりを作ってくれた祖父はもういない。亡くなって今日で7回忌だ。
駐車場に車を止めると食べごろの実をつけた柿の木の下を通って、玄関を開けた。今ではめったに見かけなくなった摺りガラスの引き戸。ガラガラとやかましい音を立てて玄関のたたきで靴を脱ぐと、お線香とホコリの匂いが鼻孔をつく。懐かしい祖父祖母の家。
「ただいま。」
居間に向かって声をかけると、どたどたと足音が近づいてくる。隣にいたイチ兄にだいぶするように、イチ兄の末の子が飛んできた。
「おかえり!お腹すいたよ!」
イチ兄をミニチュアにしたような、ぽっちゃりした6歳のこの甥っ子は末っ子らしい甘えん坊で、小学生になった今でも抱っこをせがんでくる、と先ほど車の中でイチ兄が教えてくれた通りに甘ったれだ。
「お昼までもう少しだから我慢しなさい。知夏と遊んでもらいな」
イチ兄が末っ子を私にパスすると、すかさず抱っこを迫られる。私は腰をかがめると思いっきり飛びついてきた甥っ子を慌てて受け止めた。うっ、重い…。
よいしょ、と言いながら居間に入ると、すでにイチ兄の家族と次男のハル兄がそろっており、口々に挨拶を交わした。




