第4話 桔梗の夜
襖の前に、松ヶ枝の声が落ちた。
「起きている者は、おりますか」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
先ほどまで寝息を立てていた女中たちが、まるで糸で引かれた人形のように身体を起こす。眠たげに目をこする者はいない。誰もが、すぐに畳へ手をつき、頭を下げる。
大奥の女は、眠っている時でさえ作法を忘れない。
いや、違う。
忘れた者から消えていくのだ。
私は懐の奥に、あの文を押し込んだ。
――そなたの母は、桔梗の夜に殺された。
紙一枚のはずなのに、胸元が焼けるように熱い。
千鳥が隣で小さく息を吸った。
目だけで言っている。
顔に出すな。
分かっている。
けれど、分かっていても、心臓だけは言うことを聞かない。
襖が開いた。
松ヶ枝が立っていた。
背後には、二人の年嵩の女中が控えている。どちらも顔を伏せているが、手には灯りと小さな文箱を持っていた。
ただの見回りではない。
探し物だ。
「夜分に騒がせます」
松ヶ枝は静かに言った。
「御鈴廊下近くで、不審な文が見つかったとの報せがありました。火の元、戸締まり、ならびに各自の持ち物を改めます」
部屋の中に、緊張が走った。
女中たちは一斉に顔を伏せたまま動かない。
誰も抗議しない。
誰も理由を尋ねない。
大奥では、疑われた時点で半分は罪人なのだ。
千鳥の指が、布団の陰で私の手首に触れた。
冷たい指だった。
私はわずかに首を横へ動かした。
大丈夫。
そう伝えたつもりだった。
まったく大丈夫ではないが。
松ヶ枝は入口から順に、女中たちの荷を改めさせた。
文箱。
針箱。
畳んだ小袖。
懐紙入れ。
大奥の女たちは、何も持たないようでいて、実に多くの小さな物を持っている。紅の残った紙。折れた櫛。誰かからもらった香袋。短い手紙。なくしたら困る物。見つかったらもっと困る物。
私の番が近づいてくる。
千鳥の手が、私の手首を強く掴んだ。
痛いほどだった。
私は呼吸を整えた。
あの文は懐にある。
今、身体を改められれば終わりだ。
だが、ここで文を捨てることもできない。
畳の上へ落とせば音がする。布団の下へ入れれば、そこから見つかる。口に入れて飲み込むには、紙が大きすぎる。
松ヶ枝が私の前で足を止めた。
「篠乃井」
「はい」
「顔を上げなさい」
私は顔を上げた。
松ヶ枝の目が、まっすぐ私を見る。
あの目は嫌だ。
人を叱る目ではない。
人が隠しているものを、すでに知っている目だった。
「今宵、部屋を出ましたか」
「いいえ」
嘘をついた。
正確には、あの文が差し込まれてからは出ていない。
その前に記録部屋へ忍び込んだことは、今問われていない。
そう自分に言い聞かせる。
「誰かが、この部屋の襖に近づく気配は」
「分かりません」
「分からない?」
「眠っておりましたので」
松ヶ枝は、すぐには言葉を返さなかった。
沈黙が重く落ちる。
隣の千鳥が、先に頭を下げた。
「恐れながら、松ヶ枝様。私も眠っておりました。夜中に風の音で目を覚ましたような気はいたしますが、人の気配かどうかまでは」
「そなたには聞いておりません、千鳥」
「申し訳ございません」
千鳥が額を畳につける。
松ヶ枝は私の布団の周囲を見た。
「荷を」
背後の女中が私の荷に手を伸ばす。
文箱が開かれる。
針箱も。
畳んだ小袖も。
何も出ない。
当然だ。
問題の紙は、私の懐にある。
松ヶ枝の視線が、私の胸元で止まった。
心臓が跳ねる。
「篠乃井」
「はい」
「そなた、顔色が悪い」
「申し訳ございません」
「何を謝るのです」
「見苦しい顔をお見せしました」
松ヶ枝の眉がわずかに動いた。
「体調が悪いなら、明朝は御末の務めを外れなさい」
「いえ、お役目に支障はございません」
「支障の有無を決めるのは、そなたではありません」
松ヶ枝はそう言って、背後の女中へ目を向けた。
「この者の荷に異状なし」
私は息を止めた。
女中が手を引く。
松ヶ枝は、私の懐を改めなかった。
なぜ。
助かったと思うより先に、その疑問が湧いた。
松ヶ枝は知っているのか。
それとも、知らないふりをしたのか。
改めはそのまま続き、やがて部屋中の荷が確認された。何も見つからない。女中たちは安堵した顔を見せない。安堵さえ不用意に見せれば、何か隠していたと思われるからだ。
松ヶ枝は最後に部屋全体を見渡した。
「大奥では、夜の文ひとつが人の首を落とします。拾った者、隠した者、読んだ者。いずれも同じ罪に問われることがある。覚えておきなさい」
その言葉は、部屋全体へ向けられていた。
だが私には、私ひとりへ向けられたように聞こえた。
松ヶ枝たちが去った後、襖が閉まった。
しばらく、誰も動かなかった。
やがてお吉が小さく息を吐いた。
「まったく、夜中に迷惑なこと」
「不審な文ですって」
「嫌ねえ。誰かが誰かを陥れようとしているのかしら」
「大奥では珍しくもないわ」
女中たちが囁き合う。
その声の中に、私の名はまだ出ていない。
だが時間の問題だ。
千鳥は私の袖を掴み、布団の中へ引き戻した。
「見せて」
声は限界まで小さい。
「何を」
「とぼけない。さっきの文」
「ここでは」
「ここで見ないと余計に怖い」
私は少し迷い、布団の陰で懐から文を取り出した。
千鳥が行灯のわずかな残り火に照らして見る。
文字を読むと、彼女は唇を強く結んだ。
「……やっぱり捨てるべきだった」
「松ヶ枝様は、懐を改めませんでした」
「それが余計に怖いのよ」
「どういう意味ですか」
「あの方が気づかなかったと思う?」
千鳥の問いに、私は答えられなかった。
松ヶ枝は気づいていた。
少なくとも、私が何かを隠していることには。
「見逃したのでしょうか」
「そうかもしれないし、泳がせているのかもしれない」
「泳がせる」
「大奥では、すぐ捕まえない方が得なこともあるのよ。誰と会うか。誰に話すか。どこへ行くか。それを見た方が、文一枚よりずっと役に立つ」
千鳥は文を私に返した。
「紗代。これは罠よ」
「罠でも、手がかりです」
「罠に手がかりを混ぜるのが一番質悪いの」
「では、どうしますか」
「何もしない」
「それはできません」
「知ってた」
千鳥は疲れたように額を押さえた。
「せめて、すぐには動かないで。桔梗の夜なんて言葉を真正面から聞いて回ったら、半日もたない」
「では、遠回りします」
「遠回り?」
「桔梗の夜を知らない人ではなく、知っていそうで話したくない人を見ます」
「何それ」
「人は、知らないことを聞かれると不思議そうな顔をします。知っていて隠したいことを聞かれると、まず怒るか、笑うか、黙ります」
千鳥はまじまじと私を見た。
「誰に教わったの」
「母です」
「……そっか」
千鳥の声が少しだけ沈んだ。
それ以上は何も言わず、文を私の懐へ押し戻した。
「明日、私も一緒にいる」
「味方ではないのに?」
「見張りよ」
「頼もしい見張りです」
「褒めないで。引き返しづらくなる」
そう言って、千鳥は布団をかぶった。
だがその夜、私も千鳥も眠れなかった。
朝餉の支度が始まる頃には、部屋の外の空気がすでに噂で濁っていた。
不審な文。
夜中の改め。
松ヶ枝が動いた。
誰かが御鈴廊下で拾った。
誰かが隠した。
そして、いつものように、噂は私の方へ流れてくる。
「篠乃井さん、昨夜は顔色が悪かったそうね」
お吉が言った。
「ご心配をおかけしました」
「心配なんてしていないわ。ただ、血筋かしらと思って」
「血筋」
「母君も、夜の文がお好きだったとか」
周囲が息を潜めて笑う。
千鳥が割って入ろうとしたが、私は視線だけで止めた。
笑う。
今は笑う。
「お吉様」
「何?」
「夜の文がお好きだった、ということは、母は文のやり取りが上手だったのでしょうか」
「……知らないわよ」
「私は母の字が好きでした。静かで、癖がなくて、でも最後の払いだけ少し強いのです」
お吉は返答に困った顔をした。
私は続けた。
「ですから、母の文をご覧になった方がいれば、お話を聞きたいと思っておりました」
「何を言っているの」
「母を悪く言う方は多いのに、母の字を覚えている方は少ないのですね」
お吉の頬が引きつった。
「新入りのくせに、ずいぶん口が回ること」
「母譲りかもしれません」
「その母親が、どうなったか忘れたの?」
お吉の声が少し大きくなった。
その瞬間、場が静まった。
お吉自身も、自分が踏み込みすぎたと気づいたようだった。
私は頭を下げた。
「忘れたことは、一度もございません」
それだけ言って、私は膳を運んだ。
廊下へ出ると、千鳥が追ってきた。
「今のは危なかった」
「お吉様は、母のことを詳しく知っているわけではなさそうです」
「そんなの、今ので分かったの?」
「ええ。噂をなぞっているだけです」
「じゃあ、誰が元なの」
「それを探します」
「どうやって」
「桔梗の話をします」
「だから、それをやめろって言ってるの!」
千鳥が小声で怒鳴るという器用なことをした。
私は少しだけ笑ってしまった。
「笑い事じゃない」
「すみません。千鳥は表情がよく動きますね」
「今それ言う?」
「はい。大奥では貴重です」
千鳥は口をへの字にした。
「ほんと、調子狂う」
その日、私はあからさまに桔梗の夜を聞いて回ることはしなかった。
ただ、桔梗の柄のものを見た時に、少しだけ足を止めた。
襖絵に描かれた桔梗。
香炉に彫られた桔梗。
古い反物の端に刺繍された桔梗。
大奥には桔梗が多い。
多すぎるほどに。
なぜか。
昼過ぎ、御次の間の片付けをしていると、年老いた女中が桔梗の紋の入った古い香合を手に取った。名はお民。普段はあまり口をきかず、奥の片付けや古い道具の手入れをしている女だった。
私は何気ないふりで言った。
「美しい香合ですね」
お民は手を止めた。
「古いだけでございますよ」
「桔梗の紋は、大奥でよく使われるのですか」
お民の指が震えた。
本当に、ほんの少し。
だが私は見逃さなかった。
「昔は、よく」
「昔?」
お民はすぐに香合を箱へ戻した。
「余計なことを聞くものではありません」
「申し訳ございません」
「桔梗は、夜に咲く花ではありませんから」
それだけ言うと、お民は去っていった。
千鳥が隣で唇を噛んだ。
「今の」
「知っていますね」
「絶対、知ってる」
「夜に咲く花ではない、とはどういう意味でしょう」
「さあ……でも、たぶん昔の言い回し」
「聞いたことは?」
「ない」
千鳥は首を振った後、悔しそうに眉を寄せた。
「ああもう、気になるじゃない」
「千鳥も罠にかかっていますね」
「誰のせいよ」
「私でしょうか」
「でしょうね」
そこへ、廊下の奥から足音がした。
ゆっくりと、衣擦れが近づいてくる。
女中たちの空気が変わる。
藤尾の方だった。
今日は薄墨色の小袖に、白い桔梗の刺繍が入った打掛を羽織っている。髪にはやはり、母の銀簪。
私を見つけると、藤尾の方は足を止めた。
「篠乃井」
「はい」
「来なさい。髪を梳かせます」
千鳥が隣で固まった。
私は頭を下げた。
「承知いたしました」
藤尾の方の部屋は、昼でも薄暗かった。
障子越しの光は柔らかいが、香が濃すぎて息が詰まる。鏡台の前に座った藤尾の方は、背中をこちらへ向けた。
髪は長く、艶があった。
女の武器のような髪だった。
私は櫛を手に取り、静かに梳き始めた。
「手が硬いわ」
「申し訳ございません」
「怒っている女の手ね」
「怒っておりません」
「嘘。髪は正直よ。怒りを持つ女が梳くと、少しだけ根元に引っかかる」
藤尾の方は鏡越しに私を見た。
「あなた、昨日より怒っている」
「昨日より、知ったことが増えましたので」
「何を?」
「母が不義密通の疑いで処分されたことを」
藤尾の方の表情は変わらなかった。
だが、鏡の中で、瞬きが一度だけ遅れた。
「誰から聞いたの」
「紙からです」
「記録部屋に入ったのね」
私は答えなかった。
藤尾の方は笑った。
「松ヶ枝が聞いたら卒倒するわ」
「松ヶ枝様は、卒倒する方ではないと思います」
「そうね。あの女は、倒れる前に他人を倒す」
藤尾の方の声には、古い棘があった。
「藤尾様」
「何」
「桔梗の夜とは、何でございますか」
櫛が、髪の途中で止まった。
部屋の空気が、ひやりと変わる。
藤尾の方は、ゆっくり鏡の中の私を見た。
「誰が、その言葉を」
「母を殺した夜だと書かれた文が届きました」
言った。
隠すべきか迷ったが、藤尾の方には揺さぶりが必要だった。
藤尾の方の唇から、笑みが消えた。
そして、次の瞬間、扇が私の手元を打った。
乾いた音が響く。
痛みよりも、櫛が畳へ落ちた音の方が大きく感じた。
「軽々しく、その名を口にしないで」
藤尾の方の声は低かった。
怒りだ。
けれど、それだけではない。
傷口に触れられた者の声だった。
「申し訳ございません」
「あなたは本当に母親そっくりね。見てはならないものを見る。聞いてはならないことを聞く。そして、正しさだけで人の心を裂く」
「母は、何を見たのですか」
藤尾の方は答えない。
私は畳に落ちた櫛を拾い、もう一度髪を梳き始めた。
「その夜、将軍様は藤尾様のもとへ渡るはずだった」
藤尾の方の肩が、わずかに動いた。
「けれど、来られなかった」
「……千鳥が言ったの?」
「いいえ。大奥の空気が言いました」
「生意気」
「よく言われます」
「本当に腹が立つ」
藤尾の方はそう言ったが、今度は私を打たなかった。
しばらくして、ぽつりと呟く。
「あの夜、私は選ばれるはずだった」
声が、少しだけ遠くなった。
「御鈴が鳴った。皆が控えた。私の部屋には、新しい香を焚かせた。髪も、衣も、すべて整えた。あの方は来るはずだった。そう約束されていた」
私は黙って聞いた。
「でも、あの方は来なかった」
藤尾の方の指が、膝の上で強く握られた。
「別の部屋へ渡ったのですか」
「ええ」
「その方は」
「名を言えば、あなたはその女を追うでしょうね」
「追います」
「なら、言わない」
藤尾の方は笑った。
意地悪な笑みだったが、どこか苦しげでもあった。
「その夜、私は終わったの。大奥の女はね、捨てられた瞬間に死ぬわけではないのよ。次の朝も、綺麗に化粧をして、何事もなかったように笑う。でも周りの女たちは知っている。ああ、この女はもう選ばれないのだと」
「母は、その夜に何を」
「選んだのよ」
「何をですか」
藤尾の方は鏡越しに私を睨んだ。
「私ではないものを」
「藤尾様は、母に何を望んだのですか」
「味方」
その一言は、思ったより幼く聞こえた。
寵愛を失った女の言葉ではなく、誰かに置いていかれた娘のようだった。
「私は、あの女に味方をしてほしかった。たった一言でよかった。藤尾様は悪くない。藤尾様は捨てられたのではない。そう言ってほしかった」
「母は、言わなかったのですね」
「言わなかった」
「なぜ」
「正しいことしか言えない女だったから」
藤尾の方は、目を閉じた。
「正しい女なんて、大奥では一番残酷よ」
その言葉を聞いた時、私は初めて藤尾の方を少しだけ理解した。
許せるわけではない。
母の簪を奪い、母を侮辱し、私を追い詰めた女だ。
けれど、怒りの奥には傷がある。
それを知らずに憎むだけでは、真実には届かない。
「藤尾様」
「何」
「母を、殺しましたか」
部屋の外で、鳥が鳴いた。
不自然なほど、澄んだ声だった。
藤尾の方は、ゆっくり目を開けた。
「殺していないわ」
「信じてよろしいのですか」
「信じる必要はない。ただ、私はあの女を殺すほど強くなかった」
その声は、嘘には聞こえなかった。
「では、誰が」
「その問いを続ければ、あなたも死ぬ」
「もう何度も言われました」
「それでもやめない?」
「はい」
「馬鹿な娘」
「母譲りです」
藤尾の方は、ほんの少し笑った。
初めて、作り物ではない笑みだった。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
「出て行きなさい。これ以上、あなたと話すと昔を思い出す」
「最後にひとつだけ」
「欲張りね」
「母を最後に見た方をご存じですか」
藤尾の方は黙った。
それから、視線を逸らした。
「私は見ていない」
「では、誰が」
「……御台様に聞きなさい」
御台様。
昨日、夜の廊下で松ヶ枝と話していた女。
母を「あの女」と呼び、私の芽を摘めと言った女。
大奥の頂点に立つ、強欲の女。
私が礼をして部屋を出ようとした時、藤尾の方が小さく言った。
「篠乃井」
「はい」
「その文を持っているなら、燃やしなさい」
「できません」
「でしょうね」
藤尾の方は、銀の桔梗に触れた。
「あなたの母も、燃やせなかった。だから死んだ」
部屋を出ると、廊下の空気が妙に軽く感じた。
千鳥が少し離れたところで待っていた。
待っていないふりをして、柱の影で古い布を畳んでいる。誰が見ても待っている。
「終わった?」
「はい」
「生きてる?」
「はい」
「毎回確認するの面倒なんだけど」
「では、次から先に言います」
「そういう問題じゃない」
千鳥は私の顔を見て、眉をひそめた。
「何か聞いたのね」
「藤尾様は、母を殺していないと言いました」
「信じるの?」
「今は、半分だけ」
「半分」
「怒りは本物でした。けれど、殺した者の怯えとは違う気がしました」
「またそういう怖い見方をする」
「それと、母を最後に見たのは御台様かもしれません」
千鳥の顔が強張った。
「御台様……」
「千鳥?」
「駄目」
千鳥は即座に言った。
「藤尾様はまだいい。いや、よくないけど。怒れば分かるし、嫌えば刺してくる。でも御台様は違う。あの方は、笑って座っているだけで、人の居場所を奪えるの」
「強い方なのですね」
「強いなんてものじゃない。あの方に目をつけられたら、父親の役目も、家の扶持も、縁談も、全部触られる」
「私の家も、ですか」
「当然」
千鳥は唇を噛んだ。
「紗代。大奥の怖さは、ここで死ぬことじゃない。外まで届くことなの。家に帰っても終わらない。父も母も兄弟も巻き込まれる」
父の顔が浮かんだ。
出立の朝、私を止めた父。
怯えていた父。
それでも最後には、私を送り出した父。
私は拳を握った。
「ならば、なおさら知らなければなりません」
「何でそうなるのよ」
「知らない敵ほど、家を守れません」
「ほんと……ほんと、嫌な子」
千鳥は諦めたように息を吐いた。
「でも、御台様に近づく道なんてないわよ。下っ端の御末が簡単に御前へ出られるわけない」
「では、向こうから呼ばれるようにします」
「ねえ、今すごく嫌なこと言った自覚ある?」
「あります」
「あるんだ」
その時だった。
廊下の奥から、艶やかな声がした。
「面白いお話ね」
私と千鳥は同時に振り向いた。
そこに立っていたのは、若い女だった。
藤尾の方とは違う美しさだった。
藤尾の方が刃なら、この人は煙だ。
輪郭は柔らかく、微笑みは甘い。なのに、近づけばどこへ連れて行かれるか分からない危うさがある。
薄紅の小袖に、白い肌。
目元は涼しく、唇だけが妙に艶やかだった。
千鳥が慌てて頭を下げる。
「夕霧様」
夕霧の方。
その名は聞いたことがある。
近頃、将軍の寵愛を受けている若い側室。
藤尾の方が憎む、今の寵愛の象徴。
「顔を上げて」
夕霧の方は優しく言った。
優しすぎる声だった。
私は顔を上げた。
夕霧の方は私を見て、楽しそうに目を細める。
「あなたが篠乃井紗代ね」
「はい」
「藤尾様に嫌われそうな顔」
千鳥が隣で固まった。
私は頭を下げた。
「よく言われ始めております」
「ふふ。返しも嫌われそう」
夕霧の方は、私のすぐ前まで来た。
香がした。
花の香ではない。
温めた酒のような、甘くて人を緩ませる香。
「桔梗の夜を探しているの?」
私は息を止めた。
千鳥が小さく「夕霧様」と声を漏らす。
夕霧の方は、千鳥を見ずに笑った。
「隠さなくてもいいわ。大奥では、隠しているつもりのものほどよく見えるもの」
「夕霧様は、ご存じなのですか」
「少しだけ」
「教えていただけますか」
「ただで?」
夕霧の方は悪戯っぽく首を傾げた。
「対価は何をお望みでしょう」
「いい答え」
夕霧の方の指が、私の頬に触れそうな距離で止まった。
「今は何もいらないわ。だって、あなたはこれからもっと面白くなるもの」
「私は見世物ではございません」
「大奥にいる女は皆、誰かの見世物よ。泣く女、怒る女、笑う女、寵愛される女、捨てられる女。見られて、噂されて、値踏みされる。それが嫌なら、見返すしかない」
夕霧の方は、私の耳元へ顔を寄せた。
千鳥が止める間もなかった。
「覚えておきなさい」
囁きは、甘く、冷たかった。
「あなたのお母様を最後に見たのは、藤尾様ではないわ」
心臓が大きく打った。
「では、どなたが」
夕霧の方は唇だけで笑った。
「御台様よ」
その言葉は、藤尾の方のものと重なった。
御台様。
やはり、そこへ繋がる。
夕霧の方は身を離すと、何事もなかったように扇を開いた。
「でも気をつけて。あの方は欲しいものを奪う女ではないの。奪った後に、相手が差し出したことにする女よ」
「強欲、ということでしょうか」
夕霧の方の目が、ほんの一瞬だけ光った。
「言うわね」
「失礼いたしました」
「いいえ。気に入ったわ」
千鳥が隣で絶望したような顔をした。
気に入られることが、ここでは危険なのだ。
夕霧の方は去り際、振り返らずに言った。
「御台様の茶会が近いわ。あなた、きっと呼ばれる」
「なぜ、そう思われるのですか」
「だって、あの方は危ない玩具ほど手元に置きたがるもの」
夕霧の方の姿が廊下の向こうへ消えた後も、甘い香だけが残っていた。
千鳥はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「終わった」
「何がですか」
「あんたの平穏」
「最初からありません」
「そうだけど、もっとなくなった」
私は廊下の奥を見つめた。
藤尾の方。
夕霧の方。
松ヶ枝。
そして御台所。
母の死の周りに、女たちの影が増えていく。
誰も真実を語らない。
けれど、誰も完全には黙っていられない。
それぞれが、自分の罪と傷を隠しながら、少しずつ違う方向を指している。
桔梗の夜。
その夜、将軍は誰の部屋へ渡ったのか。
母は何を見たのか。
御台所は、なぜ最後に母と会ったのか。
私は懐の文に触れた。
そなたの母は、桔梗の夜に殺された。
今はまだ、誰がその文を置いたのか分からない。
味方か。
敵か。
罠か。
救いか。
けれどひとつだけ、はっきりした。
母を殺した闇は、藤尾の方ひとりの怒りではない。
もっと高い場所にある。
大奥の頂で、美しく微笑む女の手の中に。
その日の夕刻、御末の間に使いが来た。
御台所付きの女中だった。
女中たちは一斉に頭を下げる。
使いの女は、静かな声で告げた。
「篠乃井紗代。明朝、御台様の御前へ出るようにとの仰せです」
千鳥の顔から血の気が引いた。
私は頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします」
声は震えなかった。
だが、懐の奥で母の文が重く沈んだ。
御台所が、私を呼んだ。
それは、母の死へ近づいたということ。
同時に、母と同じ場所へ足を踏み入れるということだった。




