(春)帰る場所
第一話 帰る場所
三月の終わりだった。
空は薄い青色をしていて、春の陽射しが山々を柔らかく照らしている。
朝陽は軽トラックの運転席で大きなあくびをした。
「ふぁぁ……」
片手で口元を隠しながら目を細める。
眠いわけではない。
ただ、暖かい日差しが気持ちよかった。
窓を少し開けると、風がふわりと車内へ流れ込んでくる。
土の匂い。
草の匂い。
どこか湿った山の匂い。
その全てが懐かしかった。
「春だなぁ……」
誰に言うでもなく呟く。
返事はない。
けれど朝陽は気にしない。
昔から独り言が多いのだ。
祖母によく笑われていた。
『朝陽は草にも話しかけるんだねぇ』
『だって返事してる気がするもん』
そう言ったら祖父が大笑いしていた。
その光景を思い出して、朝陽はふっと笑った。
⸻
山道を進む。
見慣れた景色が次々と現れる。
小さな橋。
用水路。
竹林。
名前も知らない野花。
子どもの頃は毎日見ていた景色だ。
なのに。
数年ぶりに見ると胸がじんわり温かくなる。
「変わってないなぁ」
朝陽はハンドルを握りながら呟いた。
少し安心する。
変わらないものがあるというのは嬉しい。
実家で一人暮らしを始めてから、朝陽はずっとどこか落ち着かなかった。
両親は海外を飛び回っている。
年に数回帰ってくるだけ。
家にいるのは自分一人。
別に寂しいわけじゃない。
慣れている。
でも。
帰宅しても「おかえり」がない生活は、やっぱり少しだけ静かだった。
祖父母の家は違う。
帰れば必ず誰かがいた。
祖父がいて。
祖母がいて。
犬はいなかったけれど、庭にはいつも鳥が来ていた。
畑には蝶が飛んでいた。
賑やかだった。
温かかった。
朝陽にとっては、本当の家だった。
⸻
やがて坂道を上りきる。
視界が開けた。
朝陽は思わず息を止めた。
「あ……」
そこにあった。
祖父母の家。
大きな平屋。
広い庭。
畑。
果樹園。
納屋。
全部ある。
何もなくなっていなかった。
少し古くなっている。
草も伸びている。
それでも。
ちゃんと残っていた。
朝陽はゆっくり車を停めた。
エンジンを切る。
途端に静寂が訪れる。
風の音。
木々のざわめき。
遠くで鳴く鳥。
それだけ。
昔と同じ音だった。
朝陽はしばらく車から降りなかった。
ただ窓の外を見つめる。
胸の奥がぎゅうっとなる。
嬉しい。
懐かしい。
会いたい。
いろんな気持ちが混ざっていた。
「じいちゃん」
小さく呟く。
「ばあちゃん」
風が吹く。
庭の木が揺れる。
まるで返事をするみたいに。
朝陽は少しだけ笑った。
「帰ってきたよ」
⸻
荷物を持って車を降りる。
春の風が頬を撫でた。
庭の隅には祖母が植えた水仙が咲いている。
黄色い花が陽射しを浴びて揺れていた。
朝陽は思わずしゃがみ込む。
「まだ咲いてたんだ」
花びらに触れないように覗き込む。
祖母は花が好きだった。
春になると毎日庭に出ていた。
花に話しかけながら水をあげる姿をよく覚えている。
『ちゃんと聞いてるんだよ』
そう言っていた。
朝陽はその言葉を信じていた。
だから今も。
「ただいま」
と水仙に話しかける。
すると風が吹いた。
花がふわりと揺れる。
朝陽は嬉しくなった。
「うん」
小さく頷く。
「ただいま」
もう一度言った。
⸻
玄関の前に立つ。
古い木の引き戸。
柱には無数の傷。
その中に。
一本一本の線がある。
朝陽の身長を刻んだ跡だ。
小学一年生。
小学三年生。
中学一年生。
そして十五歳。
最後の線まで残っている。
指でなぞる。
木の感触が懐かしい。
「大きくなったなぁ」
誰もいないのに言ってしまう。
すると脳裏に祖父の声が蘇る。
『そのうちじいちゃん抜くぞ』
『もう抜いたよ』
『本当か!?』
そんな会話をした。
何年も前なのに。
昨日のことみたいだった。
朝陽は少しだけ目を潤ませる。
でも泣かない。
ここへ来ると決めた時から決めていた。
悲しいから帰ってきたわけじゃない。
守りたいから帰ってきたのだ。
だから。
笑って暮らしたい。
祖父母がそうしてくれたみたいに。
⸻
朝陽はゆっくり頭を下げた。
「今日からよろしくお願いします」
誰に向けた言葉なのか自分でも分からない。
家かもしれない。
土地かもしれない。
祖父母かもしれない。
全部かもしれない。
そして引き戸を開ける。
ガラガラ、と。
懐かしい音が鳴った。
少しだけ埃っぽい空気。
木の匂い。
畳の匂い。
どれも知っている。
朝陽は思わず笑顔になる。
「……やっぱり好きだなぁ」
その声は静かな家の中へ優しく溶けていった。




