1.廃れた竜便局
竜は、空を飛ぶために生まれてきた。
少なくとも、ベル・クラインはそう信じていた。
ベル・クラインが最後に空を飛んだのは、五年前の秋だった。
霧の深い朝で、雲の底がやけに低かったことを覚えている。
竜の背に跨がり、北の山脈を越え、雪の匂いがする風の中を飛んだ。
荷物は小さな木箱ひとつ。中身は、戦地から戻らなかった息子の遺髪だった。
届け先の老婆は、箱を受け取ると皺だらけの両手で箱を抱え、涙ながらに礼を言った。
竜が空を飛ばなくなってから、大陸の人々は空を見上げる回数が減った。
昔は朝になれば、町の上を郵便竜たちが飛びまわりっていた。
鱗の色も、翼の形も、鳴き声もそれぞれ違う竜たちが、首に郵袋を吊るし、背に竜便士を乗せて、雲の裂け目を渡っていったものだ。
子どもたちはその影を追いかけ、老人たちは窓辺で手を振った。
恋人たちは、あの竜が返事を運んでくるのだと信じて、胸をときめかせていたものだ。
けれど今、空はただ広いだけだ。
青く、静かで、役目を失った舞台のようにがらんとしている。
「……曇天だな」
ベル・クラインは、竜便局の屋上で煙草をくわえたまま呟いた。
火はつけていない。
医者に止められてから十年になる。
だが、口にくわえていないと手持ち無沙汰で仕方がない。
かつては竜が二十頭、竜便士が三十人、整備士と仕分け係を合わせれば百人近くが働いていた。
だが、今や竜便士はベルただひとりだけ。
あとは、局長のネフロ・グリモアと、局員のノア・アルヴァーノだけ。
そして、竜舎には、老竜のテラが一頭だけだ。
外では、老竜テラが竜舎の中で丸くなっていた。
銀色の鱗はところどころ白く濁り、左の翼膜には古い裂け跡がある。
若い頃は美しい銀色だったが、今は煙突の煤のような色をしていた。
ベルは窓を少し開ける。
「起きてるか、じじい」
すると、声に反応するように、巨大な瞼が片方だけ開いた。
『誰がじじいだ。お前も同じだろう、ベル』
低い声が、頭の奥に響く。
竜は、老いると空を見なくなる。
若い竜は、いつだって空を見ている。
雲の流れ、風の匂い、遠い雷鳴。そういうものを鼻先で拾いながら、翼を震わせ、今にも飛び立ちそうな目をしている。
だが、老いた竜は違う。
空がそこにあることを知っていても、見上げない。
見上げたところで、もう昔のようには飛べないと知っているからだろう。
眼下では、解体業者たちが竜舎の看板を外していた。
***
創設から約百年。
その古びた木製看板が、縄で括られ、ぎしぎしと軋みながら下ろされていく。
ベル・クラインは、屋上から降りて、竜舎へ向かう。
竜舎の隅で丸くなっている相棒を見つめながら、古い薬瓶の蓋を開けた。
「テラ、翼を出せ」
灰色の老竜は、片目だけを薄く開けた。
「出せって言ってるだろ。聞こえないふりをするんじゃない」
テラは、低く喉を鳴らした。
『面倒くさいな。黙って寝かせてくれ』
「面倒くさいのはこっちだ」
ベルは腰をかがめ、テラの左翼の付け根に薬を塗った。
ぬるりとした薬草油の匂いが、竜舎の湿った藁の匂いに混じる。
ベルは薬瓶の蓋を閉めた。
指の節が太くなった手。
細かな傷跡だらけの手。
若い頃はこの手で手綱を引き、嵐の中でも郵便袋をしっかりと抱えていた。
今は瓶の蓋を閉めるだけでも、少し痛む。
「お前も俺も、ずいぶん老ぼれたな」
テラは返事をしなかった。
代わりに、大きな鼻先を藁の中へ埋める。
「都合が悪くなるとそれだ。昔から変わらないな」
ベルは立ち上がろうとして、腰に手を当てた。
「……っ」
骨の奥で、ぎしりと嫌な音がした気がした。
若い頃なら、竜の背から飛び降りても平気だった。
戦場の焼け跡でも、雪山の尾根でも、泥だらけの野営地でも、ベルは走れた。
大陸最速の竜便士ーー”銀翼のベル”
そんな名前で呼ばれていた時期もある。
いまや、朝の靴下を履く姿勢ひとつが小さな戦争だ。
情けない話である。
竜舎の外で、魔導汽笛が鳴った。
低く、長く、腹の底に響く音。
魔導鉄道の朝一番だ。
ベルは竜舎の小窓から外を見た。
遠くの丘の向こうを、青白い光をまとった列車が滑るように走っていく。
車体の側面には、金色の文字で王立郵便局の紋章が描かれていた。
いまや手紙も荷物も、鉄道と転送塔で運ばれる。
速くて、安くて、正確。
雨にも嵐にも、竜の機嫌にも左右されることはない。
結構なことだ。
「ベルさん」
竜舎の戸口から声がした。
振り向くと、若い局員のノアが立っていた。
二十代半ば。まだ頬に少年の丸みを残した、真面目そうな青年だ。
魔導端末を片手に持ち、制服の襟元をきちんと留めている。
「何だい」
「局長がお呼びです。閉局手続きの件だそうですよ」
「手続きね」
ベルは鼻で笑った。
「最近は何でもかんでも手続き手続きって」
「……ベルさん」
ノアの顔が曇った。
ベルは薬瓶を棚に戻す。
「テラの処分日かい」
ノアは黙った。
竜舎の奥で、テラがゆっくりと首を上げる。
「いつだ」
「明後日の明朝です。王立郵便管理局から、輸送隊が来るそうです」
「明後日か」
思ったより早い。いや、早いも何もない。
竜便局の廃止は、半年前から決まっていた。
ベルはテラを見た。
「わかった。局長のところへ行くさ」
「ベルさん、その……」
「慰めならいらない。若い子の慰めは、胸焼けがしそうだ」
ノアは困ったように口を閉じた。
ベルは竜舎を出た。
外は初夏の朝だった。




