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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第6話 笑顔で毒を盛る女たち

 藤尾の方の部屋へ向かう廊下は、いつもより騒がしかった。


 騒がしい、といっても大奥である。男たちの屋敷のように怒鳴り声が飛ぶわけではない。走る足音も、悲鳴も、極力布で包まれている。


 だが、静かに乱れていた。


 それがかえって恐ろしい。


 女中たちは顔を伏せ、袖で口元を隠し、急ぎ足で行き交う。薬湯を運ぶ者、湯を張った手桶を持つ者、誰かを呼びに行く者。その誰もが、こちらへ目を向ける一瞬だけ、同じことを考えている顔をした。


 篠乃井紗代。


 あの新入りが、何かしたのではないか。


「見ないでほしいですね」


 思わず呟くと、隣の千鳥がぎょっとした顔をした。


「今、それ言う?」


「言いたくなりました」


「言わないで。声に出したら負けるから」


「では、心で言います」


「顔にも出さない」


「難しいですね」


「難しくてもやるの」


 千鳥は私の袖を掴んだまま、ほとんど引きずるように歩いている。


 藤尾の方付きの志津は、数歩先を進んでいた。足取りが乱れている。普段は藤尾の方の威を借りて、私たち御末の女中など見下ろすような目をする女だが、今はその余裕がない。


「志津さん」


 私は呼びかけた。


 志津は振り返らずに答えた。


「何です」


「藤尾様は、何を召し上がったのですか」


「菓子です」


「どのような」


「葛に、蜜をかけたもの。あと、練り切りを少し」


「どなたが運びましたか」


 志津の足が一瞬止まった。


 それから、こちらを振り返った。


 目が険しい。


「あなたの名札があったと言ったでしょう」


「名札は名札です。人ではありません」


 千鳥が横で小さく「言い方」と呟いた。


 志津は唇を噛んだ。


「御膳場から届きました。盆には、篠乃井と」


「字は、どなたの字でしたか」


「そんなもの、見ているわけないでしょう!」


 声が少し大きくなった。


 廊下の女中たちがこちらを見る。


 志津は慌てて口を押さえたが、もう遅い。


 千鳥が低い声で囁いた。


「紗代、今は聞きすぎないで」


「今聞かないと、後で消えます」


「何が」


「記憶です」


 人は、騒ぎの最中に見たことを、あとで都合よく変える。


 自分を守るために。


 誰かに合わせるために。


 あるいは、怖くなったために。


 だから、今聞くしかない。


 藤尾の方の部屋に近づくと、甘い匂いがした。


 濃い香に混じる、蜜の匂い。


 それから、薬草の苦み。


 部屋の前には数人の女中が控えていた。皆、顔色が悪い。誰かが私に気づき、すぐに視線を逸らした。


 こういう時、人は見たいものから目を逸らす。


 犯人だと思う相手を見るのが怖いのか。


 それとも、犯人ではないかもしれない相手を疑っている自分が怖いのか。


 志津が襖の前で膝をついた。


「篠乃井を連れて参りました」


 奥から、低い声がした。


「入れなさい」


 松ヶ枝だった。


 私は千鳥と顔を見合わせた。


 千鳥の目が言っている。


 最悪。


 私も同感だった。


 襖が開く。


 部屋の中央で、藤尾の方が脇息にもたれていた。


 顔色は悪い。唇の紅も薄く見える。額には汗がにじみ、胸元を押さえる手が白くなっていた。


 けれど、目は死んでいない。


 むしろ、怒りで光っている。


 藤尾の方のそばには、松ヶ枝が座っていた。背筋を伸ばし、場を収めようとしている顔。さらに奥に、御膳場の女たちが二人控えている。


 そして、部屋の隅に一人。


 ふくよかな女がいた。


 丸い頬。柔らかな目元。年は四十に近いだろうか。濃い茶の小袖を着て、手には白い布を持っている。表情は心配そうなのに、どこか満ち足りて見える女だった。


 御膳係のお柳。


 名を聞いたことがある。


 大奥の女たちの好物、苦手な物、薬の具合、月の巡り、すべてを覚えている女だと。


 人の腹を握る者は、人の命を握る。


 千鳥が前に言っていた言葉を思い出した。


「篠乃井」


 藤尾の方が私を呼んだ。


 声はかすれていた。


「はい」


「私を殺したかったの?」


 部屋の空気が固まった。


 あまりにも直截だった。


 私は深く頭を下げた。


「いいえ」


「母親の仇のつもりで?」


「いいえ」


「嘘」


 藤尾の方は笑った。


 苦しげな笑いだった。


「あなたは、私を憎んでいる。私がその簪を挿しているから」


 彼女は髪に触れようとして、手を止めた。


 そこで私は気づいた。


 簪がない。


 いつも髪に挿されていた、銀の桔梗。


 母の簪が、そこにない。


「藤尾様」


 私は思わず顔を上げた。


「簪は」


 藤尾の方の顔が歪んだ。


 松ヶ枝の目が鋭くなる。


「篠乃井。今は簪の話ではありません」


「いえ、関係があります」


「何が」


「藤尾様は、いつもあの簪を挿しておられました。今はありません。いつ外されましたか」


 藤尾の方の呼吸が乱れた。


「知らないわ。苦しくなって……気づいたら」


「志津さん」


 私は志津を見た。


「藤尾様がお苦しみになった時、簪はありましたか」


「そんなこと、覚えて」


「覚えてください」


 志津が怯えたように松ヶ枝を見た。


 松ヶ枝は何も言わない。


 沈黙の許可だ。


 志津は震える声で答えた。


「……ありました。最初は、確かに。私が藤尾様の背を支えた時、髪に当たって」


「では、その後に消えた」


 部屋の中で、誰かが息を呑んだ。


 藤尾の方の目が、私を射抜く。


「あなた、何を言いたいの」


「藤尾様に菓子を召し上がらせ、私の名札を使い、さらに簪を消した者がいます」


「簪まで、あなたが盗むつもりだったのでしょう」


「盗むなら、この騒ぎの前に盗みます」


「生意気な口を」


 藤尾の方が身を起こそうとして、胸を押さえた。


 お柳がすっと近づいた。


「藤尾様、どうかお静かに。お身体に障ります」


 声は柔らかい。


 煮含めた大根のように、どこまでも柔らかい声だった。


 藤尾の方は、お柳を睨んだ。


「お柳。あの菓子は何だったの」


「いつもの葛菓子でございますよ。藤尾様は、近頃あまり召し上がられませんでしたから、喉越しのよいものをと思いまして」


「毒を盛ったの?」


 藤尾の方が問う。


 お柳は目を丸くした。


「まあ、恐ろしいことを」


 白々しくはない。


 むしろ、心底傷ついたように見える。


 だからこそ怖かった。


「御膳場で人様のお口に入るものを扱う者が、毒など。藤尾様、私がそのような女に見えますか」


「女は、見える通りのものではないわ」


「それはもう、大奥で長く勤めておりますから、存じております」


 お柳は静かに笑った。


 その笑みに、私は嫌なものを感じた。


 この女は、藤尾の方の怒りを怖がっていない。


 松ヶ枝の目も。


 私への疑いも。


 何もかも、すでに口の中で転がして味わっているような顔をしている。


「お柳様」


 私は声をかけた。


 お柳がこちらを向いた。


「様など、いりませんよ。私はただの御膳係ですもの」


「では、お柳さん」


「はい」


「藤尾様の菓子は、いつ御膳場を出ましたか」


「巳の刻を少し過ぎた頃でしょうか」


「どなたが用意を?」


「私どもで。とはいえ、大奥の御膳場は一人で動くところではございません。水を汲む者、器を出す者、蜜を煮る者、名札を添える者、それぞれおります」


「名札を添えたのは?」


 お柳は少し考えるような顔をした。


「さあ。誰でしたかしら」


 千鳥が小さく舌打ちした。


 お柳は聞こえていないふりをした。


「年を取ると、物忘れが増えましてね」


「お柳さんは、人の好物を決して忘れないと聞きました」


「まあ、誰がそんなことを」


「千鳥です」


「ちょっと!」


 千鳥が跳ねた。


 部屋の視線が千鳥へ集まる。


 お柳はにこにこと笑った。


「千鳥さんは、私をよく見ているのですね」


「見てません」


「そうですか。私はあなたの好物も覚えておりますよ。甘い卵焼きが好きでしょう。けれど、人前では好きではないふりをする」


 千鳥の顔が赤くなった。


「今その話、関係あります?」


「ありますとも」


 お柳は言った。


「人は、好きなものを隠す時が一番無防備になります。嫌いなものを聞くより、好きなものを知る方が、その人をよく分かる」


 その言葉に、背筋が冷えた。


 この女は食を通して、人を見ている。


 何を食べるか。


 何を避けるか。


 誰が誰のために菓子を残すか。


 誰が薬湯を飲んだふりをして捨てるか。


 大奥の秘密は、文や噂だけではない。


 膳の上にも積もっている。


「篠乃井さん」


 お柳が私を見た。


「あなたは、何が好きですか」


「今は、真実です」


 お柳の笑みが深くなった。


「あら、食べられないものがお好きなのですね」


「腹には溜まりませんが、喉にはつかえます」


 藤尾の方が、かすかに笑った。


 この状況で笑ったのは、おそらく彼女だけだった。


「本当に、口だけは母親譲りね」


「藤尾様」


 松ヶ枝が制した。


 その声には、焦りがあった。


「まずは、藤尾様のお身体を」


「私の身体より、この娘をどうにかしなさい」


 藤尾の方は私を指した。


「この娘の名札があったのでしょう。なら、この娘が関わっている」


「私は御台様の御前におりました」


 私が言うと、部屋が静まった。


 この一言は強い。


 少なくとも、菓子が用意された頃、私は御台所の部屋にいた。御台所付きの女中も見ている。完全な潔白にはならないが、菓子を直接扱った可能性は低くなる。


 松ヶ枝が目を伏せた。


 彼女もそれを分かっている。


「御台様の御前にいた者の名札を、なぜ御膳場の盆につけられたのでしょう」


 私は言った。


「それは、私を犯人にしたかったからではありませんか」


「また問いで刃を抜く」


 松ヶ枝が低く言った。


「刃を向けられておりますので」


「そなたは、場をわきまえなさい」


「わきまえた上で申し上げています。ここで私が黙れば、藤尾様を害した女として扱われます」


「黙っていればよかったのに」


 藤尾の方が呟いた。


 私は彼女を見た。


「私が黙れば、藤尾様も真の相手を見失います」


「私を心配しているつもり?」


「いいえ。藤尾様を害した相手が、母の簪を持ち去ったかもしれないので」


「正直ね」


「嘘が下手ですので」


「そこは母親と違うわ」


 藤尾の方の顔に、皮肉な笑みが浮かんだ。


 お柳が静かに割って入った。


「名札のことでしたら、御膳場を改めればよろしいのではございませんか」


「お柳さん自ら、それを仰るのですか」


「疑われるのは心外ですもの」


 お柳は困ったように眉を下げた。


「それに、毒などと大げさな。藤尾様はお疲れが溜まっておいでだったのでしょう。甘いものを久々に召し上がって、少し胸がつかえただけかもしれません」


「ならば、なぜ薬湯を」


「念のためです」


「念のためで、この騒ぎですか」


「大奥では、念のためが命を救うこともあります」


 お柳の笑顔は崩れない。


 柔らかい。


 どこまでも。


 松ヶ枝が決断するように言った。


「御膳場を改めます。藤尾様はこのままお休みを」


「嫌よ」


 藤尾の方が即座に言った。


「この娘を行かせなさい」


 視線が私へ集まる。


「私を、でございますか」


「そうよ。自分の名札が使われたのだから、自分で見てくればよいでしょう」


「藤尾様、それは」


 松ヶ枝が止めようとする。


 だが藤尾の方は、弱っているとは思えない目で私を見た。


「篠乃井紗代。行きなさい。そして見つけてきなさい。私に何を食べさせたのか。誰があなたの名を使ったのか。誰が私の簪を盗んだのか」


「藤尾様は、私を疑っておられるのでは」


「疑っているわよ」


 藤尾の方は、苦しそうに笑った。


「だから、自分で疑いを晴らしなさい。できなければ、母親と同じように汚名を着ればいい」


 胸の奥が熱くなった。


 千鳥が私の袖を掴む。


 行くな、と言っている。


 でも、行くしかない。


 私は頭を下げた。


「承知いたしました」


「紗代」


 千鳥が小声で呼ぶ。


「千鳥はここに」


「行くに決まってるでしょ」


「危険です」


「今さら?」


 千鳥は半分泣きそうな顔で笑った。


「盆の味方なんだから、御膳場には行くわよ」


 お柳がそのやり取りを見て、にこりと笑った。


「仲がよろしいのですね」


「よくありません」


 千鳥が即答した。


「そうですか。仲がよく見える者ほど、いざという時に割れやすいものです」


「縁起でもないこと言わないでください」


「あら、ごめんなさいね」


 お柳は謝った。


 謝った顔で、少しも悪いと思っていない。


 御膳場へ向かう間、私は廊下の匂いを意識した。


 甘い葛蜜。


 藤尾の方の濃い香。


 薬湯。


 その中に、どこかで嗅いだ草の匂いが混じっている。


 苦い。


 でも、ただの薬草ではない。


 思い出せない。


「紗代」


 千鳥が隣で囁いた。


「さっきから何してるの」


「匂いを覚えています」


「犬なの?」


「人です」


「知ってる」


「藤尾様の部屋に、御膳場の匂いとは別のものがありました」


「毒?」


「毒とは限りません。毒なら、もっと分かりやすく騒ぐかもしれません」


「詳しいの?」


「詳しくありません」


「じゃあ怖いこと言わないで」


「ただ、藤尾様は死なせるためではなく、騒ぎを起こすために苦しめられた気がします」


 千鳥が黙った。


 しばらく歩いてから、ぽつりと言った。


「殺すより、悪い時があるわよね」


「ええ」


「死んだら終わりだけど、生きて疑われるのは続く」


「母も、そうでした」


 千鳥はそれ以上言わなかった。


 御膳場に近づくと、匂いが変わった。


 炊いた米。


 味噌。


 昆布。


 薬草。


 砂糖。


 そして、人の焦り。


 御膳場では、女たちが慌ただしく動いていた。


 だが私たちが入ると、動きが一瞬止まった。


 お柳はそれを見て、母親のような声で言った。


「皆、手を止めないで。藤尾様は落ち着いておられます。大事にしてはいけませんよ」


「はい」


 女たちが一斉に動き出す。


 けれど耳は、こちらへ向いている。


 お柳は私を中央へ招いた。


「さて、篠乃井さん。何を改めますか」


「藤尾様へ運ばれた菓子の控えを」


「控えなら、そちらに」


 お柳はすぐに棚を示した。


 あまりにも素直だ。


 千鳥が私の耳元で囁く。


「用意されてる感じがする」


「私もそう思います」


「じゃあ見るのやめる?」


「見ます」


「でしょうね」


 控えには、確かに藤尾の方の名があった。


 葛菓子。


 練り切り。


 蜜。


 添えられた薬湯。


 そして、運び役の欄。


 篠乃井紗代。


 私の名が、そこに書かれていた。


「……字が違います」


 私は呟いた。


 千鳥が覗き込む。


「何が」


「私の名です。私の字ではありません」


「当たり前でしょ。自分で書いてないんだから」


「いえ」


 私は指で文字の横をなぞった。


「これは、私の字を真似ようとしています」


 お柳の笑顔が、ほんの少しだけ固まった。


「まあ。そうなのですか」


「篠の竹冠の払いが、私の字と似ています。でも、乃の曲がりが違います」


「よく見ますねえ」


「母が字に厳しかったので」


「お母様が」


 お柳の声が、わずかに甘くなった。


「そういえば、篠乃井志乃様も、美しい字を書かれる方でした」


 御膳場の音が一瞬だけ止まった。


 私はお柳を見た。


「母をご存じなのですか」


「あら」


 お柳は口元を押さえた。


「昔のことです。私も長く勤めておりますから、いろいろな方をお見かけします」


「母は、御膳場へ来たことが?」


「もちろん。藤尾様付きでしたからね。お好みの菓子や香の相談にいらしていました」


「母は、何を好みましたか」


 唐突な問いに、千鳥がこちらを見た。


 お柳は少し目を細めた。


「ご本人は、あまり甘いものを召し上がりませんでしたね」


「なぜ」


「人に出すものを先に味見すると、自分の欲が混じるから、と」


 母らしい言葉だった。


 胸が痛んだ。


 お柳は続けた。


「でも、一度だけ、葛に黒蜜を少しつけたものを召し上がっていました。疲れておいでだったのでしょう」


「いつですか」


「さあ」


 お柳は笑った。


「昔のことですもの」


「桔梗の夜ですか」


 言った瞬間、御膳場が完全に止まった。


 包丁の音も、湯の音も、器を置く音も。


 お柳だけが、笑っていた。


「篠乃井さん」


「はい」


「大奥では、食べてよいものと悪いものがあります。同じように、口にしてよい言葉と悪い言葉もあります」


「では、これは悪い言葉なのですね」


「喉に詰まりますよ」


「もう、詰まっています」


 お柳はじっと私を見た。


 柔らかな目の奥が、少しだけ冷えた。


「お母様に、本当に似ておいでですね」


「よく言われます」


「似ている娘は、同じものを食べたがるのでしょうか」


「同じものとは」


 お柳は答えなかった。


 代わりに、別の棚から小さな紙束を取り出した。


「控えは、これだけではありません。こちらが、材料の控えです」


 千鳥が警戒している。


 私も同じだった。


 だが紙を受け取って確認する。


 葛。


 砂糖。


 黒蜜。


 柚子。


 そして、薬湯に使う草の名。


 半夏。


 陳皮。


 甘草。


 それから、見慣れない名。


「これは」


「胸のつかえを取る薬草です」


 お柳はにこやかに言った。


「入れすぎれば、胸がざわつくこともありますが、毒ではございません」


「入れすぎたのですか」


「さあ。私は量を間違えません」


「では、誰が」


「篠乃井さん」


 お柳は、困った子を見るような顔をした。


「御膳場では、疑い始めればきりがありません。水を汲んだ者が悪いのか、火加減を見た者が悪いのか、器を出した者が悪いのか、名札を添えた者が悪いのか。全部を疑えば、食事など出せなくなります」


「でも、誰かがやった」


「誰か、とは便利な言葉です」


 お柳は笑った。


「犯人が分からない時、人は誰かと言います。けれど大奥では、その誰かが最後に一番弱い者の名になることが多い」


「つまり、私ですね」


「ご自分でそう思われるのですか?」


「思わされているのです」


 千鳥が小さく息を呑んだ。


 お柳は何も言わない。


 だが、笑みが深まった。


 私は材料控えをもう一度見た。


 紙の端に、わずかに蜜がついている。


 甘い匂い。


 その下に、あの苦い草の匂い。


 そして、もうひとつ。


 香油。


 昨日、私の小袖にこぼされた強い香と同じ匂いが、紙の端にわずかに移っていた。


「千鳥」


「何」


「昨日、私の小袖にこぼされた香油を覚えていますか」


「忘れるわけないでしょ。あれ、洗っても落ちなかったし」


「その匂いが、この紙にあります」


 千鳥が控えに顔を近づける。


 そして眉をしかめた。


「……ある」


 お柳は静かに見ている。


「昨日、香油をこぼした者が、今日この控えに触れた可能性があります」


「それで?」


 お柳が問う。


「香油をこぼしたのは、お吉様の周りの女中でした」


「では、その女中が犯人だと?」


「いいえ。そう思わせたいのかもしれません」


 お柳の笑顔が、また少し変わった。


「慎重ですねえ」


「昨日から、慎重でないと死にそうなので」


「大奥は、そういう場所です」


 その時、御膳場の入口から声がした。


「何を騒いでいるのです」


 松ヶ枝が入ってきた。


 志津も後ろにいる。


 松ヶ枝の目はすぐに私の手元の控えへ向いた。


「何か分かりましたか」


「藤尾様の菓子には、毒ではなく、胸を乱す薬草が多く入れられた可能性があります」


「証は」


「材料控えに、その草の記載があります」


「それは通常の薬湯にも使います」


「はい。毒とは言えません。ですが、藤尾様の体調と合わせれば騒ぎを起こすには十分です」


 松ヶ枝はお柳を見た。


「お柳」


「はい」


「量は」


「いつも通りでございます」


「いつも、藤尾様にこの薬草を?」


「近頃、胸のつかえを訴えておいででしたから」


「誰の指示です」


「藤尾様ご自身の体調を見て、私が」


 お柳は迷いなく答えた。


 松ヶ枝は黙った。


 彼女の顔からは何も読めない。


「名札は」


 松ヶ枝が問う。


 お柳は少し首を傾げた。


「それが、私も分からず。気づいた時には篠乃井さんの名が」


「気づいた時とは」


「藤尾様がお苦しみになって、志津さんが盆を持ち込んだ後です」


 志津が慌てて頷く。


「はい。私も、その時初めて」


 私は志津を見た。


「志津さん。盆を運んだのは、あなたですか」


「ええ」


「御膳場から藤尾様の部屋まで、途中で誰かに会いましたか」


「そんなの、何人も」


「盆を置きましたか」


「置いてないわ」


「本当に?」


 志津の顔が赤くなった。


「疑うの?」


「確認しています」


「置いてない。ずっと持っていた」


「では、名札は御膳場を出る時にはすでについていた」


「そうなるわね」


 志津はお柳を見た。


 お柳は悲しそうに眉を下げた。


「あら、私を疑っているのですか」


「い、いえ、そういうわけでは」


「よいのです。食べ物を扱う者は、いつでも疑われる覚悟が必要ですから」


 それは殊勝な言葉だった。


 だが、私はその言葉に引っかかった。


 いつでも疑われる覚悟。


 ならば、疑われた時の逃げ道も用意している。


 お柳という女は、そういう女だ。


「松ヶ枝様」


 私は言った。


「藤尾様の簪が消えています」


「それは聞いています」


「御膳場に、簪を包める懐紙はありますか」


「懐紙?」


 松ヶ枝の目が細くなる。


 お柳が静かに答えた。


「ございますよ。菓子を包むもの、薬草を分けるもの、いくらでも」


「見せていただけますか」


「もちろん」


 お柳は棚から懐紙の束を出した。


 白い紙。


 何の変哲もない。


 けれど、その一枚の端に、薄く桔梗の透かしが入っていた。


 私は息を呑んだ。


「これは」


「古い紙です。今はあまり使いません」


 お柳が言った。


「昔、桔梗の紋を好まれた方がいらしてね」


「誰ですか」


「さあ」


 またそれだ。


 さあ。


 昔のことです。


 忘れました。


 この女は、覚えている。


 覚えているから、忘れたと言う。


 私は懐紙に顔を近づけた。


 同じ匂いがする。


 薬草と、甘い蜜と、香油。


「藤尾様の簪は、この紙に包まれた可能性があります」


「証は」


 松ヶ枝が問う。


「今は匂いだけです」


「匂いでは証になりません」


「はい」


 松ヶ枝の言葉は冷たい。


 だが、完全には否定していない。


 私は顔を上げた。


「ですが、探す場所は分かりました」


「どこです」


「私の荷です」


 千鳥が目を見開いた。


「紗代」


「簪を消した者がいるなら、次は私の荷から見つかるはずです」


 御膳場が静まり返った。


 松ヶ枝が私を見る。


 お柳の笑顔が、ほんの少しだけ消えた。


 私は頭を下げた。


「先に申し上げておきます。私の荷から母の簪が見つかっても、私は盗んでおりません」


「先回りが過ぎます」


 松ヶ枝が言った。


「先回りしなければ、母と同じになります」


 その言葉に、松ヶ枝の表情がわずかに揺れた。


 お柳はまた笑った。


「母上、母上と。お若い方は、母君が恋しいのですね」


「恋しいです」


 私ははっきり答えた。


 お柳の笑顔が一瞬だけ止まる。


「恋しいから、汚された名をそのままにできません」


「……強い子」


「強くありません。千鳥に何度も馬鹿と言われています」


「今それ言わないで」


 千鳥が小声で抗議した。


 場違いなその声に、松ヶ枝が咳払いをした。


「篠乃井の荷を改めます」


 松ヶ枝が言った。


 千鳥の顔が青くなった。


 志津は震えている。


 お柳は、にこにこと笑っている。


 私たちは御末の部屋へ戻った。


 廊下を歩く間、大奥中の視線が背中に刺さる気がした。


 藤尾の方への菓子騒動。


 紗代の名札。


 消えた簪。


 荷改め。


 噂はもう走り出している。


 女の足より速く。


 声より静かに。


 御末の間に戻ると、お吉たちが待っていた。


 待っていないふりをしていたが、全員がこちらを見ていた。


 松ヶ枝が告げた。


「篠乃井紗代の荷を改めます」


 お吉の口元が、わずかに上がった。


 勝ちを確信したような顔。


 私はそれを見て、少なくともお吉は黒幕ではないと思った。


 黒幕なら、もう少し笑わない。


 私の文箱。


 針箱。


 畳んだ小袖。


 洗い替えの帯。


 母の懐紙は、肌身離さず持っている。


 差出人不明の文も懐に移してある。


 荷の中にはない。


 だが、それだけでは足りない。


 何かが入れられている。


 私はそう確信していた。


 松ヶ枝の命で、年嵩の女中が私の小袖を一枚ずつ開く。


 何もない。


 針箱。


 何もない。


 文箱。


 何もない。


 お吉の顔に、焦りが浮かんだ。


 千鳥が小さく息を吐きかける。


 だが、その時。


 布団の下から、白い懐紙に包まれた細長いものが出てきた。


 部屋中の空気が凍った。


 女中がそれを松ヶ枝へ差し出す。


 松ヶ枝は懐紙を開いた。


 銀の桔梗が、そこにあった。


 母の簪。


 藤尾の方の髪から消えた簪。


 私の荷から見つかった簪。


「まあ」


 お吉が、わざとらしく口元を押さえた。


「篠乃井さん……」


 誰かが言った。


「やっぱり」


 千鳥が叫びかけた。


「違います!」


 私より先に。


 私は、千鳥を見た。


 千鳥の顔は真っ青だった。


 それでも、彼女は前に出ていた。


「紗代は盗んでません。だって、さっき自分の荷から見つかるって言ったじゃないですか。盗んだ人がそんなこと」


「黙りなさい、千鳥」


 松ヶ枝の声が飛んだ。


 千鳥は唇を噛んだ。


 私は一歩前に出た。


「松ヶ枝様」


「何です」


「その懐紙の匂いを確認してください」


「また匂いですか」


「はい」


 松ヶ枝は眉を寄せた。


 だが、懐紙を鼻先に近づけた。


 ほんの一瞬。


 彼女の目が動いた。


「薬草の匂いがいたします。御膳場の懐紙と同じものです」


「……」


「私の荷に、御膳場の懐紙で包まれた簪が入っていた。つまり、簪は藤尾様の部屋から直接私の荷へ来たのではなく、一度御膳場か、その懐紙を持つ者の手を経ています」


「それが証になると?」


「なりません」


 私は正直に答えた。


「ですが、私一人の犯行にもなりません」


 松ヶ枝は私を見た。


 厳しい目だった。


 けれど、その奥に微かな迷いがあった。


 お吉が横から口を挟む。


「でも、見つかったのは篠乃井さんの布団の下でしょう」


「そうね」


 別の女中が言う。


「言い逃れに聞こえるわ」


「母親も、そうやって」


「母の話はやめてください」


 私の声は、思ったより強かった。


 部屋が静まる。


 私は自分でも驚いた。


 怒ってはいけない。


 分かっている。


 だが、母の名を汚す声を、今日はどうしても聞き流せなかった。


「母の話をするなら、証を持ってきてください。噂ではなく、紙でもなく、誰かが書かせた汚名でもなく、本当に母を見た者の証を」


 お吉が口を閉じた。


 松ヶ枝が低く言う。


「篠乃井」


「申し訳ございません」


「謝るなら最初から」


「ですが、取り消しません」


 松ヶ枝は、何かを言いかけてやめた。


 その時、部屋の外から声がした。


「その簪、こちらへ」


 藤尾の方だった。


 支えられながら、廊下に立っていた。


 顔色は悪いままだ。


 だが、目だけは燃えている。


「藤尾様、動いては」


「黙りなさい」


 藤尾の方は志津を退け、部屋へ入ってきた。


 松ヶ枝が簪を差し出す。


 藤尾の方はそれを受け取り、私を見た。


「篠乃井紗代」


「はい」


「これがあなたの荷から出た。それは事実ね」


「はい」


「あなたは盗んでいないと言う」


「はい」


「証はない」


「今は、ありません」


 藤尾の方は、銀の桔梗を握った。


 強く。


 折れてしまいそうなほどに。


「では、明朝までに示しなさい」


 部屋がざわめいた。


「藤尾様」


 松ヶ枝が低く呼ぶ。


「この娘を今処分しても面白くないわ」


 藤尾の方は笑った。


 笑っていたが、その顔には憤怒が滲んでいる。


「母親は不義密通、娘は盗人。そう記録に残されたいなら、このまま黙っていればいい。でも違うと言うなら、証を持ってきなさい」


 私は頭を下げた。


「承知いたしました」


「明朝までよ」


 藤尾の方は私のそばを通り過ぎる時、小さく囁いた。


「できなければ、その髪を落とさせるわ」


 髪を。


 女の命とも言われる髪を切る。


 大奥から追われるだけではない。


 汚名を形にして刻まれる。


 千鳥が震えた。


 私は頭を下げたまま答えた。


「では、必ず間に合わせます」


 藤尾の方の足が止まる。


「本当に、腹立たしい娘」


 それだけ言って、彼女は部屋を出て行った。


 騒ぎが収まった後、御末の間には妙な静けさが残った。


 誰も私に近づかない。


 千鳥だけが、私の隣で膝を抱えていた。


「どうするの」


「御膳場へ戻ります」


「また?」


「簪を包んだ懐紙と同じ紙を探します。それから、材料控えを書いた者も」


「明朝までよ」


「はい」


「無理じゃない?」


「無理なら、髪がなくなります」


「冗談に聞こえない」


「冗談ではありません」


 千鳥は両手で顔を覆った。


「もう、どうしてこんなことに」


「私が大奥へ来たからです」


「それはそうだけど」


「母の名を取り戻すには、避けられない道だったのかもしれません」


「格好つけてる場合じゃないのよ」


「はい」


「ほんと、分かってない」


 千鳥は顔を上げた。


 目が潤んでいる。


「髪を切られるって、分かってる?」


「はい」


「大奥で盗人扱いされて髪を落とされたら、もう外でも生きづらくなる。縁談も、家も、父上も」


「分かっています」


「分かってない!」


 千鳥の声が震えた。


 周囲の女中がこちらを見た。


 千鳥は慌てて口を押さえ、声を落とす。


「……分かってたら、そんな顔しない」


「どんな顔ですか」


「また、母上のことだけ考えてる顔」


 私は何も言えなかった。


 千鳥は、思ったより私をよく見ている。


「自分のことも考えてよ」


 小さな声だった。


「母上のために死んだら、母上だって悲しむでしょう」


 胸の奥が、痛んだ。


 その言葉は、誰よりも父に言われるべきものだったかもしれない。


「千鳥」


「何」


「私は死にません」


「それ、信用ならない」


「では、髪も守ります」


「それも怪しい」


「父の家も守ります」


「全部、怪しい」


「母の名も取り戻します」


 千鳥は呆れたように私を見た。


 それから、泣きそうな顔で笑った。


「強欲ね、紗代も」


 思わず、私は笑った。


「御台様に似たくはありません」


「でも今の、だいぶ欲張りだったわよ」


「では、欲を美しく包みます」


「やめて。御台様みたいなこと言わないで」


 二人で小さく笑った。


 こんな時に笑うなど、おかしな話だ。


 でも、その笑いがなければ、私は立てなかったかもしれない。


 その夜、私たちは再び御膳場へ向かった。


 明朝までに、証を見つけなければならない。


 藤尾の方を苦しめた菓子。


 私の名を真似た名札。


 母の簪を包んだ懐紙。


 それらを繋ぐ女。


 笑顔で人の秘密を食べ、腹の中にしまい込む女。


 御膳場の奥に灯る火が、ゆらゆらと揺れていた。


 その火の前で、お柳が一人、鍋を見ていた。


 ぐつぐつと煮える湯気の向こうで、彼女は振り向く。


「あら」


 柔らかな笑顔だった。


「また、お腹が空いたのですか」


 千鳥が私の袖を掴む。


 私は一歩前に出た。


「はい」


 お柳の目が細くなった。


「何を召し上がりたいの?」


「秘密を」


 湯気の向こうで、お柳が笑った。


 その笑みは、甘い菓子よりもずっと濃く、薬草よりもずっと苦かった。

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