じいちゃんの果樹園
第九話 じいちゃんの果樹園
その日、朝陽は果樹園へ向かっていた。
畑の見回りを終えた後だった。
芽吹いた野菜たちは順調に育っている。
水やりも終わった。
麦も庭で元気に遊んでいる。
少し時間ができた。
だから以前から気になっていた場所へ足を向ける。
果樹園だった。
⸻
祖父の果樹園。
朝陽にとって特別な場所だった。
子どもの頃。
夏になると毎日のように走り回った。
桃をもいで怒られた。
梨を食べすぎてお腹を壊した。
柿の木に登って祖母に泣かれた。
思い出だらけだった。
「懐かしいなぁ」
草をかき分けながら歩く。
しばらく管理されていなかったため、少し荒れている。
雑草も多い。
枝も伸び放題だ。
それでも木々は生きていた。
春の日差しを浴びながら静かに立っている。
まるで祖父を待っていたみたいに。
⸻
麦もついてきていた。
ぴょこぴょこと後ろを歩いている。
「ここねぇ」
朝陽は一本の桃の木の前で立ち止まった。
幹に手を置く。
ざらざらした感触。
見上げる。
枝先には小さな蕾がついていた。
「おぉ……」
思わず声が漏れる。
蕾だ。
まだ小さい。
でも確かに生きている。
何年も放置されていたのに。
ちゃんと春を迎えていた。
朝陽は嬉しくなった。
「頑張ってたんだねぇ」
木を撫でる。
まるで生き物に触れるみたいに。
優しく。
⸻
その時だった。
風が吹いた。
枝が揺れる。
かさり、と音がする。
何かが落ちた。
「あれ?」
足元を見る。
古びた木札だった。
紐が切れたのだろう。
土の上に転がっている。
朝陽は拾い上げた。
表面は色褪せている。
けれど文字は読めた。
『朝陽の木』
「……え?」
思わず固まる。
もう一度見る。
間違いない。
祖父の字だ。
『朝陽の木』
そう書いてある。
⸻
朝陽は目を瞬かせた。
知らなかった。
こんな札があったなんて。
木を見上げる。
もしかして。
この木。
自分の木だったのだろうか。
記憶を辿る。
すると。
ぼんやり思い出した。
小学校に入った頃。
祖父と一緒に苗木を植えたことがある。
小さなスコップで土を掘った。
泥だらけになった。
祖父が笑っていた。
『これは朝陽の木じゃ』
確かにそう言われた。
その時は意味も分からなかった。
木なんて全部同じだと思っていたから。
でも。
祖父はちゃんと覚えていて。
札まで作っていたのだ。
⸻
胸の奥がじんわり熱くなる。
朝陽は木の幹に額を預けた。
冷たい感触。
優しい匂い。
木の香り。
土の香り。
春の匂い。
全部混ざっている。
「大きくなったねぇ」
木に向かって呟く。
まるで昔の友達に再会した気分だった。
木は何も答えない。
でも。
枝先の蕾が風に揺れた。
それだけで十分だった。
⸻
しばらくして。
朝陽は木の周囲を手入れし始めた。
雑草を抜く。
伸びすぎた枝を確認する。
祖父の果樹ノートも持ってきていた。
実は畑ノートとは別に存在していたのだ。
びっしり書き込まれた果樹の記録。
剪定方法。
病害虫対策。
収穫時期。
細かなメモ。
そして。
ページの端々に朝陽の名前があった。
『朝陽が桃三つ食べた』
『朝陽、梨で腹を壊す』
『朝陽、柿の木から落ちる』
「なんで記録してるの」
思わず笑う。
完全に観察日記だった。
⸻
ページをめくる。
すると途中に挟まっていた紙が落ちた。
ひらり。
朝陽は拾い上げる。
メモだった。
祖父の字。
少し震えた文字。
晩年に書いたものだろう。
そこには短くこう書かれていた。
『果樹園は無理して残さんでもええ』
朝陽は目を見開く。
続きを読む。
『朝陽が元気に笑っとる方が大事じゃ』
『木はまた植えられる』
『人生はやり直せる』
『じゃが朝陽が幸せでおれ』
短い文章。
それだけだった。
それだけなのに。
胸がいっぱいになる。
⸻
朝陽はその場にしゃがみ込んだ。
祖父らしい。
本当に。
最後まで祖父らしい。
土地を守れ。
果樹園を守れ。
そんなことは一言も書いていない。
朝陽のことばかりだ。
昔からそうだった。
野菜より。
果物より。
いつだって朝陽を優先した。
「ずるいなぁ……」
思わず笑う。
目が少し熱くなる。
でも泣きたくはなかった。
祖父はきっと笑っていてほしい。
そんな人だった。
⸻
「大丈夫だよ」
朝陽は空を見上げた。
青空だった。
雲がゆっくり流れている。
「俺、結構楽しいから」
風が吹く。
果樹園が揺れる。
まるで聞いているみたいだった。
「毎日楽しい」
畑も。
麦も。
この家も。
全部。
「だから安心して」
小さく笑う。
すると。
横から顔をぺろりと舐められた。
「うわっ」
麦だった。
どうやら慰めてくれたらしい。
⸻
朝陽は吹き出した。
「ありがと」
麦の頭を撫でる。
麦は嬉しそうに尻尾を振った。
春の日差しが二人を照らしている。
果樹園には小さな蕾。
未来の桃たち。
祖父が残した木。
そして。
祖父が残した優しさ。
それらに囲まれながら。
朝陽は静かに笑った。
⸻
その日の夕方。
源じいがやって来て果樹園を見るなり叫ぶことになる。
「お前ぇぇぇ!!」
「へ?」
「その枝切ったんか!?」
「え?」
「そこ切ったらあかん!!」
どうやら果樹の剪定は畑以上に難しいらしい。
朝陽の果樹園生活は、まだまだ前途多難だった。




