第6話 笑顔で毒を盛る女たち
藤尾の方の部屋へ向かう廊下は、いつもより騒がしかった。
騒がしい、といっても大奥である。男たちの屋敷のように怒鳴り声が飛ぶわけではない。走る足音も、悲鳴も、極力布で包まれている。
だが、静かに乱れていた。
それがかえって恐ろしい。
女中たちは顔を伏せ、袖で口元を隠し、急ぎ足で行き交う。薬湯を運ぶ者、湯を張った手桶を持つ者、誰かを呼びに行く者。その誰もが、こちらへ目を向ける一瞬だけ、同じことを考えている顔をした。
篠乃井紗代。
あの新入りが、何かしたのではないか。
「見ないでほしいですね」
思わず呟くと、隣の千鳥がぎょっとした顔をした。
「今、それ言う?」
「言いたくなりました」
「言わないで。声に出したら負けるから」
「では、心で言います」
「顔にも出さない」
「難しいですね」
「難しくてもやるの」
千鳥は私の袖を掴んだまま、ほとんど引きずるように歩いている。
藤尾の方付きの志津は、数歩先を進んでいた。足取りが乱れている。普段は藤尾の方の威を借りて、私たち御末の女中など見下ろすような目をする女だが、今はその余裕がない。
「志津さん」
私は呼びかけた。
志津は振り返らずに答えた。
「何です」
「藤尾様は、何を召し上がったのですか」
「菓子です」
「どのような」
「葛に、蜜をかけたもの。あと、練り切りを少し」
「どなたが運びましたか」
志津の足が一瞬止まった。
それから、こちらを振り返った。
目が険しい。
「あなたの名札があったと言ったでしょう」
「名札は名札です。人ではありません」
千鳥が横で小さく「言い方」と呟いた。
志津は唇を噛んだ。
「御膳場から届きました。盆には、篠乃井と」
「字は、どなたの字でしたか」
「そんなもの、見ているわけないでしょう!」
声が少し大きくなった。
廊下の女中たちがこちらを見る。
志津は慌てて口を押さえたが、もう遅い。
千鳥が低い声で囁いた。
「紗代、今は聞きすぎないで」
「今聞かないと、後で消えます」
「何が」
「記憶です」
人は、騒ぎの最中に見たことを、あとで都合よく変える。
自分を守るために。
誰かに合わせるために。
あるいは、怖くなったために。
だから、今聞くしかない。
藤尾の方の部屋に近づくと、甘い匂いがした。
濃い香に混じる、蜜の匂い。
それから、薬草の苦み。
部屋の前には数人の女中が控えていた。皆、顔色が悪い。誰かが私に気づき、すぐに視線を逸らした。
こういう時、人は見たいものから目を逸らす。
犯人だと思う相手を見るのが怖いのか。
それとも、犯人ではないかもしれない相手を疑っている自分が怖いのか。
志津が襖の前で膝をついた。
「篠乃井を連れて参りました」
奥から、低い声がした。
「入れなさい」
松ヶ枝だった。
私は千鳥と顔を見合わせた。
千鳥の目が言っている。
最悪。
私も同感だった。
襖が開く。
部屋の中央で、藤尾の方が脇息にもたれていた。
顔色は悪い。唇の紅も薄く見える。額には汗がにじみ、胸元を押さえる手が白くなっていた。
けれど、目は死んでいない。
むしろ、怒りで光っている。
藤尾の方のそばには、松ヶ枝が座っていた。背筋を伸ばし、場を収めようとしている顔。さらに奥に、御膳場の女たちが二人控えている。
そして、部屋の隅に一人。
ふくよかな女がいた。
丸い頬。柔らかな目元。年は四十に近いだろうか。濃い茶の小袖を着て、手には白い布を持っている。表情は心配そうなのに、どこか満ち足りて見える女だった。
御膳係のお柳。
名を聞いたことがある。
大奥の女たちの好物、苦手な物、薬の具合、月の巡り、すべてを覚えている女だと。
人の腹を握る者は、人の命を握る。
千鳥が前に言っていた言葉を思い出した。
「篠乃井」
藤尾の方が私を呼んだ。
声はかすれていた。
「はい」
「私を殺したかったの?」
部屋の空気が固まった。
あまりにも直截だった。
私は深く頭を下げた。
「いいえ」
「母親の仇のつもりで?」
「いいえ」
「嘘」
藤尾の方は笑った。
苦しげな笑いだった。
「あなたは、私を憎んでいる。私がその簪を挿しているから」
彼女は髪に触れようとして、手を止めた。
そこで私は気づいた。
簪がない。
いつも髪に挿されていた、銀の桔梗。
母の簪が、そこにない。
「藤尾様」
私は思わず顔を上げた。
「簪は」
藤尾の方の顔が歪んだ。
松ヶ枝の目が鋭くなる。
「篠乃井。今は簪の話ではありません」
「いえ、関係があります」
「何が」
「藤尾様は、いつもあの簪を挿しておられました。今はありません。いつ外されましたか」
藤尾の方の呼吸が乱れた。
「知らないわ。苦しくなって……気づいたら」
「志津さん」
私は志津を見た。
「藤尾様がお苦しみになった時、簪はありましたか」
「そんなこと、覚えて」
「覚えてください」
志津が怯えたように松ヶ枝を見た。
松ヶ枝は何も言わない。
沈黙の許可だ。
志津は震える声で答えた。
「……ありました。最初は、確かに。私が藤尾様の背を支えた時、髪に当たって」
「では、その後に消えた」
部屋の中で、誰かが息を呑んだ。
藤尾の方の目が、私を射抜く。
「あなた、何を言いたいの」
「藤尾様に菓子を召し上がらせ、私の名札を使い、さらに簪を消した者がいます」
「簪まで、あなたが盗むつもりだったのでしょう」
「盗むなら、この騒ぎの前に盗みます」
「生意気な口を」
藤尾の方が身を起こそうとして、胸を押さえた。
お柳がすっと近づいた。
「藤尾様、どうかお静かに。お身体に障ります」
声は柔らかい。
煮含めた大根のように、どこまでも柔らかい声だった。
藤尾の方は、お柳を睨んだ。
「お柳。あの菓子は何だったの」
「いつもの葛菓子でございますよ。藤尾様は、近頃あまり召し上がられませんでしたから、喉越しのよいものをと思いまして」
「毒を盛ったの?」
藤尾の方が問う。
お柳は目を丸くした。
「まあ、恐ろしいことを」
白々しくはない。
むしろ、心底傷ついたように見える。
だからこそ怖かった。
「御膳場で人様のお口に入るものを扱う者が、毒など。藤尾様、私がそのような女に見えますか」
「女は、見える通りのものではないわ」
「それはもう、大奥で長く勤めておりますから、存じております」
お柳は静かに笑った。
その笑みに、私は嫌なものを感じた。
この女は、藤尾の方の怒りを怖がっていない。
松ヶ枝の目も。
私への疑いも。
何もかも、すでに口の中で転がして味わっているような顔をしている。
「お柳様」
私は声をかけた。
お柳がこちらを向いた。
「様など、いりませんよ。私はただの御膳係ですもの」
「では、お柳さん」
「はい」
「藤尾様の菓子は、いつ御膳場を出ましたか」
「巳の刻を少し過ぎた頃でしょうか」
「どなたが用意を?」
「私どもで。とはいえ、大奥の御膳場は一人で動くところではございません。水を汲む者、器を出す者、蜜を煮る者、名札を添える者、それぞれおります」
「名札を添えたのは?」
お柳は少し考えるような顔をした。
「さあ。誰でしたかしら」
千鳥が小さく舌打ちした。
お柳は聞こえていないふりをした。
「年を取ると、物忘れが増えましてね」
「お柳さんは、人の好物を決して忘れないと聞きました」
「まあ、誰がそんなことを」
「千鳥です」
「ちょっと!」
千鳥が跳ねた。
部屋の視線が千鳥へ集まる。
お柳はにこにこと笑った。
「千鳥さんは、私をよく見ているのですね」
「見てません」
「そうですか。私はあなたの好物も覚えておりますよ。甘い卵焼きが好きでしょう。けれど、人前では好きではないふりをする」
千鳥の顔が赤くなった。
「今その話、関係あります?」
「ありますとも」
お柳は言った。
「人は、好きなものを隠す時が一番無防備になります。嫌いなものを聞くより、好きなものを知る方が、その人をよく分かる」
その言葉に、背筋が冷えた。
この女は食を通して、人を見ている。
何を食べるか。
何を避けるか。
誰が誰のために菓子を残すか。
誰が薬湯を飲んだふりをして捨てるか。
大奥の秘密は、文や噂だけではない。
膳の上にも積もっている。
「篠乃井さん」
お柳が私を見た。
「あなたは、何が好きですか」
「今は、真実です」
お柳の笑みが深くなった。
「あら、食べられないものがお好きなのですね」
「腹には溜まりませんが、喉にはつかえます」
藤尾の方が、かすかに笑った。
この状況で笑ったのは、おそらく彼女だけだった。
「本当に、口だけは母親譲りね」
「藤尾様」
松ヶ枝が制した。
その声には、焦りがあった。
「まずは、藤尾様のお身体を」
「私の身体より、この娘をどうにかしなさい」
藤尾の方は私を指した。
「この娘の名札があったのでしょう。なら、この娘が関わっている」
「私は御台様の御前におりました」
私が言うと、部屋が静まった。
この一言は強い。
少なくとも、菓子が用意された頃、私は御台所の部屋にいた。御台所付きの女中も見ている。完全な潔白にはならないが、菓子を直接扱った可能性は低くなる。
松ヶ枝が目を伏せた。
彼女もそれを分かっている。
「御台様の御前にいた者の名札を、なぜ御膳場の盆につけられたのでしょう」
私は言った。
「それは、私を犯人にしたかったからではありませんか」
「また問いで刃を抜く」
松ヶ枝が低く言った。
「刃を向けられておりますので」
「そなたは、場をわきまえなさい」
「わきまえた上で申し上げています。ここで私が黙れば、藤尾様を害した女として扱われます」
「黙っていればよかったのに」
藤尾の方が呟いた。
私は彼女を見た。
「私が黙れば、藤尾様も真の相手を見失います」
「私を心配しているつもり?」
「いいえ。藤尾様を害した相手が、母の簪を持ち去ったかもしれないので」
「正直ね」
「嘘が下手ですので」
「そこは母親と違うわ」
藤尾の方の顔に、皮肉な笑みが浮かんだ。
お柳が静かに割って入った。
「名札のことでしたら、御膳場を改めればよろしいのではございませんか」
「お柳さん自ら、それを仰るのですか」
「疑われるのは心外ですもの」
お柳は困ったように眉を下げた。
「それに、毒などと大げさな。藤尾様はお疲れが溜まっておいでだったのでしょう。甘いものを久々に召し上がって、少し胸がつかえただけかもしれません」
「ならば、なぜ薬湯を」
「念のためです」
「念のためで、この騒ぎですか」
「大奥では、念のためが命を救うこともあります」
お柳の笑顔は崩れない。
柔らかい。
どこまでも。
松ヶ枝が決断するように言った。
「御膳場を改めます。藤尾様はこのままお休みを」
「嫌よ」
藤尾の方が即座に言った。
「この娘を行かせなさい」
視線が私へ集まる。
「私を、でございますか」
「そうよ。自分の名札が使われたのだから、自分で見てくればよいでしょう」
「藤尾様、それは」
松ヶ枝が止めようとする。
だが藤尾の方は、弱っているとは思えない目で私を見た。
「篠乃井紗代。行きなさい。そして見つけてきなさい。私に何を食べさせたのか。誰があなたの名を使ったのか。誰が私の簪を盗んだのか」
「藤尾様は、私を疑っておられるのでは」
「疑っているわよ」
藤尾の方は、苦しそうに笑った。
「だから、自分で疑いを晴らしなさい。できなければ、母親と同じように汚名を着ればいい」
胸の奥が熱くなった。
千鳥が私の袖を掴む。
行くな、と言っている。
でも、行くしかない。
私は頭を下げた。
「承知いたしました」
「紗代」
千鳥が小声で呼ぶ。
「千鳥はここに」
「行くに決まってるでしょ」
「危険です」
「今さら?」
千鳥は半分泣きそうな顔で笑った。
「盆の味方なんだから、御膳場には行くわよ」
お柳がそのやり取りを見て、にこりと笑った。
「仲がよろしいのですね」
「よくありません」
千鳥が即答した。
「そうですか。仲がよく見える者ほど、いざという時に割れやすいものです」
「縁起でもないこと言わないでください」
「あら、ごめんなさいね」
お柳は謝った。
謝った顔で、少しも悪いと思っていない。
御膳場へ向かう間、私は廊下の匂いを意識した。
甘い葛蜜。
藤尾の方の濃い香。
薬湯。
その中に、どこかで嗅いだ草の匂いが混じっている。
苦い。
でも、ただの薬草ではない。
思い出せない。
「紗代」
千鳥が隣で囁いた。
「さっきから何してるの」
「匂いを覚えています」
「犬なの?」
「人です」
「知ってる」
「藤尾様の部屋に、御膳場の匂いとは別のものがありました」
「毒?」
「毒とは限りません。毒なら、もっと分かりやすく騒ぐかもしれません」
「詳しいの?」
「詳しくありません」
「じゃあ怖いこと言わないで」
「ただ、藤尾様は死なせるためではなく、騒ぎを起こすために苦しめられた気がします」
千鳥が黙った。
しばらく歩いてから、ぽつりと言った。
「殺すより、悪い時があるわよね」
「ええ」
「死んだら終わりだけど、生きて疑われるのは続く」
「母も、そうでした」
千鳥はそれ以上言わなかった。
御膳場に近づくと、匂いが変わった。
炊いた米。
味噌。
昆布。
薬草。
砂糖。
そして、人の焦り。
御膳場では、女たちが慌ただしく動いていた。
だが私たちが入ると、動きが一瞬止まった。
お柳はそれを見て、母親のような声で言った。
「皆、手を止めないで。藤尾様は落ち着いておられます。大事にしてはいけませんよ」
「はい」
女たちが一斉に動き出す。
けれど耳は、こちらへ向いている。
お柳は私を中央へ招いた。
「さて、篠乃井さん。何を改めますか」
「藤尾様へ運ばれた菓子の控えを」
「控えなら、そちらに」
お柳はすぐに棚を示した。
あまりにも素直だ。
千鳥が私の耳元で囁く。
「用意されてる感じがする」
「私もそう思います」
「じゃあ見るのやめる?」
「見ます」
「でしょうね」
控えには、確かに藤尾の方の名があった。
葛菓子。
練り切り。
蜜。
添えられた薬湯。
そして、運び役の欄。
篠乃井紗代。
私の名が、そこに書かれていた。
「……字が違います」
私は呟いた。
千鳥が覗き込む。
「何が」
「私の名です。私の字ではありません」
「当たり前でしょ。自分で書いてないんだから」
「いえ」
私は指で文字の横をなぞった。
「これは、私の字を真似ようとしています」
お柳の笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
「まあ。そうなのですか」
「篠の竹冠の払いが、私の字と似ています。でも、乃の曲がりが違います」
「よく見ますねえ」
「母が字に厳しかったので」
「お母様が」
お柳の声が、わずかに甘くなった。
「そういえば、篠乃井志乃様も、美しい字を書かれる方でした」
御膳場の音が一瞬だけ止まった。
私はお柳を見た。
「母をご存じなのですか」
「あら」
お柳は口元を押さえた。
「昔のことです。私も長く勤めておりますから、いろいろな方をお見かけします」
「母は、御膳場へ来たことが?」
「もちろん。藤尾様付きでしたからね。お好みの菓子や香の相談にいらしていました」
「母は、何を好みましたか」
唐突な問いに、千鳥がこちらを見た。
お柳は少し目を細めた。
「ご本人は、あまり甘いものを召し上がりませんでしたね」
「なぜ」
「人に出すものを先に味見すると、自分の欲が混じるから、と」
母らしい言葉だった。
胸が痛んだ。
お柳は続けた。
「でも、一度だけ、葛に黒蜜を少しつけたものを召し上がっていました。疲れておいでだったのでしょう」
「いつですか」
「さあ」
お柳は笑った。
「昔のことですもの」
「桔梗の夜ですか」
言った瞬間、御膳場が完全に止まった。
包丁の音も、湯の音も、器を置く音も。
お柳だけが、笑っていた。
「篠乃井さん」
「はい」
「大奥では、食べてよいものと悪いものがあります。同じように、口にしてよい言葉と悪い言葉もあります」
「では、これは悪い言葉なのですね」
「喉に詰まりますよ」
「もう、詰まっています」
お柳はじっと私を見た。
柔らかな目の奥が、少しだけ冷えた。
「お母様に、本当に似ておいでですね」
「よく言われます」
「似ている娘は、同じものを食べたがるのでしょうか」
「同じものとは」
お柳は答えなかった。
代わりに、別の棚から小さな紙束を取り出した。
「控えは、これだけではありません。こちらが、材料の控えです」
千鳥が警戒している。
私も同じだった。
だが紙を受け取って確認する。
葛。
砂糖。
黒蜜。
柚子。
そして、薬湯に使う草の名。
半夏。
陳皮。
甘草。
それから、見慣れない名。
「これは」
「胸のつかえを取る薬草です」
お柳はにこやかに言った。
「入れすぎれば、胸がざわつくこともありますが、毒ではございません」
「入れすぎたのですか」
「さあ。私は量を間違えません」
「では、誰が」
「篠乃井さん」
お柳は、困った子を見るような顔をした。
「御膳場では、疑い始めればきりがありません。水を汲んだ者が悪いのか、火加減を見た者が悪いのか、器を出した者が悪いのか、名札を添えた者が悪いのか。全部を疑えば、食事など出せなくなります」
「でも、誰かがやった」
「誰か、とは便利な言葉です」
お柳は笑った。
「犯人が分からない時、人は誰かと言います。けれど大奥では、その誰かが最後に一番弱い者の名になることが多い」
「つまり、私ですね」
「ご自分でそう思われるのですか?」
「思わされているのです」
千鳥が小さく息を呑んだ。
お柳は何も言わない。
だが、笑みが深まった。
私は材料控えをもう一度見た。
紙の端に、わずかに蜜がついている。
甘い匂い。
その下に、あの苦い草の匂い。
そして、もうひとつ。
香油。
昨日、私の小袖にこぼされた強い香と同じ匂いが、紙の端にわずかに移っていた。
「千鳥」
「何」
「昨日、私の小袖にこぼされた香油を覚えていますか」
「忘れるわけないでしょ。あれ、洗っても落ちなかったし」
「その匂いが、この紙にあります」
千鳥が控えに顔を近づける。
そして眉をしかめた。
「……ある」
お柳は静かに見ている。
「昨日、香油をこぼした者が、今日この控えに触れた可能性があります」
「それで?」
お柳が問う。
「香油をこぼしたのは、お吉様の周りの女中でした」
「では、その女中が犯人だと?」
「いいえ。そう思わせたいのかもしれません」
お柳の笑顔が、また少し変わった。
「慎重ですねえ」
「昨日から、慎重でないと死にそうなので」
「大奥は、そういう場所です」
その時、御膳場の入口から声がした。
「何を騒いでいるのです」
松ヶ枝が入ってきた。
志津も後ろにいる。
松ヶ枝の目はすぐに私の手元の控えへ向いた。
「何か分かりましたか」
「藤尾様の菓子には、毒ではなく、胸を乱す薬草が多く入れられた可能性があります」
「証は」
「材料控えに、その草の記載があります」
「それは通常の薬湯にも使います」
「はい。毒とは言えません。ですが、藤尾様の体調と合わせれば騒ぎを起こすには十分です」
松ヶ枝はお柳を見た。
「お柳」
「はい」
「量は」
「いつも通りでございます」
「いつも、藤尾様にこの薬草を?」
「近頃、胸のつかえを訴えておいででしたから」
「誰の指示です」
「藤尾様ご自身の体調を見て、私が」
お柳は迷いなく答えた。
松ヶ枝は黙った。
彼女の顔からは何も読めない。
「名札は」
松ヶ枝が問う。
お柳は少し首を傾げた。
「それが、私も分からず。気づいた時には篠乃井さんの名が」
「気づいた時とは」
「藤尾様がお苦しみになって、志津さんが盆を持ち込んだ後です」
志津が慌てて頷く。
「はい。私も、その時初めて」
私は志津を見た。
「志津さん。盆を運んだのは、あなたですか」
「ええ」
「御膳場から藤尾様の部屋まで、途中で誰かに会いましたか」
「そんなの、何人も」
「盆を置きましたか」
「置いてないわ」
「本当に?」
志津の顔が赤くなった。
「疑うの?」
「確認しています」
「置いてない。ずっと持っていた」
「では、名札は御膳場を出る時にはすでについていた」
「そうなるわね」
志津はお柳を見た。
お柳は悲しそうに眉を下げた。
「あら、私を疑っているのですか」
「い、いえ、そういうわけでは」
「よいのです。食べ物を扱う者は、いつでも疑われる覚悟が必要ですから」
それは殊勝な言葉だった。
だが、私はその言葉に引っかかった。
いつでも疑われる覚悟。
ならば、疑われた時の逃げ道も用意している。
お柳という女は、そういう女だ。
「松ヶ枝様」
私は言った。
「藤尾様の簪が消えています」
「それは聞いています」
「御膳場に、簪を包める懐紙はありますか」
「懐紙?」
松ヶ枝の目が細くなる。
お柳が静かに答えた。
「ございますよ。菓子を包むもの、薬草を分けるもの、いくらでも」
「見せていただけますか」
「もちろん」
お柳は棚から懐紙の束を出した。
白い紙。
何の変哲もない。
けれど、その一枚の端に、薄く桔梗の透かしが入っていた。
私は息を呑んだ。
「これは」
「古い紙です。今はあまり使いません」
お柳が言った。
「昔、桔梗の紋を好まれた方がいらしてね」
「誰ですか」
「さあ」
またそれだ。
さあ。
昔のことです。
忘れました。
この女は、覚えている。
覚えているから、忘れたと言う。
私は懐紙に顔を近づけた。
同じ匂いがする。
薬草と、甘い蜜と、香油。
「藤尾様の簪は、この紙に包まれた可能性があります」
「証は」
松ヶ枝が問う。
「今は匂いだけです」
「匂いでは証になりません」
「はい」
松ヶ枝の言葉は冷たい。
だが、完全には否定していない。
私は顔を上げた。
「ですが、探す場所は分かりました」
「どこです」
「私の荷です」
千鳥が目を見開いた。
「紗代」
「簪を消した者がいるなら、次は私の荷から見つかるはずです」
御膳場が静まり返った。
松ヶ枝が私を見る。
お柳の笑顔が、ほんの少しだけ消えた。
私は頭を下げた。
「先に申し上げておきます。私の荷から母の簪が見つかっても、私は盗んでおりません」
「先回りが過ぎます」
松ヶ枝が言った。
「先回りしなければ、母と同じになります」
その言葉に、松ヶ枝の表情がわずかに揺れた。
お柳はまた笑った。
「母上、母上と。お若い方は、母君が恋しいのですね」
「恋しいです」
私ははっきり答えた。
お柳の笑顔が一瞬だけ止まる。
「恋しいから、汚された名をそのままにできません」
「……強い子」
「強くありません。千鳥に何度も馬鹿と言われています」
「今それ言わないで」
千鳥が小声で抗議した。
場違いなその声に、松ヶ枝が咳払いをした。
「篠乃井の荷を改めます」
松ヶ枝が言った。
千鳥の顔が青くなった。
志津は震えている。
お柳は、にこにこと笑っている。
私たちは御末の部屋へ戻った。
廊下を歩く間、大奥中の視線が背中に刺さる気がした。
藤尾の方への菓子騒動。
紗代の名札。
消えた簪。
荷改め。
噂はもう走り出している。
女の足より速く。
声より静かに。
御末の間に戻ると、お吉たちが待っていた。
待っていないふりをしていたが、全員がこちらを見ていた。
松ヶ枝が告げた。
「篠乃井紗代の荷を改めます」
お吉の口元が、わずかに上がった。
勝ちを確信したような顔。
私はそれを見て、少なくともお吉は黒幕ではないと思った。
黒幕なら、もう少し笑わない。
私の文箱。
針箱。
畳んだ小袖。
洗い替えの帯。
母の懐紙は、肌身離さず持っている。
差出人不明の文も懐に移してある。
荷の中にはない。
だが、それだけでは足りない。
何かが入れられている。
私はそう確信していた。
松ヶ枝の命で、年嵩の女中が私の小袖を一枚ずつ開く。
何もない。
針箱。
何もない。
文箱。
何もない。
お吉の顔に、焦りが浮かんだ。
千鳥が小さく息を吐きかける。
だが、その時。
布団の下から、白い懐紙に包まれた細長いものが出てきた。
部屋中の空気が凍った。
女中がそれを松ヶ枝へ差し出す。
松ヶ枝は懐紙を開いた。
銀の桔梗が、そこにあった。
母の簪。
藤尾の方の髪から消えた簪。
私の荷から見つかった簪。
「まあ」
お吉が、わざとらしく口元を押さえた。
「篠乃井さん……」
誰かが言った。
「やっぱり」
千鳥が叫びかけた。
「違います!」
私より先に。
私は、千鳥を見た。
千鳥の顔は真っ青だった。
それでも、彼女は前に出ていた。
「紗代は盗んでません。だって、さっき自分の荷から見つかるって言ったじゃないですか。盗んだ人がそんなこと」
「黙りなさい、千鳥」
松ヶ枝の声が飛んだ。
千鳥は唇を噛んだ。
私は一歩前に出た。
「松ヶ枝様」
「何です」
「その懐紙の匂いを確認してください」
「また匂いですか」
「はい」
松ヶ枝は眉を寄せた。
だが、懐紙を鼻先に近づけた。
ほんの一瞬。
彼女の目が動いた。
「薬草の匂いがいたします。御膳場の懐紙と同じものです」
「……」
「私の荷に、御膳場の懐紙で包まれた簪が入っていた。つまり、簪は藤尾様の部屋から直接私の荷へ来たのではなく、一度御膳場か、その懐紙を持つ者の手を経ています」
「それが証になると?」
「なりません」
私は正直に答えた。
「ですが、私一人の犯行にもなりません」
松ヶ枝は私を見た。
厳しい目だった。
けれど、その奥に微かな迷いがあった。
お吉が横から口を挟む。
「でも、見つかったのは篠乃井さんの布団の下でしょう」
「そうね」
別の女中が言う。
「言い逃れに聞こえるわ」
「母親も、そうやって」
「母の話はやめてください」
私の声は、思ったより強かった。
部屋が静まる。
私は自分でも驚いた。
怒ってはいけない。
分かっている。
だが、母の名を汚す声を、今日はどうしても聞き流せなかった。
「母の話をするなら、証を持ってきてください。噂ではなく、紙でもなく、誰かが書かせた汚名でもなく、本当に母を見た者の証を」
お吉が口を閉じた。
松ヶ枝が低く言う。
「篠乃井」
「申し訳ございません」
「謝るなら最初から」
「ですが、取り消しません」
松ヶ枝は、何かを言いかけてやめた。
その時、部屋の外から声がした。
「その簪、こちらへ」
藤尾の方だった。
支えられながら、廊下に立っていた。
顔色は悪いままだ。
だが、目だけは燃えている。
「藤尾様、動いては」
「黙りなさい」
藤尾の方は志津を退け、部屋へ入ってきた。
松ヶ枝が簪を差し出す。
藤尾の方はそれを受け取り、私を見た。
「篠乃井紗代」
「はい」
「これがあなたの荷から出た。それは事実ね」
「はい」
「あなたは盗んでいないと言う」
「はい」
「証はない」
「今は、ありません」
藤尾の方は、銀の桔梗を握った。
強く。
折れてしまいそうなほどに。
「では、明朝までに示しなさい」
部屋がざわめいた。
「藤尾様」
松ヶ枝が低く呼ぶ。
「この娘を今処分しても面白くないわ」
藤尾の方は笑った。
笑っていたが、その顔には憤怒が滲んでいる。
「母親は不義密通、娘は盗人。そう記録に残されたいなら、このまま黙っていればいい。でも違うと言うなら、証を持ってきなさい」
私は頭を下げた。
「承知いたしました」
「明朝までよ」
藤尾の方は私のそばを通り過ぎる時、小さく囁いた。
「できなければ、その髪を落とさせるわ」
髪を。
女の命とも言われる髪を切る。
大奥から追われるだけではない。
汚名を形にして刻まれる。
千鳥が震えた。
私は頭を下げたまま答えた。
「では、必ず間に合わせます」
藤尾の方の足が止まる。
「本当に、腹立たしい娘」
それだけ言って、彼女は部屋を出て行った。
騒ぎが収まった後、御末の間には妙な静けさが残った。
誰も私に近づかない。
千鳥だけが、私の隣で膝を抱えていた。
「どうするの」
「御膳場へ戻ります」
「また?」
「簪を包んだ懐紙と同じ紙を探します。それから、材料控えを書いた者も」
「明朝までよ」
「はい」
「無理じゃない?」
「無理なら、髪がなくなります」
「冗談に聞こえない」
「冗談ではありません」
千鳥は両手で顔を覆った。
「もう、どうしてこんなことに」
「私が大奥へ来たからです」
「それはそうだけど」
「母の名を取り戻すには、避けられない道だったのかもしれません」
「格好つけてる場合じゃないのよ」
「はい」
「ほんと、分かってない」
千鳥は顔を上げた。
目が潤んでいる。
「髪を切られるって、分かってる?」
「はい」
「大奥で盗人扱いされて髪を落とされたら、もう外でも生きづらくなる。縁談も、家も、父上も」
「分かっています」
「分かってない!」
千鳥の声が震えた。
周囲の女中がこちらを見た。
千鳥は慌てて口を押さえ、声を落とす。
「……分かってたら、そんな顔しない」
「どんな顔ですか」
「また、母上のことだけ考えてる顔」
私は何も言えなかった。
千鳥は、思ったより私をよく見ている。
「自分のことも考えてよ」
小さな声だった。
「母上のために死んだら、母上だって悲しむでしょう」
胸の奥が、痛んだ。
その言葉は、誰よりも父に言われるべきものだったかもしれない。
「千鳥」
「何」
「私は死にません」
「それ、信用ならない」
「では、髪も守ります」
「それも怪しい」
「父の家も守ります」
「全部、怪しい」
「母の名も取り戻します」
千鳥は呆れたように私を見た。
それから、泣きそうな顔で笑った。
「強欲ね、紗代も」
思わず、私は笑った。
「御台様に似たくはありません」
「でも今の、だいぶ欲張りだったわよ」
「では、欲を美しく包みます」
「やめて。御台様みたいなこと言わないで」
二人で小さく笑った。
こんな時に笑うなど、おかしな話だ。
でも、その笑いがなければ、私は立てなかったかもしれない。
その夜、私たちは再び御膳場へ向かった。
明朝までに、証を見つけなければならない。
藤尾の方を苦しめた菓子。
私の名を真似た名札。
母の簪を包んだ懐紙。
それらを繋ぐ女。
笑顔で人の秘密を食べ、腹の中にしまい込む女。
御膳場の奥に灯る火が、ゆらゆらと揺れていた。
その火の前で、お柳が一人、鍋を見ていた。
ぐつぐつと煮える湯気の向こうで、彼女は振り向く。
「あら」
柔らかな笑顔だった。
「また、お腹が空いたのですか」
千鳥が私の袖を掴む。
私は一歩前に出た。
「はい」
お柳の目が細くなった。
「何を召し上がりたいの?」
「秘密を」
湯気の向こうで、お柳が笑った。
その笑みは、甘い菓子よりもずっと濃く、薬草よりもずっと苦かった。




