おかえりの場所
第二話 おかえりの場所
玄関に荷物を置くと、朝陽は大きく息を吐いた。
「さて、と」
誰もいない家なのに、自然と声が出る。
昔からそうだった。
祖父母と暮らしていた頃も、何をするにも口に出していた。
『朝陽は考えてること全部喋るなぁ』
祖父によく笑われたものだ。
「だって一人だと静かなんだもん」
懐かしい返事を口にして、自分で少し笑う。
靴を脱いで家に上がる。
板張りの廊下がぎしりと鳴った。
その音さえ懐かしい。
朝陽はゆっくり家の中を歩いていく。
居間。
客間。
祖父母の寝室。
台所。
どこも記憶のままだった。
少し埃っぽいけれど、定期的に管理会社が換気してくれていたおかげで酷く傷んではいない。
窓から差し込む午後の日差しが畳の上に四角く落ちている。
その光景を見ているだけで胸が温かくなった。
まるで今も祖母が台所にいるみたいだった。
味噌汁の匂いがしてきそうで。
「……お腹空いたなぁ」
ぽつりと呟く。
少しだけ寂しくなりそうだった心が、食欲に引っ張られて戻ってくる。
朝陽らしかった。
⸻
まず最初に向かったのは仏間だった。
襖を開ける。
窓から入る柔らかな光が部屋を照らしていた。
仏壇は綺麗に掃除されている。
管理を頼んでいた近所の人が気にかけてくれていたのだろう。
朝陽は自然と背筋を伸ばした。
荷物の中から線香を取り出す。
火をつける。
細い煙が立ち上る。
懐かしい香りだった。
幼い頃はこの匂いが苦手だった。
けれど今は不思議と落ち着く。
手を合わせる。
目を閉じる。
しばらく何も言葉が出なかった。
伝えたいことは沢山あるのに。
いざとなると難しい。
結局。
最初に出た言葉は。
「帰ってきたよ」
だった。
それだけだった。
それだけなのに胸がいっぱいになる。
朝陽は少しだけ笑った。
「遅くなっちゃった」
静かな部屋。
線香の煙がゆらゆら揺れる。
「本当はもっと早く来たかったんだけどなぁ」
ぽつり。
ぽつり。
言葉を落としていく。
「でもさ」
朝陽は照れくさそうに頭を掻いた。
「俺、ここに住むことにした」
風が窓を鳴らした。
木々がざわめく。
まるで聞いてくれているみたいだった。
「父さんたちが土地を売ろうって言った時ね」
少し笑う。
「なんか嫌だったんだ」
家がなくなるのも。
畑がなくなるのも。
果樹園がなくなるのも。
全部嫌だった。
でも何より。
二人との思い出がなくなってしまう気がした。
「だから俺、頑張るよ」
二十歳。
フリーター。
将来はまだ何も決まっていない。
それでも。
ここで暮らしたい。
そう思った。
「見ててね」
そう言って手を合わせる。
目を開けると、写真の中の祖父母は変わらず笑っていた。
⸻
それから朝陽は掃除を始めた。
まずは窓を全開にする。
春の風が家の中を駆け抜けた。
カーテンがふわりと揺れる。
「気持ちいいねぇ」
誰に言うでもなく呟く。
掃除機をかける。
雑巾を絞る。
棚を拭く。
朝陽は家事が好きだった。
嫌いじゃない。
むしろ楽しい。
綺麗になるのを見ると嬉しくなる。
祖母によく手伝わされていたおかげかもしれない。
『掃除はねぇ、家にありがとうを言うことなんだよ』
昔、そう教わった。
当時はよく分からなかった。
でも今は少し分かる気がする。
雑巾で柱を拭く。
床を磨く。
家が少しずつ息を吹き返していく。
そんな感覚があった。
⸻
夕方頃には汗だくになっていた。
「疲れたぁ……」
縁側に腰を下ろす。
庭が見える。
畑が見える。
その向こうに山が見える。
オレンジ色の夕陽が景色を染めていた。
風が気持ちいい。
朝陽はぼんやり空を眺めた。
雲が流れていく。
鳥が帰っていく。
静かだった。
都会の静かさとは違う。
生き物の音がある静けさ。
祖父母の家の静けさ。
朝陽はこの時間が好きだった。
子どもの頃も。
祖父の隣で縁側に座って夕陽を眺めていた。
二人とも無口だった。
特に会話もしない。
それなのに楽しかった。
「じいちゃん」
思わず呟く。
「今ならあの時間の良さ分かるよ」
返事はない。
けれど不思議と寂しくなかった。
風が吹く。
山が揺れる。
鳥が鳴く。
この場所には祖父母が残したものが沢山ある。
だから。
完全に一人ではない気がした。
⸻
日が沈み始める。
朝陽はゆっくり立ち上がった。
「よし」
夕飯を作ろう。
冷蔵庫には何もない。
今日は簡単なものでいい。
明日は買い出しだ。
畑も見て回ろう。
納屋も整理しよう。
やることは山ほどある。
けれど不思議と嫌じゃなかった。
むしろ少し楽しみだった。
この広い土地で。
この家で。
これからどんな暮らしになるんだろう。
そんなことを考えながら、朝陽は台所へ向かった。
その背中を、春の夕陽が優しく照らしていた。




