第5話 強欲なる御台所
御台所からの呼び出しは、朝餉よりも早く大奥の空気を変えた。
御末の間では、誰も大きな声を出さなかった。けれど沈黙の中に、針のような視線がいくつも混じっている。
篠乃井紗代が、御台様の御前へ出る。
その事実だけで、女たちの表情は少しずつ変わった。
面白がる者。
憐れむ者。
妬む者。
そして、もう終わったと決めつける者。
大奥では、呼ばれることが名誉とは限らない。
高い場所から差し伸べられる手は、引き上げるためではなく、首を掴むためかもしれないのだ。
「紗代」
身支度をしていると、千鳥が背後から小声で呼んだ。
「はい」
「その返事、やめない?」
「返事をしない方がよろしいですか」
「そうじゃなくて、こう……これから御台様のところへ行く人の声じゃないのよ。落ち着きすぎ」
「落ち着いてはいません」
「嘘」
「手は震えています」
私は袖の中の指先を見せた。
千鳥はそれを見て、少しだけ眉を下げた。
「本当だ」
「嘘はつきません」
「いや、あんた結構つくわよ。昨日も松ヶ枝様に、部屋を出てないって顔で言ってたし」
「あれは言葉の解釈です」
「そういうのを嘘って言うの」
千鳥は呆れたように息を吐き、私の帯を直した。
きゅっと締められて、息が少し詰まる。
「痛いです」
「痛いくらいがいいの。御台様の前で崩れたら終わりよ」
「着物がですか」
「全部よ。着物も、姿勢も、心も」
千鳥の手つきは慣れていた。
いつも軽口ばかりの娘だが、こういう時の所作は驚くほど丁寧だった。帯の皺を伸ばし、襟元を直し、私の髪に乱れがないか確かめる。
「千鳥は、誰かを送り出したことがあるのですか」
「あるわよ」
「御台様の御前へ?」
「もっと悪いところへ」
千鳥はそれ以上言わなかった。
私は鏡代わりの磨かれた銅板を見た。
そこに映る私は、母に似ているのだろうか。
藤尾の方が嫌う顔。
松ヶ枝が目を伏せる顔。
御台所が、芽を摘めと言った顔。
「ねえ」
千鳥が背後で言った。
「御台様の前では、知りたいことを顔に出しちゃ駄目」
「はい」
「聞かれていないことは言わない」
「はい」
「聞かれても、すぐ答えない」
「はい」
「あと、御台様が優しいことを言っても信じない」
「はい」
「それから」
千鳥は言葉を切った。
鏡の中で、彼女の顔が見える。
迷っている顔だった。
「何でしょう」
「……怖くなったら、母親のことじゃなくて、自分が生きることを考えて」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「千鳥」
「味方じゃないからね」
「はい」
「ただ、盆の味方として言ってるだけ」
「今日は盆を持ちませんが」
「うるさい」
千鳥は私の背中を軽く叩いた。
「行ってきなさい」
御台所の居所へ向かう廊下は、これまで歩いたどの廊下よりも静かだった。
同じ大奥の中なのに、空気が違う。
御末の間には、女たちの汗や布の匂い、炊事場の湯気、畳に染みた日々の生活の匂いがある。
藤尾の方の部屋には、怒りを隠す濃い香があった。
夕霧の方のそばには、人の心を緩ませる甘い危うさがあった。
けれど、御台所の居所へ近づくほど、匂いが薄くなる。
香も、汗も、湿り気も、余計なものが削ぎ落とされていく。
清らかなのではない。
消されているのだ。
人の気配さえ、御台所にとって不要なものは取り除かれている。
案内役の女中が、襖の前で止まった。
「篠乃井紗代にございます」
奥から、静かな声が返る。
「通しなさい」
襖が開いた。
私は平伏した。
畳の匂いがする。
新しい畳ではない。だが、よく手入れされている。古さを古さのまま残さず、傷さえ格に変えるような部屋だった。
「顔を上げなさい」
その声は、思っていたより柔らかかった。
私はゆっくり顔を上げた。
御台所、綾乃。
将軍の正室。
大奥の頂に座る女。
派手な女ではなかった。
藤尾の方のように、人目を奪う艶やかさがあるわけではない。夕霧の方のように、人の心を撫でる色香があるわけでもない。
けれど、ひと目で分かる。
この人が、この場所の中心だ。
薄浅葱の小袖に、白地の打掛。刺繍は控えめで、髪飾りも多くない。だが、座っているだけで周囲が彼女へ従っている。調度、女中、空気までもが、御台所を美しく見せるために息を潜めているようだった。
「篠乃井紗代」
「はい」
「近う」
私は膝を進めた。
御台所は、私をじっと見た。
その視線には、藤尾の方のような露骨な敵意はない。
夕霧の方のような戯れもない。
松ヶ枝のような苦い警戒もない。
ただ、見ている。
値をつける商人のように。
器の質を見極める茶人のように。
人を、人としてではなく、使えるか否かで測っている目だった。
「母上を亡くしたそうですね」
最初の言葉がそれだった。
「はい」
「いくつの時に」
「十の時でございます」
「それは、寂しかったでしょう」
御台所の声は、本当に優しかった。
だからこそ、私は背筋を伸ばした。
「父が、よくしてくれました」
「よい父を持ったのですね」
「はい」
「篠乃井家は、今も御勘定方の末席に?」
息が止まりかけた。
なぜ知っているのか、と問う必要はない。
御台所だから知っているのだ。
「はい。父は書付の整理を務めております」
「真面目な方だと聞いています。少し、不器用とも」
御台所は微笑んだ。
「不器用な男は損をします。上に取り入ることも、下に恩を売ることもできない。ただ、己の役目を果たすだけ。そのような者は、世が乱れれば真っ先に踏まれる」
私は畳に置いた手に力を込めた。
「父は、踏まれても務めを放り出す人ではございません」
「でしょうね。だから心配なのです」
「心配、でございますか」
「ええ」
御台所は傍らの女中に目を向けた。
女中が静かに文箱を差し出す。
御台所はその蓋に指を置いた。
「大奥の女の失態は、大奥だけでは終わりません。ここで悪い噂が立てば、外の家にも届く。父の役目、弟妹の縁談、親類の顔、すべてに影が差す」
弟妹はいない。
だが、父がいる。
御台所は、それを知ったうえで言っている。
「篠乃井。そなたは賢そうな娘です」
「恐れ入ります」
「賢い娘は、何を守るべきかを間違えてはいけません」
御台所の微笑みは崩れない。
「亡き母の名か。生きている父の暮らしか」
胸の奥が、冷えた。
これは脅しだ。
静かな脅し。
声を荒げず、責めもせず、ただ私の一番柔らかい場所に手を置いている。
「御台様」
「何でしょう」
「母の名を守ることは、父の暮らしを脅かすことでございましょうか」
御台所の目が、わずかに細くなった。
ほんの少し。
だが、部屋の空気が張った。
「問いで返すのですね」
「申し訳ございません」
「謝るほどのことではありません。若い娘は、時に問いの形で刃を抜くものです」
「刃など、とても」
「刃は、抜いている者ほど抜いていないと言うものですよ」
御台所は微笑んだまま、文箱を開けなかった。
ただ、指先で蓋の縁をなぞる。
「篠乃井。人は皆、欲を持ちます。食べたい。眠りたい。愛されたい。認められたい。母の汚名を晴らしたい。父を守りたい。自分だけは正しくありたい」
そのひとつひとつが、私の中にあるものだった。
「欲は醜いものではありません。欲を持たぬ女など、大奥には要らない。欲を持つから、人は働き、笑い、嘘をつき、耐えるのです」
「御台様にも、欲がおありですか」
問うた瞬間、案内役の女中が息を呑んだ。
私は失言を悟った。
だが、御台所は怒らなかった。
むしろ、面白そうに笑った。
「ありますとも」
あまりにもあっさりした答えだった。
「たくさん」
御台所はそう続けた。
「大奥の秩序が欲しい。将軍家の安寧が欲しい。女たちが余計な騒ぎを起こさぬ静けさが欲しい。私の手の届く場所に、すべてが収まっている安心が欲しい」
静かな声。
美しい言葉。
だが、その奥にあるものは、底なしだった。
秩序。
安寧。
静けさ。
安心。
それは全部、言い換えれば支配だ。
「欲を恥じる女は弱いのです」
御台所は言った。
「欲を美しく包める女だけが、人の上に立てる」
私は、目の前の女を見た。
これが、強欲。
奪う女ではない。
欲しいものを欲しいと叫ぶ女でもない。
欲そのものに、正しさの衣を着せる女。
誰かを踏む時でさえ、これは皆のためだと微笑む女。
「そなたの母も、欲の深い女でした」
御台所の声で、思考が止まった。
「母が、でございますか」
「ええ。静かな顔をしていましたが、奥には強い欲があった。真実を知りたい。正しくありたい。誰かを救いたい。自分だけは汚れたくない」
「それは、罪でございましょうか」
「大奥では、罪になることもあります」
御台所は少しだけ首を傾げた。
「正しさは、人を救うこともあります。けれど時に、正しさは人を追い詰めます。そなたの母は、それを知らなかった」
「御台様は、母を最後にご覧になったのですか」
部屋の中の音が消えた。
案内役の女中が、わずかに頭を伏せる。
御台所の表情は変わらない。
だが、変わらなすぎることが答えのようだった。
「誰に聞きました」
「藤尾様と、夕霧様に」
「まあ」
御台所は、初めて少しだけ楽しげに笑った。
「あの二人が、同じ名を口にするとは。仲が悪い者同士ほど、困った時には同じ方向を指すものですね」
「では、事実ではないと?」
「事実とは、どの部分を指すのでしょう」
御台所の問いは、柔らかかった。
「会ったか。話したか。見送ったか。死なせたか。殺したか」
最後の言葉だけ、ほんの少し低かった。
「言葉は便利です。ひとつずらせば、罪の形が変わる」
「母は、御台様に何を訴えたのですか」
「それを知って、どうします」
「母の名を取り戻します」
「取り戻した名で、父君の腹は満たされますか」
私は黙った。
御台所は、そこを逃さない。
「名誉は尊いものです。けれど、米にはなりません。薬にもなりません。扶持にもなりません。そなたの父が明日、役目を外されたとして、亡き母の名誉は家を守ってくれますか」
「母の名を捨てて守る家に、私は帰れません」
言ってから、父の顔が浮かんだ。
父なら何と言うだろう。
怒るだろうか。
泣くだろうか。
それとも、母によく似ていると困ったように笑うだろうか。
御台所は私を見ていた。
「やはり、似ていますね」
「母に、でございますか」
「ええ。愚かなほどに」
その言葉は、侮辱のようでいて、どこか懐かしさも含んでいた。
「御台様は、母をお嫌いでしたか」
「嫌いではありませんでした」
意外な答えだった。
「では、なぜ」
「嫌いな相手だけが、害になるとは限りません」
御台所は文箱から手を離した。
「そなたの母は、よく働く女でした。口数は少なく、手は早く、字も美しい。藤尾の方に仕えていた頃は、あの方の装いも香も、見事に整えていた」
母の姿が浮かんだ。
誰かの髪を梳き、香を選び、文を運ぶ母。
家では見せなかった顔だ。
「けれど、あの女には悪い癖があった」
「悪い癖」
「見なくてよいものを見る。聞かなかったふりをすればよいものを聞く。燃やせばよい文を残す」
御台所の目が、私の懐へ向いた気がした。
差出人不明の文。
母の懐紙。
見えないはずなのに、見透かされているようだった。
「篠乃井。そなたは、母と同じ癖を持っている」
「直せと仰せでしょうか」
「いいえ」
御台所は微笑んだ。
「使えと言っています」
意味が分からず、私は一瞬言葉を失った。
御台所は続けた。
「人の嘘に気づく目。言葉の裏を読む耳。怒りを飲み込む胆力。下級の身でありながら、御中臈にも若い側室にも臆さぬ愚かさ」
「愚かさも、お役に立ちますか」
「使い方次第です」
御台所は、傍らの女中に命じた。
「茶を」
白磁の茶碗が運ばれてくる。
湯気の上に、ほのかな香が漂った。
苦みの中に、薄い甘さがある。
「飲みなさい」
私は茶碗を見た。
千鳥の声が頭をよぎる。
大奥で出されたものを、考えなしに口に入れないで。
御台所は、その迷いに気づいていた。
「毒を疑っていますか」
「私ごときに、御台様が毒を使われるとは思いません」
「上手な答えです。私が毒を使うほどの価値が、そなたにはまだない」
「まだ、でございますか」
「ええ」
御台所は笑った。
「だから安心して飲みなさい」
安心できる要素は何ひとつなかった。
だが、ここで拒めばそれはそれで角が立つ。
私は茶碗を取り、口をつけた。
苦い。
けれど、毒の味など知るはずもない。
「美味しゅうございます」
「嘘が下手ですね」
「申し訳ございません」
「苦いでしょう」
「はい」
「それでよいのです。甘いものばかり口にする女は、すぐ騙される」
茶碗を置いた時、私は部屋の隅にある香炉に気づいた。
黒漆の台に置かれた、小ぶりな青銅の香炉。
形は簡素だが、蓋の中央に桔梗の紋が刻まれていた。
母の簪。
破れた記録の端。
差出人不明の文。
桔梗。
私の視線に、御台所は気づいた。
「気になりますか」
「美しい香炉でございます」
「昔、ある女が私に献じたものです」
「ある女」
「命乞いのつもりだったのでしょうね」
背筋に冷たいものが走った。
「その方は、助かったのでしょうか」
「助けてほしいと口にしませんでした」
「口にしなければ、助けられませんか」
「大奥では、口にしても助からないことが多い」
御台所は香炉を見つめた。
そこに懐かしさはない。
ただ、所有物を見る目だった。
「けれど、差し出したものは残ります。人は死んでも、物は残る。物は便利です。持ち主が死ねば、誰のものにでもなる」
私は拳を握りしめた。
母の簪を挿す藤尾の方。
母が献じたかもしれない香炉を置く御台所。
女たちは母の名を汚しながら、母の物だけは使い続けている。
それがたまらなく悔しかった。
「そなた、今、怒りましたね」
「いいえ」
「嘘。目が母に似ました」
御台所は楽しそうだった。
怒りを見抜いたのではない。
怒らせたのだ。
私がどこまで耐えられるか、測っている。
「篠乃井紗代」
「はい」
「藤尾の方を見張りなさい」
いきなりの命だった。
「藤尾様を、でございますか」
「ええ。あの女は、そろそろ壊れます」
「なぜ私に」
「そなたを嫌っているからです」
御台所は当然のように言った。
「嫌いな相手の前では、人は飾りを忘れる。怒り、侮り、余計なことを口にする。そなたは藤尾の方の怒りを引き出すのに向いている」
「それは、私に藤尾様の怒りを受けろということでございましょうか」
「そうです」
あまりに堂々とした返答だった。
御台所は茶碗を手に取る。
「大奥で生きるなら、誰かの怒りくらい受け止めなさい」
「私が壊れた場合は」
「別の者を使います」
沈黙。
胸の奥で、何かが冷たく固まった。
この人にとって、人は駒ですらない。
駒ならまだ盤上に置かれる。
壊れたら替えの利く道具。
その程度なのだ。
「御台様」
「何でしょう」
「母も、誰かを見張るために使われたのですか」
御台所の目が止まった。
初めてだった。
完璧だった微笑みに、ほんのわずかな影が差す。
「そなたは、本当に母に似ていますね」
「よく言われます」
「似ているだけなら、まだ可愛げがありました」
御台所は茶碗を置いた。
「藤尾の方を見張りなさい。あの女が誰と会い、何を口にし、何を隠しているか。私に知らせるのです」
「お断りした場合は」
傍らの女中が、驚いたように顔を上げた。
御台所は怒らなかった。
むしろ、さきほどより優しく微笑んだ。
「断れますよ」
その言葉が、一番恐ろしかった。
「大奥では、命に背いたからといって、すぐに罰せられるとは限りません。そなたは病を得るかもしれない。父君の役目に不手際が見つかるかもしれない。篠乃井家に昔の悪い噂が戻るかもしれない」
ひとつひとつ、柔らかく積み上げられていく。
「世の中には、不幸な偶然がたくさんあります」
御台所は、そう言って笑った。
「それでも、断りますか」
父の顔が浮かぶ。
松ヶ枝の警告が浮かぶ。
千鳥の言葉が浮かぶ。
大奥の怖さは、ここで死ぬことじゃない。外まで届くことなの。
私は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「よい返事です」
「ただし、ひとつお願いがございます」
「まあ」
御台所の声に、微かな興味が混じった。
「言ってごらんなさい」
「私が見聞きしたことは、私の言葉で申し上げます。誰かに書かされた文としては、残しとうございません」
「なぜ」
「母のように、紙で殺されたくないからです」
御台所は黙った。
部屋の空気が、また張った。
私は顔を上げない。
この言葉が危ういことは分かっている。
だが、どうしても言わずにはいられなかった。
母は記録で殺された。
ならば私は、自分の言葉を他人の手に渡さない。
「よいでしょう」
御台所が言った。
意外だった。
「そなたの口から聞きます。書付は残さなくてよい」
「ありがたき幸せに存じます」
「ただし」
御台所の声が少しだけ低くなった。
「嘘を言えば、そなたの母の記録を正式なものとして外へ出します」
息が止まった。
「不義密通の疑い、内々に処分。今は大奥の中に眠る汚れです。けれど外へ出れば、篠乃井家の名は終わる」
御台所は微笑んだ。
「そなたが真実を欲しがるなら、私も私の欲を通します。公平でしょう?」
公平。
これを公平と呼ぶのか。
私は畳に額が触れるほど深く頭を下げた。
「……心得ました」
「下がりなさい」
私は立ち上がらず、膝をついたまま一礼した。
その時、御台所が最後に言った。
「篠乃井」
「はい」
「母君のことを知りたければ、藤尾の怒りだけを見ていては駄目です」
私は顔を上げそうになったが、堪えた。
「怒りは派手です。目立ちます。けれど、本当に人を殺すのは、もっと静かなものです」
「それは、何でございましょう」
御台所は答えなかった。
ただ、香炉の桔梗を指先で撫でた。
「そのうち分かります」
部屋を出た瞬間、足に力が入らなくなりそうだった。
案内役の女中が去るまで、私は廊下でまっすぐ立っていた。
角を曲がり、人目が少なくなったところで、ようやく息を吐く。
肺の中の空気が全部、御台所の部屋に置き去りにされたようだった。
「紗代」
柱の陰から、千鳥が飛び出してきた。
「どうだった」
「生きています」
「それは見れば分かる。いや、分からない時もあるけど。顔が死んでる」
「千鳥は表現が率直ですね」
「茶化せるなら大丈夫……じゃなさそうね」
千鳥は私の顔を覗き込んだ。
「何を言われたの」
「藤尾様を見張れと」
「最悪」
「そうなのですか」
「最悪よ。藤尾様に知られたら殺されるし、御台様に逆らっても殺される。板挟みじゃない」
「板が二枚なら、まだ隙間があります」
「前向きの方向が変」
千鳥は頭を抱えた。
「他には」
「父のことを言われました」
千鳥の顔が曇った。
「やっぱり」
「母の記録を外へ出すとも」
「それ、本気よ」
「分かっています」
「あの方は、やる。直接手を汚さずに、役所の書付ひとつ、親類の噂ひとつで家を潰せる」
私は廊下の先を見た。
御台所の部屋はもう見えない。
けれど、あの女の声だけは耳に残っていた。
欲を美しく包める女だけが、人の上に立てる。
「千鳥」
「何」
「御台様は、なぜ母を嫌っていなかったのでしょう」
「え?」
「嫌いではないと言いました。けれど母は消された。嫌いな相手だけが害になるとは限らない、とも」
千鳥は黙った。
それから、慎重に言った。
「……邪魔だったんじゃない」
「邪魔」
「嫌いだから潰すんじゃなくて、邪魔だからどける。御台様なら、そっちの方がありそう」
私は御台所の言葉を思い返した。
見なくてよいものを見る。
聞かなかったふりをすればよいものを聞く。
燃やせばよい文を残す。
母は何かを残した。
御台所は、それを恐れたのか。
「あと」
千鳥が不意に声を落とした。
「何か飲まされた?」
「お茶を」
「飲んだの!?」
「断れませんでした」
「だからって」
「毒を使うほどの価値はまだないと言われました」
「それを信じて飲んだの?」
「はい」
「本当に、あんたの胆はどうなってるの」
「苦かったです」
「味の感想じゃない!」
千鳥が声を上げかけ、慌てて口を押さえた。
その様子がおかしくて、少しだけ笑ってしまった。
「笑えるなら、まあ……いいけど」
千鳥は疲れた顔で言った。
「よくないか。全然よくない」
その時、廊下の向こうから女中が駆けてきた。
藤尾の方付きの志津だった。
顔色が悪い。
「篠乃井さん」
「はい」
「藤尾様が、お呼びです」
千鳥が、あからさまに嫌な顔をした。
「今度は藤尾様?」
志津はそれどころではない様子で、袖を握りしめている。
「お加減が……よろしくなくて」
「お加減?」
「急に胸を押さえて、お苦しみになって……お菓子を召し上がった後から」
胸の奥が、ざわりとした。
お菓子。
御台所の言葉。
藤尾の方は、そろそろ壊れます。
それは比喩だったのか。
それとも、すでに何かが仕組まれていたのか。
志津は私を見た。
その目には、不安と疑いが混じっている。
「それと」
「何でしょう」
「藤尾様のお部屋に運ばれた菓子の盆に、篠乃井さんの名札が……」
千鳥が息を呑んだ。
私は、御台所の部屋で飲んだ苦い茶の味を思い出した。
甘いものばかり口にする女は、すぐ騙される。
そう言った御台所の声。
大奥では、すべてが繋がっている。
茶も。
菓子も。
香も。
文も。
そして、罪も。
「行きます」
私は言った。
千鳥が私の袖を掴む。
「駄目。これ、絶対罠」
「ええ」
「分かってて行くの?」
「行かなければ、私が逃げたことになります」
「行っても犯人にされるわよ」
「なら、逃げない犯人になります」
「意味分かんない!」
千鳥の声が震えていた。
私はその手に、自分の手を重ねた。
「千鳥」
「何よ」
「盆の味方として、一緒に来てくれますか」
千鳥は目を見開いた。
それから、泣きそうな顔で笑った。
「ほんと、最悪」
「はい」
「行くわよ。あんた一人だと、首どころか家まで飛ばされそうだもの」
私たちは藤尾の方の部屋へ急いだ。
廊下の向こうから、騒ぎが聞こえる。
女たちの足音。
抑えた悲鳴。
誰かが薬湯を求める声。
大奥の静けさが、初めて乱れていた。
そしてその乱れの中心に、私の名札がある。
藤尾の怒り。
御台所の欲。
母の汚名。
すべてが一つの盆の上に載せられて、私の前へ差し出されていた。
大奥は、笑顔で人を殺す場所だ。
けれど今、その笑顔の奥で、誰かが次の罪を盛りつけている。
私はまだ、その女の名を知らない。
ただ、甘い菓子の匂いの向こうに、腐りかけた秘密の気配がした。




