第2話:母の決断
第1話をお読みいただき、ありがとうございます!
平凡な主婦から一転、未来の勇者暗殺を言い渡された茜。常軌を逸した現実に直面し、彼女が下す決断とは――?
母としての執念が、ここから牙を剥きます。
「断る」
石造りの冷たい地下室に、茜の毅然とした声が響いた。
ミリアンダが怪訝そうに仮面の眉間をひそめる。
「……なんですって?」
「だから、断ると言ったのよ。そんなの、わたしの知ったことじゃないわ。未来の勇者がどうとか、世界が滅びるとか、そんな壮大な話、迷惑よ」
茜は身体を震わせながらも、はっきりとそう言い放った。
二十歳に若返ったとはいえ、内面は三十六年間、普通の主婦として生きてきた人間だ。血を流すこと、ましてやまだ見ぬ赤ん坊を――たとえそれがどんな運命を背負っていようとも、子供の命を奪うことなどできるはずがなかった。
「ふざけないで。夕飯の支度途中だったのよ。夫と息子が待っているの。早く元の世界に戻しなさいよ!」
声を荒らげる茜に対し、ミリアンダは冷ややかに鼻を鳴らした。
「戻す? 笑わせないでください。あなたをここに呼び出したのは、我がギルドの秘術ではありません。この世界の理が、あなたという『異物』を特異点として選び取ったのです。私どもにも、送り返す力などありませんよ」
「そんな……!」
「それに、拒絶する権利があなたにあるとでも?」
ミリアンダが指を鳴らすと、周囲を取り囲んでいた黒ずくめの暗殺者たちが一斉に殺気を放った。肌を刺すような重苦しい圧力が、茜の身体を押しつぶそうとする。
「あなたがここで暗殺を拒み、この地下室で朽ち果てようとも、二年後には勇者が生まれ、そして悪魔となり、すべてが滅びます。もちろん――あなたが命よりも大切だと言い張る、あの世界の家族も含めてね」
ぐっ、と茜の喉が詰まった。
脳裏に浮かぶのは、夕方のキッチン。今日のおやつの芋けんぴをねだる健太の笑った顔。疲れた顔で「ただいま」と帰ってくる夫の姿。
あの温かな家庭が、あの愛おしい日常が、跡形もなく消え去る?
自分のせいで、あの二人が――?
「……卑怯よ」
茜の唇が小さく震えた。
「なんとでも言いなさい。これが現実です。世界を救うため、そしてあなたの家族を守るため、選ぶ道は一つしかない」
ミリアンダは懐から、冷たく鈍く光る一本の短刀を取り出し、茜の足元へと放り投げた。
カラン、と寂しい金属音が地下室に響く。
「暗殺ギルド『カナリア』の訓練は過酷を極めます。生き残れる確率は半分以下。それでも、やる気があるならその刃を取りなさい」
暗殺者たちの視線が、一斉に茜に注がれる。
逃げ場などない。助けを呼べるわけもない。
平凡な主婦である茜に残された選択肢は、絶望の中で座して死を待つか、あるいは泥にまみれて牙を剥くかの二つに一つしかなかった。
(……ふざけないでよ)
茜の中で、何かが音を立ててパキリと割れた。
穏やかだった主婦の心が、底知れぬ黒々とした感情に塗りつぶされていく。
夕飯の時間を奪われ、家族を人質に取られ、見ず知らずの世界の都合に巻き込まれ――。
怒り。それは狂気ではなく、純粋すぎる母の怒りだった。
夫と息子を脅かすものなら、神様だろうが未来の勇者だろうが、地獄の底まで追い詰めて叩き潰してやる。主婦をナメるな。毎日の献立や家計のやり繰りで培ったこの執念を、ナメてもらっては困る。
茜はゆっくりと膝をつき、足元に転がる冷たい短刀をその手で掴み取った。
ずしりと重い金属の感触が、手のひらに伝わる。
「……やってやろうじゃないの」
茜は血走った瞳を上げ、ミリアンダをまっすぐに見据えた。
「ただし、条件があるわ。私がこの任務をやり遂げたら――絶対に、元の世界に帰しなさい。私の家族の元へ、無事に送り返しなさいよ」
その凄まじい気迫に、さすがのミリアンダもわずかにたじろいだ。
「……いいでしょう。生きて戻ることができれば、ね」
こうして、三十六歳の主婦・宮内茜の、命を削る過酷な暗殺者としての生活が幕を開けたのだった。
第2話「母の決断」をお読みいただきありがとうございました!
「家族を守るためなら、主婦はどんな修羅だて辞さない」という茜のブチ切れ覚悟回でした。ここから彼女がどう狂気的な訓練を乗り越えていくのか、次回第3話「一年の狂気」もぜひお楽しみに!
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