第十九話 薔薇と茨
水面のような床に、立っていた。
──いつからここにいるのか、わからない。
意識が途切れた後、気がつけば、ここにいた。
暗くも明るくもない。
境界、としか言いようのない場所。
上も下もなく、遠近の感覚すら曖昧で、ただ、足元だけが鏡のように澄んでいた。
自分の姿が、映っている。
金髪。エメラルドの瞳。制服の袖から覗く白い手。
見慣れた——渡辺双花の姿。
でも──鏡の中に映っているのは、私じゃなかった。
水面に波紋が広がる。
同じ顔。
同じ輪郭。
同じ背丈。
だけど——黒い髪。赤紫の瞳。右腕に浮かぶ薄い紋様。
目つきが鋭く、唇が薄く引き結ばれている。
水面の向こう側に、もう一人の私が立っている。
「……あなたが」
声が、震えた。
知っていた。
全部じゃない。薄々としか。
でも——この存在を、ずっと感じていた。
意識が途切れる夜。
目覚めた時に残る、鉄の匂い。
知らない場所にいる朝。
手のひらに染みついた、洗っても落ちない何か。
全部、この子がやっていたのだと——心のどこかで、わかっていた。
「私は、お前の中にずっといた」
黒髪の少女が、口を開いた。
私と同じ声帯なのに、温度がまるで違う。冷たくて、硬くて、でも——どこか脆い。
「双子で生まれるはずだった、もう一つの魂」
「……双子」
「身体を持たなかった半身。お前が生まれた時から、ここにいた」
水面が、微かに揺れた。
波紋が広がり、二人の姿を歪ませる。
「お前が意識を失うたびに、私が代わりに立った。お前を傷つけようとした人間を——殺した」
殺した。
その言葉が、空間に落ちる。
波紋が、もう一度広がった。
「血の匂いは、私がつけたもの」
沈黙。
怖い、と思った。
震えている。足が、手が。
でも——それ以上に、胸の奥が痛かった。
「……知ってた」
自分の声が、やけに小さく聞こえた。
「全部じゃないけど。薄々、気づいてた」
黒髪の少女の目が、僅かに見開かれた。
「怒らないのか」
「怒れない」
首を横に振る。
涙が出そうなのに、出ない。
代わりに、胸の奥が熱くなる。
「あなたは、私を守ってくれていたんでしょう」
息を呑んだ。
初めて——その鋭い目に、動揺が走った。
「……守っていたわけじゃない。排除しただけだ。お前に害を与える存在を」
「それを、守るって言うんだよ」
少女は答えなかった。
視線を逸らし、右腕の紋様を見つめている。
「私は——エラーだ」
声が、低くなった。
「本来、存在しないはずの魂。身体を持たず、名前もなく、誰にも認識されない。双花の中に巣食った寄生虫みたいなものだ」
「そんなこと——」
「事実だ。私がいなければ、お前は普通の人間だった。堕鬼化もしなかった。血の匂いに怯えることも、意識が途切れることも——」
「茨」
名前を、呼んだ。
墨くんがつけてくれた名前。
夢の中なのに、なぜかその名前だけが、はっきりと聞こえていた。
イバラが、動きを止めた。
私は、水面を踏んで、一歩を踏み出した。
波紋が広がる。二歩目。三歩目。
イバラの目の前に立つ。
同じ顔。同じ背丈。
水面に映った自分と、向かい合っている。
ただし、水面の向こうの自分は——黒い髪をして、赤紫の目で、右腕に紋様を持っている。
私は水面の境界に踏み込む。
——イバラの手を取った。
冷たかった。
私の手より、ずっと冷たい。
「エラーなんかじゃない」
声が震える。だけど、手は離さない。
「あなたがいなかったら、私はとっくに壊れてた」
あの夜。孤児院で。
あの夜。路地裏で。
あの夜。倉庫の中で。
意識が途切れた後——誰かが、私の代わりに立ってくれていた。
汚れ役を引き受けて、血を被って、朝になれば消えていた。
全部、この子がやっていた。
「一緒にいよう」
手を、強く握った。
「これからは、隠れなくていい」
二人の手が重なった瞬間——空間に、光が差した。
水面が輝き、天井のない空に光の筋が伸びていく。
境界だった場所に、色が戻り始める。
イバラの赤紫の目が、大きく揺れていた。
唇が震えている。何かを言おうとして、言葉にならない。
泣いている——のだと、思った。
涙は落ちなかった。
落とし方を知らないように、目尻が赤くなるだけで、水滴にはならない。
でも、確かに——泣いていた。
私は、その手を離さなかった。
✳︎✳︎✳︎
目を、開けた。
天井が見える。
木目の天井。見覚えがない。
身体が重い。指一本動かすのに、途方もない力が要る。
喉が乾いていた。唇がひび割れている。
「……起きた?」
声が聞こえた。
低くて、感情の薄い声。でも、どこか安堵が混じっている。
首を横に向けると、墨くんが座布団に座っていた。
右手に包帯が巻かれている。顔色が悪い。目の下に濃い隈がある。
「ここ、は……」
「玉藻前の部屋だ。四日間、眠っていた」
四日。
意識が遠のいたのは覚えている。でも、四日も経っていたとは思わなかった。
「事情は——」
「全部、説明する。だが、先に水を飲め」
墨くんがコップを差し出した。
手が震えて上手く受け取れない。
墨くんが何も言わずにコップを支え、口元まで運んでくれた。
水が喉を通る。
生きている、と思った。
✳︎✳︎✳︎
全てを聞いた。
イバラのこと。眷属化のこと。堕鬼化が止まったこと。
佐藤と鈴木のこと。御剣局のこと。
墨くんと玉藻先生が、どれだけの危険を冒したか。
全部を聞いて——私は、泣かなかった。
夢の中で、もう泣いたから。
イバラと話したから。
全部——受け入れる準備は、できていた。
「……ありがとう、墨くん」
「礼はいい」
「よくない。ありがとう」
墨くんは、少しだけ困ったような顔をした。
感謝の受け取り方を知らない人の顔。
✳︎✳︎✳︎
夕食は、三人で食べた。
玉藻先生の部屋。畳の上に、ちゃぶ台が一つ。
玉藻先生が台所に立ち、何かを作っている。
——匂いが、すごい。
焦げた匂いと、妙に甘い匂いが混ざって、嗅いだことのない何かを放っている。
「先生、それ……何ですか」
「肉じゃが! レシピ通りよ!」
「レシピ通りでそうはならない」
墨くんが無表情のまま台所に立ち、フライパンから何かを救出し始めた。
手際がいい。左手だけで器用に菜箸を操っている。
「ちょっと、私の料理を横取りしないでよ」
「横取りじゃない。救済措置だ」
「失礼ねぇ! 千年生きてきたのよ?」
「千年料理してこなかったんだろ」
玉藻先生が扇子で墨くんの頭を叩いた。墨くんは避けなかった。
食卓に並んだのは、墨くんが修復した肉じゃがと、味噌汁と、白米。
素朴な食事だった。でも、温かかった。
三人で、ちゃぶ台を囲む。
ぎこちない。
玉藻先生は扇子を弄りながら墨くんに文句を言い、墨くんは黙々と食べ、私はその間で小さくなっている。
——でも、嫌じゃなかった。
「ここ、いいですね」
思わず呟いた。
二人が、同時にこちらを見た。
「……何がいいのよ」
「わからないです。でも、なんか……いいなって」
玉藻先生が眉を上げた。
それから、ふっと息を吐いて、扇子の奥で何か言った。聞き取れなかった。
「あ、そうそう」
玉藻先生が、急に思い出したように言った。
「あんたが寝てる間、墨があんたの弁当箱で弁当作ってたわよ。自分用に」
「……えっ」
墨くんの箸が、止まった。
「……あの弁当箱は使いやすい」
墨くんは、何か誤魔化すように早口に言った。
「問題ない。許可は取ってないが、弁当箱としての性能が高い」
弁当箱の性能って何。
少しだけ、笑ってしまった。
声に出して。本当に。
玉藻先生が、扇子の奥でにやりとした。
✳︎✳︎✳︎
帰り道。
いつものように、墨くんが送ってくれた。
商店街を抜け、住宅街に入る。
夜の空気が涼しい。街灯がぽつぽつと道を照らしている。
四日ぶりの外の空気は、少しだけ冷たくて、少しだけ新鮮だった。
隣を歩く墨くんは、いつもと変わらない。
影が薄くて、無表情で、歩幅が少しだけ私より広い。
でも、右手の包帯と、目の下の隈が、この人が何をしてくれたかを教えてくれている。
「墨くん」
「何だ」
「手、痛くない?」
「問題ない」
嘘だ。さっき箸を持つ時、一瞬だけ顔を顰めていた。
「……無理しないでね」
「してない」
嘘つき。
アパートの前に着いた。
いつもの場所。いつもの別れ際。
墨くんが立ち止まった。
「双花」
「うん?」
墨くんが、足元の影に手を沈めた。
──あ、これが。墨くんの力。
ごそごそと何かを探している。
何か——大きなものを。
取り出したのは——赤い薔薇の花束だった。
十本ほどの赤い薔薇が、白い紙に包まれている。
花屋で買ったのだろう。少し不格好に包まれているのが、逆に生々しかった。
頭が、真っ白になった。
「……え」
「弁当の礼だ」
墨くんは、花束を差し出した。
包帯を巻いた右手で。
無表情のまま。
でも、耳の先が——僅かに赤い。
「双花に、感謝する」
声は淡々としている。
いつもの、感情を影に沈めた声。
「……それと、中にいるイバラにも」
心臓が、跳ねた。
薔薇の赤が、街灯の光に照らされて揺れている。
甘い香りが、夜風に乗って鼻をくすぐる。
「お前たちだけに茨の道は歩かせない」
——聞き方によっては。
いや、どう聞いても。
それは——。
顔が熱い。耳まで熱い。首筋まで熱い。
心臓がうるさくて、自分の声が聞こえない。
花束を、両手で受け取った。
薔薇の棘が、指に少しだけ刺さった。
墨くんの冷たい指先が、一瞬だけ触れた。
その小さな痛みと、冷たい温度が──夢じゃないと教えてくれる。
赤い花を見つめる。
薔薇の赤。
その赤が——イバラの瞳の赤紫と、重なった。
胸の奥で、何かが揺れた。
一つではない。二つ。
二つの魂が、同時に——揺れた。
「……ありがとう、墨くん」
声が、震えた。
笑顔を作ろうとしたのに、目尻が先に熱くなった。
これは——形だけの笑顔じゃない。
「じゃあ、また明日」
墨くんは短く言って、背を向けた。
私は花束を抱えたまま、墨くんの背中を見送った。
影が薄くて、街灯の光にすぐ溶けてしまいそうな後ろ姿。
——でも、消えない。
あの人は、もう消えることを選ばない。
扉を閉めて、鍵をかけて、靴を脱いで。
花束を、テーブルの上に置いた。
薔薇の赤が、部屋の中で静かに光っている。
✳︎✳︎✳︎
──墨視点。
一人で、帰り道を歩く。
夜道。街灯が遠い。影が長い。
薔薇を渡す、という発想は動画で見た。
「男性がサプライズで、女性に花を贈って感謝を伝える」
そんな動画。
感謝を伝えるのに合理的だと思った。
わかりやすい。
玉藻前も「女は花を渡せば喜ぶものよ」と、言っていた。
花言葉とか、贈り物とか、そういう文脈は——正直、よくわからない。
俺は何か、お返しがしたかっただけだ。
渡した時、双花の顔が、やけに赤かった気がする。
体調が悪いのだろうか。四日間も寝ていたのだから、まだ本調子ではないのかもしれない。
……まあ、いい。
歩きながら、この数日を振り返る。
俺は初めて「選んだ」。
見ているだけの観察者を、やめた。
影の中から手を伸ばし、誰かの存在を繋ぎ止めた。
父が前に立って戦ったように。
母が身を挺して庇ったように。
俺は——影から、守った。
茨の道だ。
棘だらけで、血が出る。
でも、少なくとも——見ているだけの自分は、もう終わった。
アパートに着く。
階段を上がり、玄関の前に立つ。
扉が——半開きだった。
中から、扇子を仰ぐ音が聞こえる。
玉藻前が、窓際に、もたれかかっていた。
浴衣姿で、扇子をぱたぱたと仰ぎながら、何でもない顔で俺を見る。
「おかえり」
その一言。
十年間、この家に帰ってきて——、一度も言われたことのない言葉。
いや、違う。言われていたのかもしれない。
俺が、返さなかっただけだ。
影に沈めていない、裸の感情が、胸の奥で小さく揺れた。
「……ただいま」
声に出した。
十年間、一度も言ったことのない言葉。
玉藻前が、目を丸くした。
扇子が止まる。
金色の瞳が、一瞬だけ——大きく揺れる。
それから、扇子の奥で笑った。
「遅いわよ」
いつもの口調。いつもの軽さ。
でも、声が——ほんの僅かに、震えていた。
俺は靴を脱ぎ、家に上がった。
扉が閉まる。
高尾山の夜に、静寂が戻った。




