第1話:三十六歳、主婦、異世界へ
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平凡な主婦が異世界に召喚され、色々あって裏切られ、最終的に暗殺ギルドごと王国を乗っ取りにかかるお話です。
主婦力(サバイバル力・家事・底力)を全力で勘違い&無双に活かす主人公・茜の活躍を、ぜひ最後までお楽しみください!
ジューッという香ばしい音が、静かなキッチンの空気を満たしていた。
フライパンの上で、豚の生姜焼きが美味しそうな焦げ目をまとっていく。千切りにしたキャベツを皿に盛り、トマトを彩りよく添える。
「ふう……」
宮内茜は、小さく息をついてエプロンの裾で額の汗を拭った。
三十六歳。世間一般で言えば、ごくありふれた主婦だ。
特別な才能なんてない。学生時代に誇れるような部活の成績を残したわけでもなければ、華やかなキャリアがあるわけでもない。ただ高校を卒業して事務職として数年働き、社内恋愛の末に結婚。そして一児の母となり、夫と息子のために毎日せっせとスーパーの特売品を買い回り、家事と育児に追われる日々を送ってきた。
「ただいまー!」
玄関の扉が勢いよく開き、小学四年生の息子・健太がランドセルを放り投げるようにして帰ってきた。
「手洗いうがいしなさいって、何回言ったらわかるの」
「はーい……って、やったよ! それより母ちゃん、今日のおやつなに?」
「今日は芋けんぴよ。ほら、手を洗いなさい」
そんな、どこにでもある当たり前の日常。
夫が帰り、家族三人で食卓を囲み、今日の出来事を笑い合いながら夕食を食べる。テレビのニュースで流れる世界情勢を「物価が高くなって嫌ねえ」などと他人事のように呟きながら、平穏な明日が来ることを微塵も疑わずに過ごす――それが茜の世界のすべてだった。
フライパンを洗い終え、食器を食洗器に詰め込んでいる時だった。
――突然。
キッチンの蛍光灯が、狂ったように激しく明滅した。
「え……?」
地震でも起きたのだろうか。茜が反射的に身構えた瞬間、視界のすべてが眩すぎるほどの純白の光に飲み込まれた。
音すらない。重力すら消え去ったような浮遊感。目が眩み、呼吸の仕方もわからなくなるほどの圧倒的なエネルギーが、茜の体を内側から突き破るように駆け巡る。
(――なんなの、これ……!?)
叫ぼうとしても、声は喉の奥でかき消された。
夫の顔が浮かんだ。健太の笑顔が浮かんだ。
(夕飯、まだ残ってるのに……。明日のお弁当の準備、まだなのに……っ!)
強烈なめまいに襲われ、茜の意識はそこでプツリと途切れた。
「――おや、意識が戻ったようですね」
冷たく、それでいてどこか硬質な女性の声が響いた。
重かった瞼を、茜はゆっくりと持ち上げる。蛍光灯の白い光ではなく、赤黒く揺らめく不気味な炎が視界に飛び込んできた。
「ここは……?」
起き上がろうとして、茜は自分の体に違和感を覚えた。
いつもなら、夕方の立ち仕事でピリピリと痛むはずの足腰の重だるさがない。十代の頃から悩まされていた肩のコリも嘘のように消え去っていた。それどころか、自分の腕が妙に細く、滑らかで、若い。
「ようこそ、カナリアへ」
声のした方に顔を向けると、そこには床一面に描かれた複雑怪奇な魔法陣と、それを囲むように立つ数人の人影があった。
全員が全身をすっぽり包む黒ずくめのローブを纏い、顔には不気味な仮面をつけている。その中心に立つ、ひときわ威圧感を放つ女性――仮面の隙間から覗く鋭い眼光の持ち主が、冷ややかな笑みを浮かべていた。
女性の名はミリアンダ。彼女はこの暗殺者ギルド『カナリア』の責任者だという。
「な、になんですか、ここ……! あなたたちは……?」
混乱しながら茜が問うと、ミリアンダはフッと鼻で笑った。
「驚くのも無理はありません。あなたは別の世界から、我が『カナリア』の拠点へと召喚されたのですから」
「べ、別の世界……? わたしは夕食を作っていて……夫と息子が……!」
「家族のことですか? 残念ですが、あなたを元の世界へ戻す術はありません。そして、あなたを選んだのは我々ではなく、この世界の理です」
ミリアンダは冷徹に、淡々と語り始めた。
これから語られる内容は、常軌を逸した、あまりにも残酷な現実だった。
「二年後。この世界の中央に位置する大国、クタバレ王国に一人の赤子が生まれます。その名はアルス。彼は、この世界を絶望の淵へと叩き落とす『勇者』として生れ落ちる運命にある」
「ゆ、勇者って……世界を救う英雄じゃないんですか……?」
「とんでもない。予言によれば、その勇者は世界を救うどころか、五割の確率で『悪魔』へと変貌する。ひとたび彼が魔王の如き悪魔となれば、クタバレ王国のみならず、この世界すべてが灰燼に帰すでしょう。いいえ、あなたのいた世界と地続きであるこの次元そのものが消滅するかもしれない」
理不尽な現実の押し売りに、茜は言葉を失った。
自分は何の関係もない。ただの主婦だ。家事をして、子育てをして、夫を支えていただけの、どこにでもいる人間だ。なぜそんな重荷を背負わされなければならないのか。
だが、ミリアンダの次の言葉が、茜の思考を完全に凍りつかせた。
「悪魔となった勇者の暴走は、世界全体の滅びを意味します。つまり――あなたの愛する夫も、愛する息子も、あの世界にいるすべての人間が、例外なく死に絶えるのです」
「……っ!」
息が止まった。
家族が消える。健太の笑顔が、夫の温もりが、あの温かなリビングルームが、跡形もなく消え去る?
そんなの、絶対に許されない。
「だからこそ、我々は先手を打たなければならない」
ミリアンダは一歩、茜に歩み寄り、その冷たい仮面をさらに近づけた。
「――あなたに暗殺してほしいのです。まだ生まれてもいない、未来の勇者を」
石造りの地下室に、蝋燭の炎がパチパチと音を立てて燃え盛る。
二十歳そこそこに若返ったその体は、震えていた。
平凡な主婦・宮内茜の、泥沼のような異世界生活と、血塗られた戦いの幕が、こうして音もなく切って落とされたのだった。
第1話「三十六歳、主婦、異世界へ」をお読みいただきありがとうございます!
夕食の支度をしていたらいきなり異世界へ連れていかれ、「これから赤ん坊を暗殺しろ」と言われるという、主婦にとって最悪の夕方から物語がスタートしました。
二十歳に若返りはしたものの、中身は叩き上げの主婦。ここから彼女がどう狂気的な強さを身につけていくのか、ぜひ見守っていただけますと幸いです。




