第二十話 新しい朝、遠い嵐
──茨視点。
鏡の中に、知らない自分がいた。
——いや、知らないわけではない。
渡辺双花の顔。同じ輪郭、同じ唇、同じ鼻筋。
だが、髪が黒い。
肩に落ちる髪の一本一本が、墨を溶かしたような漆黒。
瞳は赤紫。エメラルドの欠片もない、深い色。
右腕には薄い紋様が浮かんでいる。影で刻まれた、契約の証。
双花の姿の時は金髪に戻る。
人格が交代した時だけ——この姿が、顕在化する。
鏡の横に、赤い薔薇の花束が飾ってあった。
あいつが、双花に渡したもの。
……私に渡したもの。
赤い花弁が、月の光を受けて輝いている。
見た瞬間——頬が、熱くなった。
何だ、これは。
怒りでも恐怖でもない。
私が知っている感情は、その二つだけだったはずだ。
守るための怒り。失うことへの恐怖。
それ以外の感情など、知らなかった。
なのに——この熱は、何だ。
胸の奥が騒がしい。
心臓の音が、いつもより速い。
赤い花を見るだけで、あいつの声が耳の奥に蘇る。
『お前たちだけに茨の道は歩かせない』
……馬鹿か。
黒い髪に、指で触れた。
墨と同じ色。あいつの影と同じ色。
顔の熱が止まらない——でも、指は離せなかった。
「……悪くない」
誰もいない部屋で、呟いた。
私は茨だ。
棘があって、傷つけて、血の匂いしか知らなかった。
でも、「薔薇の根を守るのは茨の枝だ」と、あいつは言った。
──なら。
薔薇の花を見て、胸が熱くなることくらい——許されるだろうか。
鏡の中の赤紫の目が、少しだけ潤んでいた。
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——双花視点。
四日ぶりの登校は、思ったよりも平気だった。
校門を抜け、下駄箱で上履きに履き替える。
廊下を歩く。朝の空気。窓から差す光。すれ違う生徒の声。
全部、前と同じ。
でも——同じなのに、少しだけ違って見える。
胸の奥に、もう一人いる感覚。
イバラの存在が、薄い膜のように意識の底に寄り添っている。
怖くない。むしろ——温かい。
「ふーちゃん!!」
声が飛んできた。
クラスの女子たちが駆け寄ってくる。
「体調大丈夫!? 四日も休んだからめちゃくちゃ心配したんだよ!」
「ごめんね、心配かけて。もう大丈夫」
笑った。
自然に。
以前の笑顔は、形を作るものだった。
相手が安心するように。嫌われないように。必要とされ続けるように。
今の笑顔は——ただ、嬉しいから笑っている。
心配してくれる人がいることが、嬉しい。
教室に入ると、窓際の席。
いつもなら、墨くんが座っている席に、違う人が座っていた。
田中くんが戻ってきたのだろう。
本来の現実。
だけど──少しだけ、寂しかった。
「渡辺さん」
声をかけられた。
田中くんが立ちあがり、笑顔を向ける。
腕にギプスをはめ、松葉杖をついている。入院から退院したばかりのようだ。
「田中くん、退院したんだ。よかったね」
「うん、まあ……骨折だけだったし」
田中くんは照れたように頭を掻いた。
それから、少し真剣な顔になる。
「あの、渡辺さん。退院祝いって言うと変だけど……今度、どこか行かない? 映画とか」
デートのお誘い。
田中くんが以前から私に好意を持っていたことは、なんとなく気づいていた。
以前の私なら——断れなかっただろう。
嫌われたくない。必要とされなくなるのが怖い。
だから曖昧に笑って、流して、相手を傷つけないように——自分を消していた。
でも、今は。
「ごめんね、田中くん」
はっきりと、言った。
心の中で、イバラが背中を押してくれた気がした。
「私、好きな人ができたから」
田中くんの目が、丸くなった。
周囲の女子たちも、一斉にこちらを見る。
「ふーちゃんに好きな人!?」
「えっ、誰!?」
「いつの間に!?」
質問の嵐。
私は答えず、笑顔のまま手を振って、教室の奥へ駆けて行った。
本物の笑顔で。
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昼休み。
私は、お弁当を三つ持っていた。
自分の分。墨くんの分。そして——もう一つ。
職員室の扉を、ノックする。
「玉藻先生、お弁当です」
玉藻先生が、扇子を止めて振り返った。
金色の瞳が、一瞬だけ見開かれる。
「……あんた、何してるの」
「お弁当です。先生の分。墨くんの分も置いときますね」
「いや、だから何で私の分があるのよ」
「先生、いつもコンビニのおにぎりでしょう。栄養偏りますよ」
玉藻先生が、口を開けたまま固まった。
周囲の教員たちが、チラチラとこちらを見ている。
妖の教員に弁当を持ってくる生徒など、前例がないのだろう。
「……あんた、世話焼きすぎない?」
「えへへ」
玉藻先生は溜息をつき、弁当を受け取った。
扇子の奥で、少しだけ目を細めている。
その表情を見て——あ、この人、嬉しいんだな、と思った。
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——遠く離れた地。
京都。
御剣第二高等学校。
第六とは格が違う、歴史と威厳に満ちた校舎。
その最上階。
校長室のその奥に、特別執務室がある。
畳敷きの広い部屋。
壁一面に呪符が貼られ、天井には複雑な陣が描かれている。
障子の向こうに、京都の夜景が広がっていた。
部屋の中央に、一人の男が座っていた。
三十七代目、安倍晴明。
安倍家の現当主にして、御剣局・双星会の片翼。
日本の術式体系を統括する、文字通りの最高権力者の一人。
——だが、見た目は、締まりがなかった。
崩した正座。片膝を立て、背もたれの座椅子に深く沈み込んでいる。
長く美しい茶色の髪を、無造作に一つに纏め、狩衣の襟元は大きく緩んでいた。
手元には、湯呑みと羊羹。
どう見ても、国家の最高権力者には見えない。
「晴明様、報告があります」
声が上がった。
二匹の妖狐が、畳の上に並んでいる。
『玄狐』と『素狐』
──玉藻前の殺生石を核として作られた『二尾の妖狐型式神』
力を削がれた現在の玉藻前よりも、遥かに格上の妖力を持つ。
二匹の狐は、同時に口を開いた。
「玉藻前が『変』の術を使った信号をキャッチしました」
「あの枷の範囲で中級を使うのは想定外です」
晴明は、羊羹を一口齧った。
「ふーん」
「怪しいです。偵察に向かいます」
「えー、大袈裟じゃない? どうせ玉ちゃんがまた、セルフ美容整形したんだと思うけど〜」
玉ちゃん。
九百年の因縁を持つ妖狐を、そう呼ぶ。
狐の式神が、露骨に眉を顰めた。
「晴明様はあいつに甘すぎます」
「甘いかな〜? 信用してないよ。でも、見捨てもしない。まー憎めないからね、あの女狐は〜」
軽い口調。だが、その言葉の奥に——何百年分もの関係の重さが、滲んでいた。
「信号の波形が通常の『変』と違います」
もう一匹の狐が、冷静に付け加えた。
「外部の魔力との干渉が検出されています。単なる……その、美容整形……ではありません」
晴明は羊羹の残りを口に放り込み、湯呑みの茶で流し込んだ。
のらりくらりとした態度。
だが——色素の薄い茶色の瞳が、一瞬だけ鋭くなった。
「……ま、念のため。偵察お願いしようかな〜」
式神が頷き、空間に溶けるように消えかけた——その時。
障子が、勢いよく開いた。
伝令役の従者が、息を切らして駆け込んでくる。
顔が蒼白だった。
「晴明様、緊急報告です!」
「おー、どうしたの。そんな顔して」
「御剣局の北関東支部が——壊滅しました」
沈黙が、落ちた。
羊羹の包み紙を弄っていた晴明の手が、止まる。
「……壊滅?」
「隊員二十三名、全員死亡。施設は全壊。敵の情報はありません。ただ——」
「ただ?」
「支部があった場所に——文字が、書かれていました」
従者が、唾を飲み込んだ。
「『大蛇』、と」
時間が、止まった。
晴明の目から、全ての軽さが消えた。
瞳が青白く光る。
玉藻前と同系統の術による変質——安倍家に受け継がれた、術の痕跡。
その目が、据わった。
部屋の空気が、変わる。
式神の狐たちが、本能的に身を低くした。
だが——、一瞬だった。
晴明は、すぐにまたダルそうな態度に戻る。
座椅子に沈み込み、天井を見上げた。
「オロチなんて書くセンスは……あいつしかいないんだよなぁ」
溜息。
「だっる」
もう一度。
「本当にだっるーーーー!!」
叫んだ。
だが、目だけは笑っていない。
瞳の奥に、冷たい炎が灯っている。
「蘆屋道満が、もう転生しやがった」
蘆屋道満。
安倍晴明の宿敵。
唯一、輪廻転生の術式を体現した術師。
死んでも転生する。何度殺しても蘇る。
安倍家の悲願は、この男の完全な消滅。
そして、それは——、一度も成し遂げられていない。
晴明は、式神に向き直った。
「玉ちゃんの偵察、取りやめ」
「は? しかし——」
「蘆屋道満を追え。最優先。玉ちゃんの美容整形なんてどうでもいい」
式神たちが顔を見合わせたが、主の命に逆らう選択肢はない。
二匹の狐が、影の中に消えた。
晴明は従者に向き直る。
「源ちゃんに報告して。『また面倒なのが湧いた』って」
源ちゃん——源頼光の現当主。
双星会のもう片翼。
従者が慌ただしく退室した後、部屋には晴明だけが残された。
畳の上に寝転がる。
魔力に精錬され、青に染まる瞳で天井を見上げる。
それは、未来を読み解くかの如く。
「……本当に、面倒な時代だわ」
窓の外。
京都の闇に染まった山に——殺生石が、赤く明滅していた。
八つの殺生石のうち、
二つは、狐の式神『玄狐』と『素狐』に使われている。
一個は、新たな呪術兵器に。
残り五個は、大江山の結界の核として……。
その赤い光が、脈動するように揺れている。
まるで——何かの到来を、告げるように。
安倍晴明は目を閉じた。
遠い嵐が、近づいている。
✳︎✳︎✳︎
——高尾山。
昼の校舎の屋上。
心地の良い光が照らし、風が穏やかに吹く。
玉藻墨は、いつものように影を薄くして座っていた。
隣には、金髪の少女が弁当箱を並べている。
その毛先にだけ、僅かに黒が残っていた。
玉藻前が、扇子の奥で弁当を覗いている。
屋上には他に誰もいない。
誰にも気づかれない繋がりが、確かに存在している。
殺人鬼と呼ばれた茨。影になった鬼。
鎖に繋がれた狐。
三つの影が結んだ物語が——ここから始まる。
第一章「殺人鬼と影になった鬼」 完




