白い子ヤギ
第十二話 白い子ヤギ
五月の終わり。
山はすっかり初夏の気配をまとい始めていた。
朝陽は朝早くから畑に出ていた。
祖父から受け継いだ畑は、今では少しずつ緑を増している。
じゃがいもの葉は元気よく広がり、玉ねぎは風に揺れ、ほうれん草は収穫できそうなほど大きくなっていた。
朝陽はしゃがみ込みながら、葉っぱの様子をひとつひとつ確認していく。
虫はついていないか。
元気がない株はないか。
水は足りているか。
まるで子どもの様子を見るみたいに。
「おはよう」
葉っぱに向かって声を掛ける。
もちろん返事はない。
けれど朝陽は昔からそうだった。
祖母が花に話しかける人だったからかもしれない。
祖父が野菜を褒める人だったからかもしれない。
朝陽にとって植物は、ただの作物ではなかった。
毎日顔を合わせる家族みたいな存在だった。
⸻
「朝陽ー!」
遠くから聞き慣れた声が響く。
顔を上げると、源じいの軽トラックが坂道を上ってくるところだった。
朝陽は立ち上がり、大きく手を振る。
「おはようございます」
「おう」
源じいは車を降りながら畑を見回した。
最近は数日に一度の頻度で顔を出している。
祖父の親友。
そして今は朝陽の先生だ。
畑のことも。
果樹園のことも。
山の暮らしのことも。
色々教えてくれる。
ぶっきらぼうだけれど優しい人だった。
⸻
源じいは畑を眺めながら頷いた。
「順調じゃな」
「本当ですか?」
朝陽の顔が明るくなる。
褒められると嬉しい。
子どもの頃から変わらない。
源じいは畑の隅に生えた雑草へ視線を向けた。
さらに裏山の斜面を見る。
草だらけだった。
広い土地だから仕方ない。
朝陽も気になっていた場所だ。
しかし畑だけで手一杯で、なかなか手が回らない。
「ヤギ飼うか?」
源じいが唐突に言った。
朝陽はぽかんとした。
「……ヤギ?」
「ヤギじゃ」
「なんでです?」
「草食うから」
源じいは真顔だった。
朝陽は少しだけ笑ってしまう。
理由があまりにも単純だったからだ。
「除草機代わりってことですか?」
「そうじゃ」
「なるほど」
「しかも可愛い」
「そこ大事なんですね」
「大事じゃ」
源じいは即答した。
朝陽は吹き出した。
確かに大事かもしれない。
どうせ飼うなら可愛い方がいい。
⸻
その日からだった。
朝陽の頭の中にヤギが住み着いたのは。
畑仕事をしていても。
果樹園を歩いていても。
祖母のレシピノートを見ながら夕飯を作っていても。
気付けば考えている。
ヤギ。
「ヤギかぁ……」
夜。
縁側で星空を見上げながら呟く。
足元には麦がいる。
最近少し身体が大きくなった。
それでもまだ子犬らしい丸みが残っている。
朝陽は麦の頭を撫でた。
「もしヤギが来たらさ」
麦が顔を上げる。
「仲良くできるかなぁ」
わふ。
曖昧な返事。
たぶん何も分かっていない。
それでも朝陽は笑った。
⸻
数日後。
買い出しの日だった。
種や肥料。
生活用品。
色々買い込んだ帰り道。
朝陽はふと小さな牧場の前で車を止めた。
以前から存在は知っていた。
けれど中に入ったことはない。
入口の看板にはこう書いてあった。
『子ヤギいます』
朝陽は数秒悩んだ。
本当に数秒だけだった。
「見るだけ」
そう呟いて車を降りる。
そしてその言葉が信用できないことを、自分自身が一番よく知っていた。
牧場の奥。
小さな柵の中。
そこにいた。
真っ白な子ヤギだった。
朝陽は思わず足を止めた。
「わぁ……」
声が漏れる。
小さい。
本当に小さい。
雪みたいに白い毛。
大きな耳。
つぶらな黒い瞳。
まだ赤ちゃんらしい丸い身体。
ぴょんぴょん飛び跳ねる姿は、まるで動くぬいぐるみだった。
朝陽は自然としゃがみ込む。
子ヤギもこちらへ近付いてくる。
柵越しに目が合った。
黒い瞳がじっと見つめてくる。
好奇心いっぱいの目だった。
「こんにちは」
朝陽が微笑む。
子ヤギは鼻をひくひく動かした。
そして。
ぺろり。
指を舐めた。
「あ」
温かい。
柔らかい。
くすぐったい。
朝陽は思わず笑顔になる。
子ヤギはさらに近付いてきた。
もっと構ってほしいらしい。
その姿が可愛くてたまらなかった。
⸻
しかし次の瞬間。
どんっ。
胸に小さな衝撃が走った。
朝陽は目を丸くする。
子ヤギだった。
小さな頭で突進してきたのである。
「いたっ」
全然痛くない。
むしろ可愛い。
子ヤギは楽しそうだった。
遊びに誘っているらしい。
再び後ろへ下がる。
そして。
どんっ。
また突っ込んできた。
朝陽は吹き出した。
「元気だねぇ」
子ヤギは満足そうだった。
どうやら人が大好きらしい。
⸻
牧場の人が近付いてくる。
「その子、人懐っこいんですよ」
そう言いながら笑った。
朝陽は子ヤギの頭を撫でる。
子ヤギは気持ち良さそうに目を細めた。
その瞬間だった。
朝陽の胸に浮かんだのは。
祖父母の家だった。
広い庭。
果樹園。
畑。
麦。
そして静かな家。
そこへ。
この子がいたら。
きっと賑やかになる。
朝陽は想像してしまった。
縁側を歩く姿。
庭を走り回る姿。
麦と遊ぶ姿。
夕暮れの畑を一緒に眺める姿。
その想像があまりにも自然だった。
まるで最初からそこにいるみたいに。
「連れて帰りたいなぁ……」
思わず零れた本音に。
牧場の人が笑う。
子ヤギは何も知らない顔で朝陽の袖を甘噛みしていた。
朝陽は困ったように笑う。
本当に困っている時の顔だった。
でも。
その目はどこか嬉しそうだった。




