第86話・ゆっくりと、穏やかに。
「じゃあ、兄ちゃん。僕らも戻るよ」
「ジャック、それに葵……ン王女」
「はあ? なによ、それは」
記憶が戻ったアン王女は、海賊ミナミナの事は覚えていたけど、廃墟部屋で一緒だった僕らの事は全く覚えていなかった。
特にショックだったのは、要が拾っておいたベルノパンプスに首をかしげ、『センスないわね』と瓦礫の中に放り投げてしまった事だ。
自分の世界に戻るのだから、余計な記憶はない方がいいのはわかるけど、やはりさみしさは感じてしまう。
……そして別れのとき。
崩れた天井から太陽が差し込み、二人はす――っと、光の中に溶けていった。目に、キラキラとした輝きを残しながら。
♢
「う~ん、起きへんなぁ」
亜紀さんはベルノのほっぺをつつきながら、幸せそうに寝ている表情を覗き込む。
「あ、そうだ……」
僕は試しにと、マジックバッグからチャーシューアップルパイの一片を取りだして、ベルノの鼻先に置いた。
直後、スンスンと鼻を動かすベルノ。そして――
「猫耳モフモフ美少女超爆誕ニャン!」
ビシッと手を挙げ覚醒するベルノ。瞬きする間に、すでにパイは口の中に入っていた。……元気そうでなによりだ。
白亜紀のメンバーは、ナローが責任もって送って行くそうだ。錨の印はもうないのにどうするのかと思ったら、『仕事仲間がおるから大丈夫』と言われた。
女神妖精さんが仕事仲間って、この人たちの関係は最後まで理解できなかった。
「あ、そうそう、ちなみにやけどな……」
と、真面目な顔の亜紀さん。
「猫の手も借りたいってのは、『役に立たなくても可愛いから全部許す』っちゅー意味やで!」
「最後に意味不明な事ぶっ込まないでください!」
……ホント、読めない人だ。
「あの、亜紀さん」
「なんや?」
「この時代に残ろうとは思わないのですか?」
別に意地悪で聞いたのではなく、純粋に疑問としてぶつけてみた。元々この時代の人なのだから、未練がないのかちょっとだけ気になったんだ。
……しかし
「ウチが帰る場所はみんなの所や。ここやないで!」
こんな満面の笑みで即答されたら、納得しない訳にいかないだろう。
僕らは、亜紀さんやティラノ、そしてベルノにあてのない再会の約束をした。それは希望であり、願望だった。
「じゃ、颯太を頼む」
「ああ、まかしとき」
彼の怪我は、思いのほかひどくはなかった。僕と要の魔法のほかに、彼自身も氷魔法で防御していたのが大きかったようだ。
「颯太はんは体力あるさかい、二〜三日で完治すると思うで」
それでも重傷には違いないし、体内にはまだ魔法の影響が残っているらしい。それらを完全に治療するために、ナローの属する機関に任せるしかなかった。
「それじゃ水音っち……」
「うん、帰ろうか!」
辛いけど楽しかった。悔しさもある。でも、もっとみんなと一緒に冒険がしたかった。こんな充実した経験は、もう二度とないだろう。
そんな気持ちがあふれ、名残惜しさはいつまでも尽きなかった。
♢
洋館から外にでると、目の前には大きな白い塊が鎮座していた。なんとなくちぎって口に運びながら、懐かしい空気を肺いっぱいに注ぎ込んだ。
「あ、水音っち」
「ん?」
「今だから聞くけど、水音っちって、葵ちんの事好きだったんじゃないっスか?」
もしここに来る前だったら、恥ずかしくて黙り込んでしまっただろう。
「そうだね……好きだったよ。でもさ、それって要もだろ?」
葵さんが意識を取り戻したとき、彼女はアン王女だった。僕も驚いたが、要の受けたショックはそれ以上だと思う。彼女の記憶の中に、要の存在がまったく無かったのだから。
「でも、まあ。性格がね……」
「あ~、そうっスね……」
もちろん、葵さんだったらよかったのに、とは思わない。ジャックが、誘拐されたアン王女を取り戻したのは僕も嬉しいのだから。
……それでも、心の奥にほんのりとした切なさが、静かに染みついて離れないのも、紛れもない事実だった。
「このあと、本屋に寄っていかない?」
僕らは洋館を背に、雑草の青くさいにおいを踏み倒しながら歩きはじめた。
「冒険した世界の本を、買っておこうと思ってさ」
「それ、いいっスね!」
青い空を流れる雲のように、ゆっくりと、穏やかに。




