第十八話 名前
裏山に辿り着いた時、双花の身体は限界だった。
影から引き出す。
夜気に触れた瞬間、双花の身体が激しく震えた。
エメラルドの瞳に赤い光が混じっている。
汗が噴き出し、金髪が額に張り付いていた。
呼吸は浅く速い。右手を起点に、赤黒い変質が鎖骨の手前まで広がっている。
佐藤との戦闘で受けた傷。
影の中でも止まらなかった堕鬼化の進行。
もう——時間がない。
「遅いわよ」
声が降ってきた。
高尾山中腹、旧参道脇。
人の手が入らなくなった区画。
木々が鬱蒼と茂り、街の光は一切届かない。
闇が肌に触れるほど濃い。
その闇の中に、玉藻前が立っていた。
教員の服ではない。
白金に近い色の装束。平安の趣を残す衣が、夜風に揺れている。
首元の枷が赤く明滅し、低い唸りを上げていた。
「予定通りでも遅いの。何、その顔。ボロボロじゃない」
「……色々あった」
「色々ね」
玉藻前は扇子を閉じ、俺の全身を一瞥した。
鼻と耳からの出血の痕。右手の火傷。立っているのがやっとの身体。
金色の瞳が一瞬だけ揺れたが、何も言わなかった。
代わりに、視線を双花に向ける。
「……堕鬼因子の発現が右腕に集中している。面白い存在ね」
品定めではない。純粋な観察だ。
千年を生きた妖狐の目が、双花の身体構造を読み取っていく。
「核はどこ?」
「心臓の手前。胸郭の右寄り」
「見えてるの?」
「影を通せば、魔力の流れが分かる」
玉藻前が僅かに目を細めた。
「……あんた、本当に成長したわね」
その言葉には返さず、俺は準備に取りかかった。
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「──影牢」
闇が広がる。
じわりと、足元から這い上がるように。
まるで地面が溶け出したかのように、黒が染み出した。
周囲の木々が、月灯りが、夜空が──全て、黒い薄膜で覆われていく。
星が消え、風が止まる。
閉じ込められた、という感覚が皮膚を這った。
影牢。
この場所を、世界から切り取る。
負担が、全身に圧し掛かった。
既に限界の身体に、影牢の維持はさらなる負荷を強いる。
歯を食いしばる。視界が明滅する。
構うな。始める。
右手を影に沈め、喪切を引き出した。
鞘のない黒い刀身が、夜気に触れる。
——空気が凍った。
木々の葉が萎れ、草が枯れる。
この刀が抜かれれば、周囲の生命が死ぬ。
だが今回は、その力を破壊ではなく──救済に使う。
双花の身体が、本能的にこわばった。
玉藻前だけが、平然としている。
「やっぱり、この刀、宗刻の最高傑作よ。化け物じみてるわ」
「……宗刻と、その妻の思い、執念が宿っているからな」
喪切を地面に突き刺した。
刀身が土に沈み、黒い霧が根のように広がる。
俺は膝をつき、術式を描き始めた。
宗刻の研究。十年前に暗記した全てを、記憶から引き出す。
影を指先から伸ばし、地面に線を描いていく。
人体の経絡図。魔力の流路。堕鬼因子の固定工程。
黒い線が円を描き、円の中に複雑な紋様が浮かび上がる。
宗刻が妻を救うために考案し——完成できなかった術式。
堕鬼化の進行を止め、人間と鬼の中間で身体を固定する理論。
宗刻の理論には、空白があった。
妖術の知識が足りなかった。人間の術師には、そこが限界だった。
その空白を——俺の影と、玉藻前の『変』で補う。
紋様が完成した。
黒い円が、微かに脈動する。
✳︎✳︎✳︎
双花を円の中心へ運び、身体を横たえる。
呼吸が荒い。意識は——もう一人の魂。エメラルドの奥に、赤い光が揺れている。
「痛むか」
「……痛いに、決まっている。ずっと……痛い」
声が掠れていた。
強がりも虚勢もない。ただの事実。
俺は玉藻前に目配せした。
玉藻前が、一歩前に出る。
首元の枷が、赤から白へ——輝度を上げた。
警告音。甲高い電子音が鳴り響く。
使用制限。
中級術式は一日一回。使えば安倍家の監視系に信号が飛ぶ。
一時間以内に、全てを終わらせなければならない。
「——『変』」
玉藻前の声が、低く響いた。
金色の光が、双花の身体を包んだ。
暖かいのではない。細胞の一つ一つを書き換えるような、精密な干渉。
変質した右腕に光が集中し、堕鬼因子の構造を読み取っていく。
同時に——俺は喪切を双花の右腕に当てた。
喪切が、震えた。
刀身から放たれる負の魔力が、イバラの堕鬼因子と共鳴する。
同じ波長。同じ根を持つ力。
反発ではなく——引き合う。
暴走する堕鬼因子が、刀に吸い込まれていく。
黒い蒸気が右腕から立ち昇り、喪切の刃に収束する。
双花が、叫んだ。
身体が弓なりに反る。
腕が暴れ、脚が地面を蹴る。
痛みが、全身を貫いているのだろう。
「耐えろ。堕ちるな」
「わかって……いるッ……!」
歯を食いしばる音が聞こえた。
目が見開かれ、赤い光が激しく明滅する。
玉藻前の『変』が、身体を再構成していく。
堕鬼でも人間でもない——中間。
変質した右腕の赤黒い皮膚が、少しずつ元の色に近づいていく。
完全には戻らない。
だが——進行が、止まる。
喪切が、瘴気を限界まで吸い込んだ。
刀身が赤黒く脈動し、握っている俺の手のひらが、さらに焼ける。
もう片方の手で柄を支え、歯を食いしばった。
——ここからだ。
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「ここからは、俺だ」
影を動かした。
術式の紋様から、黒い影が立ち上がる。
蔦のように。
生き物のように。
影が双花の身体に絡みつき、這い上がっていく。
堕鬼因子を「封じる」のではない。
「繋ぐ」のだ。
この魂と、俺の存在を。
影を通じて、一つの系譜に。
眷属化。
名を与え、存在を繋ぐ。
式神のような奴隷契約ではない──対等に近い、鬼の契約。
記憶が、浮かぶ。
十年前の夜。
玉藻前が俺に名前をくれた時の言葉。
『名前は鎖よ。でもね、鎖だって使い道はあるの』
『逃げられないように、でも——一人きりにならないように』
あの夜と同じことを、俺がする番だ。
俺は、双花の目を見た。
「お前に、名を与える」
痛みに耐える目が、俺を見返す。
赤い光が揺れている。エメラルドの奥に、別の色が覗いている。
「お前は今まで名前がなかった。双花の影として、名もなく、誰にも認識されずに生きてきた」
影が右手に絡みつく。
黒い蔦が指を包み、掌を覆い、腕を這い上がる。
「——俺と、同じだ」
声が、少しだけ震えた。
影に沈めたはずの感情が、漏れたのかもしれない。
「だから、俺が名前をやる」
変質した右手の甲に、影で一文字を刻む。
黒い線が、肌の上に浮かぶ。
簡潔な一文字。
それが、存在の証明になる。
「——茨」
焼けた右手から、血が滲んだ。
その一滴、刻まれた文字に垂らす。
文字が、微かに光を放つ。
「……茨?」
「茨だ。棘の道。踏めば血が出る」
影が文字を飲み込んでいく。
肌に沈み、消えていく。
「だが、薔薇の根を守るのは茨の枝だ」
✳︎✳︎✳︎
影が文字を完全に飲み込んだ瞬間——紋様が、輝いた。
黒い円が白く反転し、光の波紋が広がる。
イバラの右手の変質が、止まった。
止まっただけではない。
黒い皮膚が消えていく。赤黒い変色が、潮が引くように後退する。
身体の輪郭が変わり始めた。
肘から先に、薄い紋様が残った。
影の文様が、刺青のように肌に定着している。
エメラルドの瞳が——赤紫に変わった。
深い紫の中に赤が混じる、見たことのない色。
そして——金髪が、漆黒へと変質する。
毛先から根元へ、波のように黒が広がっていく。
影と同じ色。俺と同じ色。
影牢が解けた。
俺の集中力が限界を迎え、影の膜が霧散する。
雲の切れ間から、月光が差し込んだ。
銀色の光が、イバラを照らす。
白い肌が月光を反射し、凛とした空気を纏っている。
黒い髪が風に揺れ、赤紫の瞳が夜空を映す。
右腕の紋様が、月光の下で淡く光っていた。
俺と同じ、黒い髪。白い肌。
渡辺双花の中にいた、もう一つの魂は——俺の眷属、黒鬼として生まれ変わった。
純潔の鬼に近いが、どこにも属さない存在。
宗刻の悲願が、ここに一つの形を得た。
人間には戻せない。だが、純潔の鬼として定着させるピースは——揃っていた。
✳︎✳︎✳︎
「……消えた」
イバラが、右手を見つめていた。
変質が。侵食が。あの赤黒い色が——消えている。
「ああ。これ以上の堕鬼化はない。成功だ」
「本当に……」
「嘘はつかない。約束は別だ。——千年守る、なんて大口は叩けないがな」
イバラの赤紫の瞳が、俺を見た。
信じていいのか、と問うような目。
だが、すぐに視線を逸らした。
「成功したのね」
玉藻前の声が、後ろから聞こえた。
振り返ると、装束の裾を地面に広げて座り込んでいる。
枷の光は消え、顔色が蒼白だった。
全妖力を使い果たした姿。
「たぶん」
「たぶんって言うな。私の全妖力を使ったのよ」
声は疲労で掠れていたが、口調はいつも通りだった。
扇子を開く力も残っていないようで、膝の上に放り出している。
✳︎✳︎✳︎
「お前の存在は、俺の影に繋がった」
イバラに向き直り、説明する。
「御剣局の探知にも引っかかりにくくなる。俺の影隠しの一部が、お前の存在にも作用する」
「見つからない……」
その言葉を口にした時、イバラの声が——震えた。
安全。
見つからない。
追われない。
生まれてから一度も手にしたことのない概念に、初めて触れた戸惑い。
目が揺れている。何かを堪えるように、唇を引き結んでいる。
「イバラ」
名前を呼んだ。
赤紫の目が、見開かれた。
「……もう一回」
「は?」
「もう一回、呼べ」
声が、切迫していた。
——名前を持ったことがない存在の、必死な確認。
本当に自分の名前なのか。本当に呼ばれたのか。
夢ではないのか。消えないのか。
「イバラ」
二度目。
イバラは唇を噛んだ。
目尻が赤くなっている。
泣き方を知らない目が、それでも何かを溢れさせようとしている。
涙は——落ちなかった。
落とし方を、知らないのだろう。
「……悪くない」
それだけ言って、イバラは顔を背けた。
黒い髪が、頬を隠す。
✳︎✳︎✳︎
俺は自分の身体を確認した。
右手。
喪切を握った手のひらは、皮膚が炭化し、赤黒い肉が露出している。
指を曲げるだけで激痛が走る。
影の酷使。
視界が霞み、身体が鉛のように重い。
まっすぐ立っているだけで、精一杯だ。
玉藻前はまだ地面に座り込んでいる。
全妖力の消費は、千年の妖狐にとっても軽くはないらしい。
だが——成功した。
その事実だけが、折れそうな身体を支えていた。
イバラが立ち上がろうとした。
気丈に。
黒鬼として生まれ変わった身体を、確かめるように。
右手を握り、開き、指の感覚を確かめ——
——崩れた。
膝が折れ、身体が前のめりに倒れる。
倒れる瞬間、姿が変わった。
赤紫の瞳がエメラルドに戻る。
漆黒の髪が、金色に戻っていく。
渡辺双花の姿に、戻った。
人格が、交代したのだろう。
イバラが限界を迎え、双花の意識が浮上してきた。
「イバラッ!!」
俺と玉藻前の声が、同時に重なった。
俺は駆け寄り、倒れる双花の身体を受け止めた。
火傷した右手が悲鳴を上げる。
玉藻前も這うように近づき、双花の脈を確かめる。
「……大丈夫。気を失っただけ。安定してる」
玉藻前の声に、安堵が滲んでいた。
「眷属化の影響で身体が再構成されてる最中だから、負荷が大きいのよ。しばらく眠るでしょうね」
俺は、腕の中の双花を見下ろした。
穏やかな寝顔。
苦痛の色は消えている。
金色の髪の毛先にだけ、僅かに黒が残っていた。
右手には、薄く黒い痣のような紋様が浮かんでいる。
──変化の痕跡。イバラが確かにここにいた証。
俺は、双花を地面にそっと横たえ、玉藻前のコートを借りて身体にかけた。
空を見上げる。
雲が流れ、月が顔を覗かせていた。
さっきまで隠れていた月が、今は——照らしている。
高尾山の夜風が、木々を揺らす。
静寂の中に、虫の音だけが響いていた。
玉藻前が、隣で深く息を吐いた。
「……ねえ、墨」
「何だ」
「あんた、今日一日で何回死にかけた?」
「数えてない」
「数えなさいよ。私の寿命が縮むわ」
「千年も生きたんだ。多少縮んでも問題ないだろ」
「……減らず口は元気ね。安心したわ」
扇子を拾い上げ、口元を隠す。
だが、その奥で——金色の目が、微かに潤んでいるように見えた。
気のせいかもしれない。
俺は月を見上げたまま、何も言わなかった。
ただ——右手の痛みと、隣にいる二人の体温だけが、今夜起きたことが現実だと教えてくれていた。




