Episode 46:霧の中の道しるべ
星うさぎの形をした雲の船は、淡い紫色の霧の中を静かに進み続けていた。
しかし、一行が気づいたときには、すでに周囲を取り囲む霧の濃度が明らかに増していた。さっきまで遠くまで見通せていた美しい紫の霞が、まるで世界が大きく息を吸い込んだかのように、濃く、重く、船全体を包み込み始めていたのだ。
最初にその異変に気づいたのは、船頭に立つモコだった。
「……あれ? なんか、霧が急にすっごく濃くなってきた……。モコ、どっちに進めばいいのか方向がわからなくなってきたよ……」
モコの声に少し慌てた色が混じる。それに伴い、雲の船の進行速度が徐々にゆっくりになっていった。足元に広がるはずの雲の床が、まるで独自の意思を持つ生き物のようにふわふわと落ち着かなく揺れ、乗っている者たちの方向感覚を容赦なく奪っていく。
ノワールは船の縁に鉄の手をかけたまま、無言で周囲の深い霧を見回した。
地上の霧とはわけが違う。記憶が形を持つというこの領域において、ここでは旅人の心の不安や揺らぎが、そのまま霧の濃度に反映されているのではないだろうか。
そう思考を巡らせたとき、ノワールは遠くから聞こえていたはずの仲間の声が、急に遠のいていくような奇妙な感覚に襲われた。
ピクシーたちの元気な声が、まるで遥か遠くにある分厚い壁の向こうから聞こえてくるように弱々しくなり、モコの声も、ジグの呟きも、セレンの美しい鈴の音さえも、次第に目の前の濃い霧へと無音で吸い込まれていく。
その鈴の音が完全に消え去る直前、セレンの鈴は霧の圧力に逆らうように、一度だけチリンと澄んだ拒絶の音を響かせた。
ティアが夜の闇に消えてしまったあの時も、こうやってあの子の声がどんどん遠くなっていった。また、俺は守るべきものを失ってしまうというのか。
そう自問した瞬間、黒鉄の胸の奥で、かつて自身で激しく傷つけた星槽のひび割れが、疼くように微かに痛んだ。そこは、ノワールが絶望し、自分という存在を否定した時だけ深く傷つく呪いの場所だった。霧の中に潜む正体不明の不安が、無意識のうちに彼の過去のトラウマを刺激している。
「……みんな、声が急に聞こえにくくなっている。お互いの位置を、できるだけ近くに寄せるんだ……」
ノワールは声を押し殺して低く警告したが、それを嘲笑うかのように霧は容赦なく濃さを増し、視界は一メートル先すら見えない暗紫色の闇と化していた。足元はふわふわと不安定で、どちらが前で、どちらが後ろなのかさえ、もはや誰にも判別できなくなっていった。
そんな絶望的な沈黙の中、意外な声が、ノワールのすぐ背後からはっきりと響き渡った。
「……こわい……。でも、みんなが一緒にいるから……。わたし、みんなの声がちゃんと聞こえるよ……!」
小さな、しかし芯のあるはっきりとした声だった。ノワールは思わず、その声の主であるミルフィの方を勢いよく振り返った。
「……ミルフィ。今、他の誰よりもお前の声が一番はっきりと届いた」
驚きを隠せないノワールの言葉に、当のミルフィ自身も、自分の声が霧を突き抜けたことに少し驚いた様子で、きゅっと身体を縮めた。
「えっ……? わ、わたし、こんなに大きな声を出したつもりは……。でも……みんなを助けたい、ティアお姉ちゃんに会いたいって強く思ったら、わたしの声が霧に負けなくなったみたい……」
ノワールは兜の奥で、胸の奥底で静かに頷いた。ミルフィの声が、この濃霧の道しるべになっている。この小さな子もまた、ティアのために変わろうとし、強くなろうとしているのだ。
少し離れた場所から、セレンが自らの鈴を懸命に鳴らしながら、霧の障壁の向こうへ声を届けさせようとした。
「みんな、こちらです……。私の歌に、どうか耳を澄ませてください……!」
聖なる鈴の音と歌声は深い霧に阻まれ、完全に霧を晴らすまでには至らなかったが、それでも暗紫色の世界に、微かな光の筋が一瞬だけ矢のように生まれた。
その光の筋が生まれた瞬間、ノワールの肩の上で、ユウの翅に刻まれた魔導文字が謎の共鳴を起こし、かすかに揺らいだ。ユウは自分に起きた変化の理由が分からないように、小さく身じろぎする。
ジグは新装置を両手で必死に抱えながら、目の前を浮遊する霧の粒子を観察し、理系の人間としての焦りを隠せない様子で唸った。
「クソッ、理屈が通じない……! だが、確かにここには精神的な法則があるはずだ……。俺たちの記憶の揺らぎや不安が、この霧の濃度を決めているのかもしれないな……!」
モコは船の形状と浮力を必死に維持しながら、みんなを鼓舞するように明るい声を張り上げた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ……! みんな一緒だからね! モコがちゃんと船を動かしてるから、みんなはモコを信じて!」
そんな喧騒の中、ノワールの膝の上で丸くなっていた星うさぎが、突然弾かれたように身体を起こした。星うさぎは、何も見えないはずの濃い霧の奥の奥をじっと見つめ、短く鋭く鳴いた。
「きゅう!」
そのままノワールの膝から深い霧の中へと飛び降りようとしたが、ノワールは持ち前の反射神経で即座に太い鉄の手を伸ばし、そのふわふわとした身体を優しく抱き留めた。
「……お前、この霧の向こうにある正しい道を知っているのか?」
星うさぎはノワールの腕の中で、拒絶するのではなく、霧の奥の特定の方向に向かって小さく愛らしく身体を震わせた。
その無垢な姿を見たとき、ノワールは胸の奥で、静かに、しかし絶対の確信を持って強く思った。
ティアのことだ。たとえ一人で天星界へ還ろうとしていたとしても、この寂しい霧の海で、きっとこの星うさぎのように、誰か優しい生き物と仲良くなって一緒に前を向いているはずだ。あの子はそういう優しい人間だ。
ノワールが抱いたその強い信頼と確信が引き金となり、彼の胸の星槽の奥で、銀白色の光が今までになく淡く、力強く輝いた。
するとその瞬間、ミルフィの声だけが、霧の中で他の誰の声よりもはっきりと、遥か遠くまで美しく響き渡った。
「……いま、霧の奥から誰かが呼んだ気がしたの……。すごく優しい声が聞こえた……よね? ノワール……!」
ノワールは、星うさぎが示す霧の奥を見つめながら、低く、確信を込めて呟いた。
「……ああ、ミルフィ、俺にも確かに聞こえた。それに、お前の声だけが、この忌々しい霧に吸い込まれずに真っ直ぐ届いているようだ。お前のその声を……今は俺たちの道しるべとすることにしよう」
ミルフィの、純粋で不安を振り払おうとする力強い声は、霧の粒子を優しく震わせ、ノワールの星槽から放たれる銀白色の微かな光と完璧に共鳴した。
すると、視界を閉ざしていた暗紫色の霧の中に、微かな光の筋が一本、ゆっくりと、けれど厳かに現れ始めた。それはまるで、彼らを導く光の道のようだった。
「えっ……? わたし、こんなに声が……みんなに、届いてる……?」
自分の声が起こした奇跡に驚くミルフィに対し、ノワールは、その光の筋を指差し、モコに向かって力強く合図を送った。
「モコ! あの光の差す方向へ船を進めるんだ!」




