Episode 45:心の大切な記憶
星うさぎの形をした雲の船は、順調に淡い紫色の霧海をゆっくりと進んでいった。
うさぎの耳のような雲の突起が左右に優しく揺れ、丸い尻尾部分が波打つようにプカプカと動いている。
船内はピクシーたちがくり抜いた星型の窓から柔らかい光が差し込み、敷き詰められた雲のクッションはどこまでもふかふかだった。まるで空の上に浮かぶ極上のベッドに乗っているかのようだ。
星うさぎはノワールの膝の上にすっかり落ち着き、「きゅう……」と満足そうな声を上げながら、そのふわふわの身体を親密そうにすり寄せていた。ノワールは重厚な兜をわずかに下げ、無言のまま鋼の手でその小さな身体を優しく撫でていた。
は船のあちこちを元気に飛び回りながら、楽しそうに雲の船のアレンジを加えていた。
(赤)「この耳の部分、もっと大きくしたら風を切って速くなりそうだよ!」
(青)「星の窓、もっとたくさん増やそうよ! 光がいっぱい入るように!」
(黄)「雲のクッション、もっともっとふかふかにしちゃおう!」
(緑)「星うさぎちゃんの尻尾、みんなで揺らして遊ぼうよー!」
モコは船の先頭で大きな身体をゆったりと揺らしながら、楽しそうに笑った。
「みんな、すっごくはしゃいでるねー。モコも見ていて嬉しいよ!」
霧は優しく船を包み込み、時折、風にのって遠くから誰かの楽しげな笑い声のようなものが幻聴のように聞こえてきた。
そのとき──ノワールの肩に留まっていたユウの半透明の翅が、霧の揺れに合わせて“ほんの一瞬だけ”淡く脈動した。しかし、ユウ自身はその変化に気づいていないようで、ただ静かに翅を閉じて前方を見つめている。
同じく、船の後方で静かに仲間たちを見守っていたセレンの腰の鈴が、風もないのにかすかに“揺らぎの違う音”を一度だけチリンと響かせた。セレンは不思議そうに首を傾げたが、すぐにいつもの穏やかな微笑みを浮かべて深い霧を見つめ直した。
すると、ノワールの視界に、ぼんやりと懐かしい「幻」が浮かび上がり始めた。
最初に現れたのは、が初めて自分たちの後を追いかけてきた、旅の始まりの朝の記憶だった。
あの頃のノワールは、「ただの騒がしい通りすがりの妖精だ」としか思っていなかった。邪魔にならなければそれでいい、自分には心など必要ない、と心を閉ざしていたのだ。
しかし今、目の前でキラキラと輝くその幻を眺めながら、ノワールは兜の奥で静かに息を吐いた。
(……そう言えば、たちは、最初に出会った時は三姉妹だったな。騒がしいだけの生き物だと思っていたが……。ティアが真っ先に仲良くならなければ、天星界への近道を知ることも、かつて離れ離れになっていたピクシー(緑)の存在を知る由も無かっただろう)
(そして、俺一人だったなら、わざわざ探してやる事も無かったはずだ。それがいつの間にか……彼女たちの明るい笑い声が、こんなにも、俺たちの旅の確かな道しるべになっていたんだな)
ノワールは静かに、船の中で楽しそうに飛び回る現在の四姉妹の姿をそっと見つめた。
次に現れた幻は、ミルフィが初めて自分の肩にぴょんと飛び乗ってきた瞬間だった。
あの頃のノワールは、「ティアはすぐに可愛いと気に入ったが、他の魔獣や生き物に比べて、ただ身体が小さいだけの無力な生き物」だと思っていた。守るべき絶対の対象ではなく、旅のただの添え物に過ぎない、と。
しかし今、その幻を眺めていると、冷たいはずの黒鉄の胸の奥がじんわりと温かくなるような感覚がした。
(……あの頃は、ただの小さな生き物でしかなかった。ミルフィ。お前は、出会ってすぐ俺の肩に乗ってくれたんだったな。異形の姿ゆえに村人たちからもあれほど怖がられた、この呪われた漆黒の肩に。……一体いつから、この子の穏やかな寝息が、俺の肩に何にも代えがたい安心を与えてくれるようになっていたのだろうか)
ノワールは、膝の上で丸くなっている星うさぎの背中を、より一層愛おしそうに優しく撫でた。
さらに幻は、彼らの旅の軌跡を辿るように次々と移り変わっていく。
里の境界の内側から温かい言葉をかけてくれたルリアの姿、双子のルカとモコが一緒に無邪気に遊んでくれた草原の穏やかな午後、ジグが汗だくになりながら装置を調整して不敵に笑った熱い夜、セレンが美しい鈴の音で皆の不安を優しく包み込んだ清々しい朝──。
当初のノワールは、どれも「ただの通りすがりの存在」に過ぎないと思っていた。老魔導師が自分という器を作った唯一の存在理由である、ティアさえ守れたらそれでいい。他人と交わる心など、自分には必要ないのだと。
しかし今、それらの幻を一つ一つ愛おしそうに眺めながら、ノワールは静かに目を細めた。
(……いつの間にか、これら全てが、俺の生涯で最も大切な記憶になっていたんだな。ティアと出会う前の孤独だった俺には、絶対に考えられなかったことだ)
そして、最も多く、ノワールの心の中に最も強く激しく浮かび上がってきたのは──やはり、ティアとの全ての思い出だった。
初めて鎧に魂が宿った夜、ティアが『えへへ、おじさん、あったかいよ』と無邪気に笑って抱きついてきた瞬間。一緒に星蜜のパンを美味そうに分け合った眩しい朝。里の門の前で『今日こそ元気に行くよ!』と小さく手を振った愛らしい姿。光虫の谷で無数の光に包まれながら『ずっとこうして輝いていられそう』と寂しげに、けれど綺麗に笑ったあの夜──。
(……ティア。お前と出会った時、俺は本当に魂の抜けた、ただの冷たい『彷徨う鎧』だったんだな。心などどこにもないと思っていた。なのに、お前は……俺の閉ざされた胸に、こんなにもたくさんの温かな光を灯してくれた。今、お前と紡いだこれらの記憶こそが、俺にとっても、この世界で一番大切な宝物になっている……!)
膝の上の星うさぎが、ノワールの感情の揺らぎを察知したのか、耳をぴくぴくさせながら不安そうに「きゅう……?」と小さな声を上げた。ノワールは我に返り、優しくその頭を撫でながら、低く静かに呟いた。
「……大丈夫だ。案ずるな、これはただの記憶の幻だ。本物のあの子は、まだこの霧の先にいる」
雲の船がさらに奥へと進むにつれて、周囲の紫色の霧の濃度が徐々に、確実に増していった。
幻が現れる頻度が高くなり、遠くで聞こえる懐かしい人々の声も、少しずつはっきりと現実味を帯びて響き始めていた。
先ほどまではしゃいでいたが少しずつ静かになり、ノワールの肩の上のミルフィも「にゅう……」と不安げに鳴いて身体を小さく縮める。
ノワールは兜の奥で静かに目を細め、行く手の深い霧を睨み据えた。
(……この霧は、ただ優しく旅人の記憶を映し出しているだけなのだろうか。それとも、天星界を訪れる者の覚悟を……試しているような気がしてならない)
星うさぎの形をした雲の船は、それぞれの心の大切な記憶を乗せて、淡い紫色の霧海をゆっくりと、しかし確実に、さらなる深淵へと進んでいった。




