3.天翔る竜
眼下では、帰宅を急ぐ人々が足を止めていた。
誰もが驚いた顔で空を見上げ、灰銀色の竜を指さしている。
竜が町の上を飛ぶ光景など、今の子どもたちは絵本の中でしか知らないからだろう。
ひとりの少年が、何かを叫びながら両手を振っていた。
声は風にかき消されて聞こえなかったが、ベルにはわかった。
『かっこいい!!』
きっと、そう言っているはず。
ベルは手綱を握り、前を向いた。
竜便局の鐘楼が、少しずつ遠ざかっていく。
あの建物で、ベルは四十年近い時を過ごした。
十六歳で見習い竜便士になり、テラと出会い、テラの背に乗った。
そして、竜便局で働いていたエルナと出会い、恋をし、結婚した。
時に戦地を飛び、雪山へ飛び、たくさんの手紙や郵便物を抱えて天を翔けてきた。
楽しいことばかりではなかった。
それでも、あそこには人生の大半が詰まっていた。
今朝まで、あの場所で自分の生涯も終わるものと思っていた。
竜便局の閉鎖後は、気ままに隠居生活を送るつもりだったし、テラが処分場へ連れて行かれるのをどうにか止められさえすれば……と思っていた。
テラさえ守れたらーーその先のことなど、考えていなかった。
『後ろ髪を引かれているなら、戻るか?』
テラの声が頭に響いた。
「いいや、戻らない。久しぶりの空だ。堪能しようじゃないか。それにお前、ちゃんと前を向かないと落ちるぞ」
『心配するな。落ちる時はお前を下にするから』
「相変わらず、お前は可愛げのない竜だ」
『六十にもなって、竜に可愛げを求めるなよ』
「六十じゃない。まだ五十九だ」
『来月で六十だろうが』
「来月までは五十九だ」
『往生際の悪い人間だ』
ベルは舌打ちした。
***
昔から、テラは記憶力がいい。
エルナの誕生日。
ベルが酒場で潰れた回数。
初飛行の日にベルが吐いたこと。
結婚記念日を忘れて、エルナから家を締め出された日。
どれも覚えているのだ。
そのくせ、自分が若い頃に郵便袋を食い破ったことや、牧場で飼われていた羊を野犬のせいにして食べたことは、きれいさっぱり忘れている。
いやーー忘れたふりだろうか。
町を抜けると、眼下に広いライ麦畑が現れた。
夕日に照らされた穂が、風に揺れている。
その向こうには、魔導鉄道の線路が銀色に伸びていた。
青白い光をまとった列車が、テラたちと並ぶように北へ走っている。
窓には明かりが灯り、座席に座る乗客たちの姿が小さく見えた。
あれなら、北部の中心都市まで一時間ほどだろうか。
今のテラでは、四時間はかかるかもしれない。
時代が魔導鉄道を選んだ理由は、ベルにも理解できる。
だが、理解できることと、納得できるかどうかは別の話だ。
なんでも、新しくしてしまえばいいというものでもないだろうに。
『おい、追っ手がくるぞ』
テラが言った。
背後から、甲高い警笛が響いた。
ベルが振り返ると、空中に三つの光輪が見えた。
小型の魔導艇だ。
王立郵便局の紋章。
先頭の艇に立った局員が、拡声魔石を口元へ当てた。
『ベル・クライン!直ちに停止しなさい!』
「無茶を言うもんだ」
『止まりなさい!公的保管物の無断持ち出し、ならびに、王立郵便局管理財産強奪の罪であなたを逮捕する!』
「おい、テラ。お前は強奪されたらしいぞ?」
『そうか。では、怯えたふりでもしておこうか?』
二人はケラケラ笑った。
拡声魔石が再び怒鳴る。
『進路を変え、竜便局へ戻りなさい!今戻れば、罪には問わないことにする!従わない場合は――』
テラが大きく羽ばたいた。
巻き起こった風が、局員の声を吹き飛ばす。
老いても、郵便竜の翼は小型艇の帆より遥かに大きい。
三隻の艇が大きく揺れ、隊列を崩した。
「テラ、やるじゃないか」
『昔なら、まとめて畑に落としてやれたものを!』
「今無理したら、こっちが先に畑へ落ちるだろうな」
ベルは手綱を引いた。
「北西へ向かえ。森の上を抜けよう」
『ロンダルは、真っ直ぐ北だぞ?』
「まっすぐ飛んだら追いつかれるだろ。向こうはお前と違って疲れないんだから」
『私も歳だ。今回は、お前に従おう』
テラは翼を傾け、進路から外れた。
二人はライ麦畑の上を越え、北西の森へ向かった。
低く垂れ込めた雲が、遠くの山を呑み込んでいる。
テラは上昇しようとした。
その瞬間だった。
左の翼が、不自然に跳ねた。
テラの巨体が大きく傾く。
「テラ!」
ベルは咄嗟に鞍へしがみついた。
荷物鞄が激しく揺れ、中の荷物がかさりと鳴る。
テラは右の翼で体勢を立て直したが、高度が一気に落ちた。
眼下の木々が迫る。
『騒ぐな』
テラの声は平静だった。
だが、呼吸が荒い。
「痛むのか?」
『少し風をつかみ損ねただけだ』
「嘘をつけ」
ベルは後ろを見た。
魔導艇はまだ追ってきていたが、森の手前で速度を落としている。
この先は昔から、乱気流の多い空域として知られていた。
新式の魔導艇は直進には強いが、曲がる動作や、複雑な自然風には弱いのだ。
昔のテラなら、この森の上を飛ぶだけで振り切れただろうが、今のテラの翼では、乱気流に入るのは危険だった。
「テラ、少しだけ頑張ってスピードを出せるか?一気に追っ手を巻いたら、一度、森に降りよう」
『大丈夫だ。俺は、まだ飛べる』
「いいから!一度、降りるんだ」
しばらくして、テラが不機嫌そうに鼻を鳴らして、一気にスピードを出した。
テラが一気にスピードを上げたおかげで、追っ手はもう見えなくなっていた。
「テラ、このへんで着地できるか?」
『誰にものを言っている!』
テラは一度大きく旋回した。
翼が風を打つたび、左側がわずかに遅れる。
ベルはそれに気づいたが、何も言わなかった。
テラは勢いを殺しきれずに、森の木々へ何度も体をぶつけた。
テラはまるでベルを庇うように、羽を後ろへ縮め、背中を守った。
乾いた木の割れる音。
テラは着地の際に、地面に腹を打ちつけた。
ベルも鞍から放り出されかけ、テラの首にしがみつく。
数秒後、あたりは静かになった。
***
『見事な着地だったろう』
テラが言った。
「どこがだ」
『生きているんだから、文句を言うな』
「基準を下げすぎだろ」
ベルは鞍から降りようとして、足が鐙から抜けなくなった。
「……待て」
『何をしている』
「足が引っかかった」
『大陸最速の竜便士が聞いて呆れるな』
ようやく地面へ降りると、膝が笑った。
ベルはテラの身体に手をつき、しばらくその場で息を整えた。
たった一時間にも満たない、五年ぶりの飛行だった。
それなのに、腰は痛み、腕は痺れ、内臓が全部本来の位置からずれたような気がする。
若い頃は、夜通し飛んだあとでも、そのまま酒場へ行けたのに。
今同じことをすれば、酒場ではなく診療所に運ばれるだろう。
いやーー下手したら、そのまま墓場かもしれない。
「お前、さっき俺を庇っただろう。翼は大丈夫か?」
『馬鹿か。なぜ、私がお前を庇うんだ。それに、竜の翼は頑丈なんだ。問題ないさ』
そう言って、テラは視線を逸らした。
ベルはよく知っているーーテラが視線を逸らす時は、何かを隠している時だ。
ベルは革鞄から薬瓶と包帯を取り出した。
「テラ、翼を広げてみろ」
『嫌だね』
「いいから」
テラは観念して、渋々、翼を地面へ伸ばした。
両方の翼に、新しい裂傷がいくつも走っていた。
大きくはないが、古傷のすぐ隣だ。
ベルは薬草油を塗りながら、低く言った。
「俺は大丈夫だから、お前は何があっても自分の翼を第一に考えるんだ。いいな?」
『ああ』
ベルは包帯を結び終えた。
「ひとまず、もうすぐ夜が来る。明日の朝までここで休もう。追手も、夜の森へは入ってこないだろう」
ベルは周囲の木々を集め、火を起こした。
荷物鞄を地面へ置いて、鞄の留め金を外し、最初に選んだロンダル宛の封筒を取り出した。
”リューネ・ハルバート様へ”
裏には、差出人の名前がある。
”カルム・ハルバートより”
「ハルバート……」
『なんだ。知っている名か?』
「いや」
ベルは封筒を灯りへかざした。
封蝋には、鉱山労働者組合の印章が押されている。
消印は十五年前。
ロンダルが大地震で消滅した、その三日前だった。
受取人は、地震で死んだ可能性が高い。
たとえ生き延びていたとしても、今どこにいるかはわからない。
ベルは配達記録を開いた。
エルナの文字が並んでいる。
”宛先消失につき保留。ロンダル避難民は北部各地へ。リューネ・ハルバートの名は避難者名簿に見当たらず”
ベルは手紙を鞄へ戻した。
ーーその時だった。
塔の外、森の奥から、小さな音が聞こえた。
枝を踏む音だ。
ベルは腰の短剣に手をかけた。
テラが頭を上げ、闇を睨む。
『追手か?だが、この匂いは……』
「静かに」
足音は、ゆっくり近づいてくる。
やがて、木々の間に橙色の明かりが浮かんだ。
手提げ灯を持った人影。
小柄な影だった。
「……誰か、いるの?」
少女の声だった。
そしてーー灯りの中に現れたのは、十二、三歳ほどの少女だった。
泥だらけの外套をまとい、背中に大きな布袋を背負っている。
少女はベルを見た。
次に、銀色の巨体を見上げた。
その目が大きく見開かれる。
「竜……?竜だ!!」
少女は布袋を地面へ落とし、駆け寄ってくる。
ベルの前で立ち止まると、少女は息を切らしながら言った。
「あなた、竜便士なの!?」
「元、だがな」
「お願い!この手紙を届けてほしいの!」
少女は外套の内側から、一通の封筒を取り出した。
真新しい手紙だった。
だが、その宛先を見た瞬間、ベルは言葉を失った。
そこには、こう書かれていた。
ーー”リューネ・ハルバート様へ”




