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祖父の畑、祖母の台所

 

 第三話 祖父の畑、祖母の台所


 翌朝。


 朝陽は鳥の声で目を覚ました。


 ちゅんちゅん。


 ぴぃぴぃ。


 窓の外から賑やかな鳴き声が聞こえてくる。


 ゆっくり目を開けると、障子越しに朝の光が差し込んでいた。


 柔らかな金色。


 街で暮らしていた頃の目覚まし時計の音とは全然違う。


 朝陽は布団の中でしばらくぼんやりしていた。


 静かだった。


 でも寂しい静けさじゃない。


 優しい静けさ。


 山に抱かれているような安心感があった。


「……朝かぁ」


 小さく呟く。


 身体を起こす。


 布団から出るのが少し惜しい。


 春とはいえ朝はまだ冷える。


 それでも窓を開けると、澄んだ空気が流れ込んできた。


「わぁ」


 思わず声が漏れる。


 空が青い。


 どこまでも青い。


 庭には朝露が光っている。


 遠くの山には薄く霞がかかっていた。


 朝陽はしばらく景色を眺めていた。


 ただそれだけで幸せな気持ちになる。


「今日もいい天気だねぇ」


 誰にともなく言う。


 風が頬を撫でた。


 ⸻


 朝ご飯は簡単に卵かけご飯だった。


 実家から持ってきた卵。


 味噌汁。


 漬物。


 祖母が使っていた食卓に一人で座る。


 少し広い。


 でも嫌な感じはしなかった。


「いただきます」


 手を合わせる。


 昔からの癖だ。


 祖母は食事の挨拶を大事にしていた。


『作ってくれた人と、食べ物にありがとうだからね』


 その言葉が今も残っている。


 朝陽はご飯を口に運ぶ。


 美味しい。


 特別なものじゃない。


 それなのに不思議と落ち着く。


 窓の外には庭。


 遠くには山。


 鳥の声。


 風の音。


 それだけで朝食が何倍も美味しく感じた。


 ⸻


 朝食を終えると、朝陽は長靴を履いた。


 向かう先は納屋だった。


 祖父の農具が残されている場所。


 古い引き戸を開ける。


 ぎぃ、と音が鳴った。


 中は少し薄暗い。


 木の匂い。


 土の匂い。


 金属の匂い。


 全部混ざった独特の空気。


 朝陽は懐かしくて笑ってしまった。


「うわぁ……」


 小さい頃は宝物庫みたいに思っていた。


 祖父が使う道具がずらりと並んでいる。


 鎌。


 鍬。


 スコップ。


 一輪車。


 どれも使い込まれていた。


 朝陽はそっと鍬を手に取った。


 ずしりと重い。


 木の柄は手に馴染むほど使われている。


 何度も握られた跡が残っていた。


「じいちゃんの手だ」


 自然とそう思った。


 この道具を握っていた大きな手。


 節くれだった指。


 優しい声。


 全部思い出せる。


 朝陽は鍬を胸の前で抱えた。


 少しだけ寂しくなる。


 でも。


 不思議と温かかった。


 まるで祖父が隣にいるみたいだった。


 ⸻


 納屋の奥を整理していると、一冊のノートが見つかった。


 土で少し汚れた大学ノート。


 表紙には祖父の字でこう書かれていた。


『畑の記録』


 朝陽は目を丸くした。


「えっ」


 慌てて開く。


 中には野菜の名前。


 植える時期。


 肥料の量。


 病気対策。


 細かな記録がびっしり書かれていた。


 何年分も。


 何十年分も。


 そのページをめくるたびに祖父の声が聞こえる気がした。


『土は急がせるもんじゃない』


『野菜にも性格がある』


『ちゃんと見てやれ』


 子どもの頃には理解できなかった言葉。


 今なら少し分かる気がした。


 朝陽はノートを抱える。


 自然と笑顔になる。


「じいちゃん先生だ」


 胸の奥がぽかぽかした。


 一人じゃない。


 そう思えた。


 ⸻


 昼前。


 朝陽は畑へ向かった。


 何年も放置されていた場所。


 草が伸びている。


 土も固い。


 すぐに野菜は作れそうにない。


 それでも。


 朝陽には綺麗な畑が見えていた。


 祖父が笑いながら作業している姿が見える気がした。


「よし」


 鍬を握る。


 少し緊張する。


 まるで新しいことを始める子どもみたいに。


「やってみよう」


 土に鍬を入れる。


 がつん。


「おわっ」


 硬い。


 思った以上に硬い。


 朝陽はよろけた。


 思わず笑う。


「全然だめだぁ」


 額を掻く。


 祖父は軽々やっていたのに。


 実際にやると全然違う。


 何度も鍬を振る。


 息が上がる。


 腕が痛い。


 汗が流れる。


 それでも不思議と楽しかった。


 少しずつ。


 少しずつ。


 土がほぐれていく。


 荒れていた畑が息を吹き返していく。


 その様子を見るたび嬉しくなる。


 ⸻


 昼過ぎ。


 作業を終えて縁側に座る。


 風が気持ちいい。


 汗ばんだ身体を冷やしてくれる。


 目の前には耕したばかりの畑。


 まだほんの一角だけ。


 でも。


 朝陽は満足だった。


「頑張ったねぇ」


 自分に言う。


 褒めてくれる人はいない。


 だから自分で褒める。


 祖母ならきっとそうした。


『朝陽は頑張り屋さんだねぇ』


 優しい声が聞こえた気がした。


 朝陽は空を見上げる。


 雲がゆっくり流れている。


 穏やかな春の日だった。


「何植えようかなぁ」


 じゃがいも。


 玉ねぎ。


 人参。


 ほうれん草。


 考えるだけで楽しい。


 これから始まる暮らしが少しずつ形になっていく。


 そんな予感がした。


 ⸻


 その日の夕方。


 朝陽は祖母が使っていた台所で夕飯を作りながら、ふと思った。


 この家は。


 祖父の畑があって。


 祖母の台所があって。


 そして自分がいる。


 それだけで十分幸せなのかもしれない。


 包丁の音が静かな家に響く。


 外では夕暮れの風が吹いている。


 春はまだ始まったばかりだった。



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