第二十一話 評価
扇子が、折れた。
乾いた音が、狭い部屋に響く。
白檀の骨が真ん中から裂け、和紙が破れて、畳の上に落ちた。
玉藻前の手が震えている。
テーブルの上には、御剣局の公印が押された通達書。
その隣に、安倍家の封蝋が剥がされた私信が一通。
どちらも、今朝届いたものだ。
俺は壁際に背を預けたまま、影を薄くして、その光景を見ていた。
✳︎✳︎✳︎
「——C級維持、最下位。総合評価、全六校中、最低」
玉藻前が、通達書を読み上げる。
声が平坦だ。
感情を押し殺しているのがわかる。玉藻がこの声を出す時は、大抵、限界が近い。
「佐藤・鈴木事件における教員の管理責任——重大な過失と認定。担当教員・玉藻綺羅羅の査定を二段階引き下げ、再評価期間を設定する」
佐藤、鈴木。
先月起きた事件についてのこと。
違法薬物による堕鬼化。
御剣局の公式発表はそうなっている。
本当は、もっと複雑な話だ。
双花が巻き込まれ、俺が動いた。
御剣局には——辛うじて、バレていない。
事後処理では「教員の監督不行き届き」となった。
そして、彼らのクラス担当教員は一人しかいない。
目の前で、震えながら読んでいる狐の耳と豊かな尻尾を生やした女性。
元九尾の玉藻前だ。
「再評価期間って、いつまでだと思う?」
聞いているようで、聞いていない声。
目に正気が宿っていない。
玉藻前は返事を待たずに、私信の方を手に取った。
「こっちは安倍家から。相変わらず丁寧な字ね。……ははは」
乾いた笑い。
私信を開く手が、微かに震えている。
「次回の合同合宿試験において、第六の成績が改善されない場合——教員資格の剥奪、及び、管理対象の処遇変更を検討する」
管理対象。
玉藻前のこと。
安倍家の所有物として、九百年の鎖に繋がれた妖狐。
処遇変更。
その四文字の意味は、一つしかない。
「殺生石化、ね」
玉藻前が、上を向き笑った。
口の端だけが上がる、空っぽの笑みだ。
「用済みの狐は、石にして有効活用。合理的でしょう? エネルギー資源としては、私の身体ひとつでも——色々と、使い道はあるでしょうし……ね。例の人造妖の養分にするつもりかしら」
顔を見ればわかる。
もう——限界だ。
「……玉藻」
「あ、そうだ。これも面白いわよ。『なお、現行の特別教育官制度の見直しに伴い、妖族教員の配置基準を再検討する』。つまり、仮に第六が廃校にならなくても——妖の教員枠そのものを消す気よ」
私信を、テーブルに叩きつけた。
「三条宗刻と同じ。用が済んだら、処分。技術をデータ化して、本体は廃棄。いつもの手口よ、あの人間たちは——!」
声が裏返った。
そこから、堰を切ったように——崩れた。
机を蹴倒す。
本棚の書類を払い落とす。
化粧品だけは……避けてるが、それ以外のものが次々と床に散らばった。
「九百年よ!? 九百年、使い回されて、搾り取られて、それで最後が石!? 冗談じゃないわ!」
枷が赤く明滅する。
首元の拘束具が、玉藻前の感情に反応して唸っている。
妖力が制御を失い、反応しているのだろう——だが、今の玉藻前に暴走するほどの妖力はない。
枷が反応しているのは、ただの怒り。
人間と同じ、ただの感情。
それが、余計に痛ましかった。
「あんた!」
矛先が、こちらに向く。
「あんたも黙って突っ立ってないで、何か言いなさいよ!」
「……何を言えばいい」
「わかんないわよ! でも何か——何か……!」
声が、詰まった。
玉藻前の目が、潤んでいる。
金色の瞳に、水の膜が張っている。
「もう……嫌よ」
声が、小さくなった。
怒鳴っていた声が、急に萎んだ。
玉藻前の肩が震えている。
金色の瞳から、一筋——涙が落ちた。
音もなく。
九百年の妖狐が、声を殺して泣いている。
膝から崩れ、畳に座り込んだ。
両手で顔を覆う。指の隙間から、嗚咽が漏れる。
——初めて見た。
十年間、一度も。
怒りで、皮肉で、虚勢で、全部覆い隠してきたこの女が。
泣いている。
俺は、どうすればいいかわからなかった。
言葉では救えない。十年前からずっとそうだ。
……こういう時は、そっと寄り添え。
いつか彼女自身に言われたことを、不意に思い出した。
俺は——黙って、隣に座った。
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一時間後。
玉藻前は、荒れた部屋の真ん中で、座り込んでいた。
髪は乱れ、瞳は赤く腫れて、酷く疲れた顔。
背中を壁に預け、膝を抱えている。
ボサボサの尻尾を指先で弄びながら、天井を見上げていた。
嵐が過ぎた後の、静けさ。
「……合同合宿試験」
俺は、通達書を拾い上げた。
散らばった書類の中から、もう一枚。
試験の要項を引き抜く。
大江山プラント。
その文字列に、目が止まった。
——故郷、か。
京都。第二高校の管轄区域。
五つの殺生石を核にした結界で、純潔の鬼が封じられている場所。
酒呑童子の血を引く鬼たちが、管理という名の檻の中で息をしている。
試験会場は、プラント麓の地下迷宮。
百鬼迷宮。
そこで行われる奪取戦——式神化された鬼を討伐し、成績を競う実戦訓練だ。
年に一度の全六校合同試験。
大江山プラント麓に建設された地下迷宮に生徒を送り込み、式神化された鬼を討伐する実戦訓練。
成績はそのまま、各校の翌年度予算と評価に直結する。
毎年、S級の第一と第二が上位を占め、第三以下が残りを奪い合う。
第六が最下位を脱したことは——この十年、一度もない。
「ここで結果を出せば——査定は覆せるのか」
「……理屈の上ではね」
玉藻前は膝を抱えたまま、呟いた。
「でも、うちのメンバーで? 他の五校を相手に? 笑わせないで」
「第一と第二には勝てない。だが、最下位を脱すれば——」
「それだって簡単じゃないわ。第五だって必死よ、今年こそ順位を上げたいって。躍起になっている。それに比べて第六は、みんな諦めているもの」
声に力がない。
怒りが抜けた後に残ったのは、疲労だけだ。
「それに——」
玉藻前が、俺を見た。
「6人1チーム。でも、佐藤は退学。田中くんも——なんか知らないけど不登校。名簿に穴が空いてるのよ」
投げやりに答える玉藻前。
……田中くん。
たしか、双花に告白して振られ、それきり学校に来なくなった男だったか。
骨折のリハビリもあるらしいが……本当の理由は、そっちだろう。
田中の名前を借りた、一ヶ月前を思い出す。
この佐藤、鈴木の事件の発端。
渡辺双花、……その中に潜んでいた殺人鬼『茨』を俺は眷属した。
影から出ることを選んで。
玉藻前のこの窮地。
俺の選択の尻拭いでもある。
「俺が行く」
沈黙。
金色の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
「……何言ってるの」
「田中として出る。影を使えば、見た目の違いは誤魔化せる。田中の八握と刀を借りれば、形式は整う」
「鬼が人間の試験に出るって言ってるの? 正気?」
「正気だ」
「八握は使えないわよ。あんたが魔力を流せば、それは鬼の妖力として認識される。デバイスが反応して、あんたの存在が——バレるわ」
「わかっている。刀だけで戦う」
「影も使えない。人の目がある」
「最小限にする。使った場合は、八握の『幻』を起動したと偽装すればいい」
「人間として戦うってこと? 鬼の力を封じて、刀一本で?」
「そうだ」
玉藻前の目が、据わった。
「——馬鹿じゃないの」
低い声。
「大江山よ。鬼の檻の隣よ。あの結界に近づくだけで、あんたの存在に気づく奴が出るかもしれない。源流四天王の血筋がうろついてる場所で、酒呑童子の息子が——」
「だから影を薄くする。十年やってきたことだ」
「あの場所から逃げて! 十年、逃げ続けてきたことでしょう!!」
声が、また荒くなった。
「あんたは捕まったら終わりなのよ!」
——わかっている。
正直に言えば、怖い。
大江山の空気を吸えば、身体の奥の鬼が反応するかもしれない。
十年かけて薄めた存在が、一瞬で暴かれるかもしれない。
だが。
十年前のことを考える。
影の中で、全てを見ていた。
三条宗刻が壊れるのも。玉藻前が搾り取られていくのも。
観察して、記録して、何もしなかった。
見ているだけなら、鬼である必要がない。
影に沈んでいるだけなら、生きている意味がない。
俺は、選んだんだ。
助けたい存在を助けると。
「……これしか大切な人を守る方法は、俺にはない」
声に出したつもりはなかった。
けれど、言葉は空気に溶けていた。
玉藻前が、息を呑んだ。
俺は、通達書をテーブルに戻した。
大江山プラント。
百鬼迷宮・奪取戦。
全六校、六人一チーム。
弱小校が、全国試験に挑む。
無謀だ。
合理的じゃない。
俺が最も嫌う選択だ。
けれど——
十年前。
あの日、何も選ばなかった。
親父が死ぬのを見て、母が殺されるのを見て、影の中に逃げた。
もう一度、影の中で見ているだけか?
この女が石に変えられるのを——
——それだけは。
「俺が、出る」
怒りと不安を滲ませ、俺を見つめる妖狐の目を、しっかりと見ながら言えた。
玉藻前は、膝を抱えたまま、長い間黙っていた。
金色の瞳が揺れている。
だけど、怒りでも、恐怖でもない、名前のつけられない色が、その奥に灯っていた。
やがて——。
床をダンッと、叩きながら玉藻前は、立ち上がった。
「……まったく」
乱れた髪を片手で掻き上げ、いつもの——虚勢だらけの、でも美しい笑みを浮かべる。
「仕方ないわね。うちの墨が、珍しくやる気なんだもの。——先生として、準備してあげるわ」
目だけが、笑っていなかった。
そこにあったのは、ただ、透明な安堵だ。
俺はそれを見て——影の奥に、小さな熱を沈めた。
守りたいものが、ある。
それだけで、足は動く。
合理的じゃなくても。
無謀でも。
——大江山。
鬼の檻に、自ら足を踏み入れる。
窓の外。
高尾山の朝日が、部屋に差し込んでいる。
梅雨が明け、夏の到来を感じさせる日差し。
あの山の遥か西に——大江山がある。
父が暴れ、人間に討たれた伝承の地。
酒呑童子の息子たちが、檻の中で今も息をしている場所。
「酒呑童子の息子は、俺だけじゃない」
昔のことを、ふと思い出した。
理由はわからない。
影の奥に沈めた。
いつものように。




