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はじめてのおうち

 

 第五話 はじめてのおうち


「着いたよ」


 軽トラックのエンジンを切りながら、朝陽は助手席のケージを覗き込んだ。


 麦は丸まって眠っていた。


 小さなお腹が規則正しく上下している。


 よほど疲れたのだろう。


 初めての場所。


 初めての人。


 初めての車。


 子犬には大冒険だったはずだ。


「起こしちゃったかな」


 朝陽がそっと声を掛けると、麦がぴくりと耳を動かした。


 ゆっくり目を開ける。


 眠そうな顔。


 そして。


 朝陽の顔を見つけるなり、ぶんぶんと尻尾を振り始めた。


「ふふ」


 思わず笑みが零れる。


「ただいま」


 そう言ってケージの扉を開けた。


 ⸻


 麦を抱き上げる。


 ふわふわの身体。


 ほんのり温かい。


 子犬特有の甘い匂いがした。


 朝陽は慎重に玄関へ向かう。


「ここがお家だよ」


 話しかけながら引き戸を開ける。


 ガラガラ、と懐かしい音。


 麦の耳がぴくりと動く。


 不思議そうな顔をしている。


「大丈夫だよ」


 朝陽は優しく背中を撫でた。


 すると麦は安心したように身体の力を抜いた。


 ⸻


 家に入ると、朝陽はそっと床へ下ろした。


 麦はすぐには動かなかった。


 ぺたりと座り込んで周囲を見回している。


 見知らぬ空間。


 広い部屋。


 知らない匂い。


 緊張しているのだろう。


 朝陽は少し離れた場所に座った。


 急かさない。


 祖母がよく言っていた。


『動物も人も、慣れるまで待ってあげなきゃねぇ』


 だから待つ。


 麦のペースで。


 しばらくすると。


 麦がそろりと立ち上がった。


 一歩。


 また一歩。


 慎重に歩き始める。


 畳の匂いを嗅ぐ。


 柱を嗅ぐ。


 朝陽の脱いだ靴を嗅ぐ。


 そして。


 くしゃみをした。


「ふふっ」


 朝陽は思わず吹き出した。


「何その顔」


 麦は真面目だった。


 本人はきっと必死なのだ。


 それが余計に可愛い。


 ⸻


 探検は一時間以上続いた。


 居間。


 廊下。


 縁側。


 台所。


 あちこちを歩き回る。


 朝陽はその後ろをのんびりついていった。


 まるで案内係だ。


「こっちは台所ね」


「ここは仏間」


「そこは押し入れだから入っちゃだめだよ」


 当然通じてはいない。


 それでも朝陽は楽しそうだった。


 麦も時々振り返る。


 まるで話を聞いているみたいに。


 ⸻


 縁側へ出た時だった。


 春風が吹いた。


 庭の草が揺れる。


 木々がざわめく。


 鳥が鳴く。


 麦はぴたりと動きを止めた。


 黒い瞳を大きく見開く。


 初めて見る景色。


 広い庭。


 畑。


 果樹園。


 山。


 世界が一気に広がった。


「すごいでしょ」


 朝陽も隣に腰を下ろす。


「俺もね、子どもの頃そう思ったんだ」


 麦は庭を見つめている。


 耳を立てて。


 尻尾を振りながら。


 その姿がなんだか微笑ましかった。


「ここね」


 朝陽は遠くの果樹園を指差した。


「じいちゃんが桃育ててたんだよ」


 今度は畑を指差す。


「こっちは野菜」


 そして山を見る。


「夏になると蝉がすごいんだ」


 話しているうちに。


 祖父母と暮らしていた頃の思い出が次々浮かんでくる。


 楽しかったこと。


 怒られたこと。


 笑ったこと。


 全部。


 ⸻


 夕方。


 朝陽は麦のための寝床を作った。


 居間の隅。


 柔らかなクッション。


 毛布。


 水飲み皿。


 ご飯皿。


 ホームセンターで買ってきたばかりの新品だ。


「気に入るかなぁ」


 少し不安になる。


 麦は寝床の周りをくるくる歩いた。


 匂いを嗅ぐ。


 前足で触る。


 そして。


 ぽすん。


 真ん中に座った。


「お」


 朝陽の顔が明るくなる。


 麦は満足そうだった。


「良かったぁ」


 胸を撫で下ろす。


 何だか親になった気分だった。


 ⸻


 その夜。


 夕飯を終えた朝陽は縁側で夜空を見ていた。


 満天の星。


 都会では見えない数の星が輝いている。


 山の夜は静かだった。


 虫の声。


 風の音。


 遠くで鳴くフクロウ。


 そんな音だけが聞こえる。


「綺麗だねぇ」


 ぽつりと呟く。


 すると。


 足元に温もりを感じた。


 見下ろす。


 麦だった。


 小さな身体を朝陽の足にくっつけて座っている。


「どうしたの?」


 問い掛ける。


 麦は答えない。


 代わりに身体をさらに寄せた。


 朝陽は優しく頭を撫でた。


 柔らかな毛。


 温かい体温。


 それだけで胸がじんわりする。


 ⸻


 祖父母が亡くなってから。


 朝陽は何度も一人で夜を過ごしてきた。


 慣れていると思っていた。


 平気だと思っていた。


 けれど。


 こうして誰かの温もりが隣にあるだけで。


 こんなにも安心するのかと驚いた。


「ありがとね」


 自然と言葉が出る。


 麦は眠そうに目を細めた。


 その姿に朝陽は笑う。


「俺も頑張るからさ」


 星空を見上げる。


「一緒に暮らしていこうね」


 春の夜風が静かに吹いた。


 足元には麦。


 頭上には星空。


 そして周りには祖父母が残してくれた景色。


 朝陽は思う。


 この家に帰ってきて良かった。


 心からそう思えた。


 ⸻


 翌朝。


 朝陽はまだ知らない。


 数日後。


 畑を耕している最中に大失敗して腰を痛めることも。


 そして麦がとんでもない方法で”お手伝い”を始めることも。


 二人の賑やかな山暮らしは、まだ始まったばかりだった。



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