2.もう一度、空を
局長室で待っていたのは、局長と王都から来た王立郵便局局員だった。
黒い外套に、磨かれた靴。
机の上には魔導端末と封印済みの書類が並んでいる。
まだ三十代そこそこに見える男で、ベルを見るなり、形式的な笑みを浮かべた。
「あなたが、ベル・クラインさんですね」
「ああ」
「私は、王立郵便局局員のアデル・リントと申します。竜便局閉鎖に伴う最終確認のために参りました。こちらに署名をお願いします」
男は一枚の書類を差し出した。
ベルは受け取らず、文字だけを読んだ。
一番上に、”郵便竜処分同意書”と書かれているその書類には、テラの登録番号や、年齢、状態、処分理由などが書かれていた。
「署名はしない」
ベルはそう言って、紙を破り捨てた。
男が固まる。
「……ですが、規定では管理責任者の署名が必要です」
「なら、管理責任者が嫌だと言っていると書きな」
「お気持ちはわかります。長年連れ添った相棒を失うのは残念でしょう。しかし、郵便竜は個人所有ではなく、王立郵便局の管理財産なのです」
「管理財産ね」
ベルは低く笑った。
「クラインさん。時代は変わったんです」
「知ってるとも」
「竜便は非効率です。危険で、高コストで、少量の荷物しか運べない上に、天候に左右され、配達保証も不安定です。今後の輸送手段は、魔導鉄道が担うということで、すでに話がついているでしょう」
「ああ。わかっているさ。お偉いさんがたが勝手に決めただけで、俺は同意していないがな」
「おい、ベル!失礼だろうが!」
先ほどまで黙って聞いていた、竜便局局長のネフロ・グリモアが痺れを切らして立ち上がる。
「俺は忙しいんです。俺で失礼しますよ」
「おい!」
「ちょっと……!」
ベルは二人を無視して局長室を後にし、地下倉庫へ向かった。
閉局前に、最後の確認をしなければならない。
***
地下倉庫は、冷え切っていた。
古い石壁に囲まれた部屋には、壊れた鞍、使われなくなった郵便袋、封蝋の箱、古い配達記録が積まれている。
竜便局の歴史が、ほこりをかぶって眠っていた。
ベルは棚を一つずつ確認していった。
保管。中央へ返送。廃棄ーー分類札を付けていく手は淡々としていた。
感傷など入れていたら、仕事にならない。
ーーそう思っていた時だった。
棚の奥、古い防水布の下に、黒い木箱があるのを見つけた。
蓋には、見覚えのある印が焼き付けられている。
”未配達便”
ベルの手が止まった。
「……まだ残っていたのか」
木箱は重かった。
蓋を開けると、古い紙の匂いが立ちのぼった。
中には、手紙や小さな荷箱が詰まっていた。
ベルは、一番上の封筒を手に取った。
宛先は、北方の鉱山町ロンダル。
その町は、三十年前の地震で地図から消えている。
ベルは、木箱の底に入っていた配達記録を開いた。
最後の記入日は十年前。
担当者の欄には、懐かしい筆跡で名前があった。
”エルナ・クライン”
ベルの亡き妻の名だった。
エルナは、この竜便局の仕分け係だった。
ベルが空を飛んでいる間、彼女は地上で手紙を守っていた。
丁寧で、よく笑い、怒るととても怖い女だった。
彼女は六年前、病で死んだ。
最後の日、ベルは配達で家を空けていた。
帰った時には、エルナはもう息絶えていた。
言えなかった言葉は、今も喉の奥に引っかかっている。
昔から不器用で言葉足らずなせいで、本当に伝えたいことは、何一つ彼女に伝えられなかったと思う。
配達人のくせに、実に情けないことだ。
木箱の中に、一枚の紙片が挟まっていて、そこには何か書いてあった。
それはーー忘れもしないエルナの字だった。
”ベルへ。
いつかこの箱を見つけたら、どうか、届くはずだった人の元へ届けてあげて。お願いね。
あなたの妻 エルナより。”
ベルは紙片を握りしめた。
この箱の中の手紙も荷物も、見つかればきっと廃棄されてしまうだろう。
正しい手続きによって。
正しい時代の流れによって。
ベルは、木箱の蓋を閉じ、木箱を抱え上げた。
腰に鋭い痛みが走る。
「っ……重いな」
地下倉庫を出ると、廊下の先にノアがいた。
彼はベルの抱える木箱を見て、目を見開いた。
「ベルさん、それは?」
「ノア」
「……はい?」
「いいか。お前は、何も見なかった」
「……ちょっとーー待ってください!公的保管物の持ち出しは違法です!」
「なら、あとで捕まえな。俺は、仕事をしないといけないんだ」
「クラインさん!」
***
ベルは階段を上がり、事務室を抜け、竜舎へ戻った。
テラが顔を上げる。
ベルは木箱を床に置き、竜舎の奥にある倉庫から古い鞍を引きずり下ろした。
ベルは、木箱の中身を慌ただしく取り出し、それを大きな荷物鞄に詰め込んだ。
不思議と腹は決まっていた。
竜舎へ戻ると、テラが起き上がっていた。
老竜はベルの担いだ革鞄を見て、片目を細める。
『何を企んでいる?』
「未配達便があったんだ」
『お前、まさか……』
「テラ!飛ぶぞ!もう一度、飛ぶんだ!」
テラは、しばらく黙っていた。
それから、喉の奥で低く笑った。
『ベル』
「なんだ」
『私の翼が昔ほど動かないことは知っているな?』
「知ってる」
『お前も私も老ぼれだ』
「ああ、そうだ!」
『二人合わせて、ようやく半人前ってとこだな』
「上等だ!」
ベルは笑いながら古い鞍をテラの背に載せた。
竜舎の外が騒がしい。
「ベルさん!待ってください!」
追いかけてきたノアの声。
それから、職員たちの足音。
ベルは鞍にまたがり、胸元から錆びた竜笛を取り出した。
妻が最後に磨いてくれた笛だった。
もう鳴らすことはないと思っていた。
ベルは笛を唇に当てる。
短く、鋭い音が竜舎に響いた。
テラの銀色の翼が広がる。
老いた翼だった。
傷だらけで、かつてのような力強さはない。
「行くぞ、テラ!」
『行き先は?』
ベルは革鞄から一通の手紙を抜き、宛名を見る。
「北方の鉱山町ロンダルだ」
『おい、十五年前に消えた町だぞ?』
「探すんだ。とにかく行くぞ、相棒!若い頃から、予定通りに飛んだことなど一度もないだろう?」
竜舎の扉が開かれる。
その向こうには、夕暮れの空があった。
魔導鉄道の汽笛が、地上を走る時代の変化を告げている。
テラが地面を力強く蹴った。
老竜の身体が、重く、鈍く、しかし確かに宙へ浮く。
局員たちの叫び声が聞こえる。
竜便局の屋根が遠ざかり、古い看板の外された壁が、夕日の中で小さくなる。
ベルの頬に、風が当たった。
懐かしい風だった。
少し冷たく、木々の香りがするようなーー涙が出るほど懐かしい風。
かつて大陸最速と呼ばれた竜便士と、空を飛ぶことを忘れかけていた老竜。
ふたりの最後の配達は、大勢の怒号から始まった。




