第5話:黒い影
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王城に乳母として潜り込み、運命のターゲットであるアルス王子と接触した茜。今回は、日々育児をこなす裏で、アルスに忍び寄る「黒い影」と茜のさらなる決意を描きます。
王城の奥深くにある育児室は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
「セーラ、アルス様のご機嫌はいかがですか?」
時折、通りがかった貴族や上級女官が声をかけてくる。その度に茜は上品で柔らかな笑みを浮かべ、「はい、とても手のかからない良いお子様ですわ」と完璧な乳母を演じてみせた。
表向きの顔は、慈愛に満ちた若い乳母。
だが、その内面は完全なる暗殺者だった。
アルスがすくすくと成長するにつれ、茜の胸中にある予感は確信へと変わっていっていった。
――アルスは、ただの人間ではない。
生後数ヶ月を過ぎ、一歳、そして二歳を迎える頃には、その兆候は誰の目にも明らかになりつつあった。
ある日、茜がアルスに離乳食を食べさせている時だった。
スプーンを向けた瞬間、アルスの瞳の奥が、ぎらりと不気味な漆黒の光を放った。それは幼い子供のものとは思えない、底知れぬ冷たさと、世界すべてを焼き尽くすような強烈な破壊衝動の片鱗だった。
「あう……」
アルスが小さく呟いた瞬間、テーブルの上に置かれていた銀の食器が、まるで高熱に炙られたかのようにぐにゃりと歪み、黒く焦げた。
周囲の空気が一瞬で凍りつき、鳥肌が立つような悪寒が茜の背筋を駆け抜ける。
「……っ」
茜は反射的に自分の左手を引いた。
ほんの一瞬遅ければ、指が炭と化していたかもしれない。
目の前で無邪気に首をかしげるアルスを見つめながら、茜の心臓は激しく波打っていた。あれほどの強大な力、そして制御不能の闇がこの小さな体に宿っている。ミリアンダの言っていた「五割の確率で悪魔へと変貌する」という予言は、誇張でも何でもなく、刻一刻と現実の形を取ろうとしていた。
夜。
アルスが眠りについた静寂の部屋で、茜は窓辺に立ち、夜空の月を見上げていた。
手元の銀のナイフを、月明かりにかざしてみる。
(……早すぎるかもしれない)
アルスはまだ二歳。言葉もおぼつかない、ただの幼子だ。
日々の育児を通じて、彼にミルクを飲ませ、あやし、その小さな温もりを感じるたびに、胸の奥がチクリと痛むのを茜は隠せなかった。
自分は母親だ。我が子・健太を愛し、大切に育ててきた人間の母親だ。
それなのに、まだ善悪の区別もつかない赤ん坊の命を、自分の手で奪わなければならないのか。
(もし、彼がこのまま悪魔にならなかったら……?)
(もし、私が暗殺なんてしなくても、この世界が平和なままでいてくれたら……?)
そんな甘い迷いが、心の底から澱のように湧き上がっては消えた。
だが、次の瞬間、茜の脳裏にあの光景が蘇る。
夕食の支度をしていたキッチン。唐突にすべてを奪い去ったあの眩すぎる光。そして、愛する夫と、息子の健太の笑顔が、音もなく灰となって消え去っていく悪夢。
――ダメだ。
迷っている暇などない。
茜は握りしめたナイフの柄に力を込め、冷酷な光をその瞳に宿した。
「たとえ、あなたがどんなに愛らしくても……私の家族を脅かす存在であるなら、私は迷わずあなたを殺す」
それは母としての慈悲と、母としての狂気が入り交じた、血よりも重い誓いだった。
アルスが五歳を迎える夜――それが、すべてに決着をつける運命の夜となる。
カウントダウンは、着実に、そして冷酷に進んでいた。
第5話「黒い影」をお読みいただきありがとうございました!
アルスの身に起きる異変と、乳母として接する中で揺れ動く茜の母心、そしてそれを断ち切る強い決意を描いてみました。
次回、第6話「五歳の夜」では、ついについに運命の暗殺決行の夜が訪れます。激しい死闘の幕開けを、ぜひお楽しみに!よろしければブックマークや評価、感想をよろしくお願いいたします!




