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大奥七罪絵巻 寵愛を奪われた奥女中は、強欲な御台所と嫉妬の側室たちを将軍の密書で裁き、憎悪の奥を生き抜く〜御鈴廊下に燃える女たちの闇地獄絵巻  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第4話 桔梗の夜

 襖の前に、松ヶ枝の声が落ちた。


「起きている者は、おりますか」


 その瞬間、部屋の空気が変わった。


 先ほどまで寝息を立てていた女中たちが、まるで糸で引かれた人形のように身体を起こす。眠たげに目をこする者はいない。誰もが、すぐに畳へ手をつき、頭を下げる。


 大奥の女は、眠っている時でさえ作法を忘れない。


 いや、違う。


 忘れた者から消えていくのだ。


 私は懐の奥に、あの文を押し込んだ。


 ――そなたの母は、桔梗の夜に殺された。


 紙一枚のはずなのに、胸元が焼けるように熱い。


 千鳥が隣で小さく息を吸った。


 目だけで言っている。


 顔に出すな。


 分かっている。


 けれど、分かっていても、心臓だけは言うことを聞かない。


 襖が開いた。


 松ヶ枝が立っていた。


 背後には、二人の年嵩の女中が控えている。どちらも顔を伏せているが、手には灯りと小さな文箱を持っていた。


 ただの見回りではない。


 探し物だ。


「夜分に騒がせます」


 松ヶ枝は静かに言った。


「御鈴廊下近くで、不審な文が見つかったとの報せがありました。火の元、戸締まり、ならびに各自の持ち物を改めます」


 部屋の中に、緊張が走った。


 女中たちは一斉に顔を伏せたまま動かない。


 誰も抗議しない。


 誰も理由を尋ねない。


 大奥では、疑われた時点で半分は罪人なのだ。


 千鳥の指が、布団の陰で私の手首に触れた。


 冷たい指だった。


 私はわずかに首を横へ動かした。


 大丈夫。


 そう伝えたつもりだった。


 まったく大丈夫ではないが。


 松ヶ枝は入口から順に、女中たちの荷を改めさせた。


 文箱。


 針箱。


 畳んだ小袖。


 懐紙入れ。


 大奥の女たちは、何も持たないようでいて、実に多くの小さな物を持っている。紅の残った紙。折れた櫛。誰かからもらった香袋。短い手紙。なくしたら困る物。見つかったらもっと困る物。


 私の番が近づいてくる。


 千鳥の手が、私の手首を強く掴んだ。


 痛いほどだった。


 私は呼吸を整えた。


 あの文は懐にある。


 今、身体を改められれば終わりだ。


 だが、ここで文を捨てることもできない。


 畳の上へ落とせば音がする。布団の下へ入れれば、そこから見つかる。口に入れて飲み込むには、紙が大きすぎる。


 松ヶ枝が私の前で足を止めた。


「篠乃井」


「はい」


「顔を上げなさい」


 私は顔を上げた。


 松ヶ枝の目が、まっすぐ私を見る。


 あの目は嫌だ。


 人を叱る目ではない。


 人が隠しているものを、すでに知っている目だった。


「今宵、部屋を出ましたか」


「いいえ」


 嘘をついた。


 正確には、あの文が差し込まれてからは出ていない。


 その前に記録部屋へ忍び込んだことは、今問われていない。


 そう自分に言い聞かせる。


「誰かが、この部屋の襖に近づく気配は」


「分かりません」


「分からない?」


「眠っておりましたので」


 松ヶ枝は、すぐには言葉を返さなかった。


 沈黙が重く落ちる。


 隣の千鳥が、先に頭を下げた。


「恐れながら、松ヶ枝様。私も眠っておりました。夜中に風の音で目を覚ましたような気はいたしますが、人の気配かどうかまでは」


「そなたには聞いておりません、千鳥」


「申し訳ございません」


 千鳥が額を畳につける。


 松ヶ枝は私の布団の周囲を見た。


「荷を」


 背後の女中が私の荷に手を伸ばす。


 文箱が開かれる。


 針箱も。


 畳んだ小袖も。


 何も出ない。


 当然だ。


 問題の紙は、私の懐にある。


 松ヶ枝の視線が、私の胸元で止まった。


 心臓が跳ねる。


「篠乃井」


「はい」


「そなた、顔色が悪い」


「申し訳ございません」


「何を謝るのです」


「見苦しい顔をお見せしました」


 松ヶ枝の眉がわずかに動いた。


「体調が悪いなら、明朝は御末の務めを外れなさい」


「いえ、お役目に支障はございません」


「支障の有無を決めるのは、そなたではありません」


 松ヶ枝はそう言って、背後の女中へ目を向けた。


「この者の荷に異状なし」


 私は息を止めた。


 女中が手を引く。


 松ヶ枝は、私の懐を改めなかった。


 なぜ。


 助かったと思うより先に、その疑問が湧いた。


 松ヶ枝は知っているのか。


 それとも、知らないふりをしたのか。


 改めはそのまま続き、やがて部屋中の荷が確認された。何も見つからない。女中たちは安堵した顔を見せない。安堵さえ不用意に見せれば、何か隠していたと思われるからだ。


 松ヶ枝は最後に部屋全体を見渡した。


「大奥では、夜の文ひとつが人の首を落とします。拾った者、隠した者、読んだ者。いずれも同じ罪に問われることがある。覚えておきなさい」


 その言葉は、部屋全体へ向けられていた。


 だが私には、私ひとりへ向けられたように聞こえた。


 松ヶ枝たちが去った後、襖が閉まった。


 しばらく、誰も動かなかった。


 やがてお吉が小さく息を吐いた。


「まったく、夜中に迷惑なこと」


「不審な文ですって」


「嫌ねえ。誰かが誰かを陥れようとしているのかしら」


「大奥では珍しくもないわ」


 女中たちが囁き合う。


 その声の中に、私の名はまだ出ていない。


 だが時間の問題だ。


 千鳥は私の袖を掴み、布団の中へ引き戻した。


「見せて」


 声は限界まで小さい。


「何を」


「とぼけない。さっきの文」


「ここでは」


「ここで見ないと余計に怖い」


 私は少し迷い、布団の陰で懐から文を取り出した。


 千鳥が行灯のわずかな残り火に照らして見る。


 文字を読むと、彼女は唇を強く結んだ。


「……やっぱり捨てるべきだった」


「松ヶ枝様は、懐を改めませんでした」


「それが余計に怖いのよ」


「どういう意味ですか」


「あの方が気づかなかったと思う?」


 千鳥の問いに、私は答えられなかった。


 松ヶ枝は気づいていた。


 少なくとも、私が何かを隠していることには。


「見逃したのでしょうか」


「そうかもしれないし、泳がせているのかもしれない」


「泳がせる」


「大奥では、すぐ捕まえない方が得なこともあるのよ。誰と会うか。誰に話すか。どこへ行くか。それを見た方が、文一枚よりずっと役に立つ」


 千鳥は文を私に返した。


「紗代。これは罠よ」


「罠でも、手がかりです」


「罠に手がかりを混ぜるのが一番質悪いの」


「では、どうしますか」


「何もしない」


「それはできません」


「知ってた」


 千鳥は疲れたように額を押さえた。


「せめて、すぐには動かないで。桔梗の夜なんて言葉を真正面から聞いて回ったら、半日もたない」


「では、遠回りします」


「遠回り?」


「桔梗の夜を知らない人ではなく、知っていそうで話したくない人を見ます」


「何それ」


「人は、知らないことを聞かれると不思議そうな顔をします。知っていて隠したいことを聞かれると、まず怒るか、笑うか、黙ります」


 千鳥はまじまじと私を見た。


「誰に教わったの」


「母です」


「……そっか」


 千鳥の声が少しだけ沈んだ。


 それ以上は何も言わず、文を私の懐へ押し戻した。


「明日、私も一緒にいる」


「味方ではないのに?」


「見張りよ」


「頼もしい見張りです」


「褒めないで。引き返しづらくなる」


 そう言って、千鳥は布団をかぶった。


 だがその夜、私も千鳥も眠れなかった。


 朝餉の支度が始まる頃には、部屋の外の空気がすでに噂で濁っていた。


 不審な文。


 夜中の改め。


 松ヶ枝が動いた。


 誰かが御鈴廊下で拾った。


 誰かが隠した。


 そして、いつものように、噂は私の方へ流れてくる。


「篠乃井さん、昨夜は顔色が悪かったそうね」


 お吉が言った。


「ご心配をおかけしました」


「心配なんてしていないわ。ただ、血筋かしらと思って」


「血筋」


「母君も、夜の文がお好きだったとか」


 周囲が息を潜めて笑う。


 千鳥が割って入ろうとしたが、私は視線だけで止めた。


 笑う。


 今は笑う。


「お吉様」


「何?」


「夜の文がお好きだった、ということは、母は文のやり取りが上手だったのでしょうか」


「……知らないわよ」


「私は母の字が好きでした。静かで、癖がなくて、でも最後の払いだけ少し強いのです」


 お吉は返答に困った顔をした。


 私は続けた。


「ですから、母の文をご覧になった方がいれば、お話を聞きたいと思っておりました」


「何を言っているの」


「母を悪く言う方は多いのに、母の字を覚えている方は少ないのですね」


 お吉の頬が引きつった。


「新入りのくせに、ずいぶん口が回ること」


「母譲りかもしれません」


「その母親が、どうなったか忘れたの?」


 お吉の声が少し大きくなった。


 その瞬間、場が静まった。


 お吉自身も、自分が踏み込みすぎたと気づいたようだった。


 私は頭を下げた。


「忘れたことは、一度もございません」


 それだけ言って、私は膳を運んだ。


 廊下へ出ると、千鳥が追ってきた。


「今のは危なかった」


「お吉様は、母のことを詳しく知っているわけではなさそうです」


「そんなの、今ので分かったの?」


「ええ。噂をなぞっているだけです」


「じゃあ、誰が元なの」


「それを探します」


「どうやって」


「桔梗の話をします」


「だから、それをやめろって言ってるの!」


 千鳥が小声で怒鳴るという器用なことをした。


 私は少しだけ笑ってしまった。


「笑い事じゃない」


「すみません。千鳥は表情がよく動きますね」


「今それ言う?」


「はい。大奥では貴重です」


 千鳥は口をへの字にした。


「ほんと、調子狂う」


 その日、私はあからさまに桔梗の夜を聞いて回ることはしなかった。


 ただ、桔梗の柄のものを見た時に、少しだけ足を止めた。


 襖絵に描かれた桔梗。


 香炉に彫られた桔梗。


 古い反物の端に刺繍された桔梗。


 大奥には桔梗が多い。


 多すぎるほどに。


 なぜか。


 昼過ぎ、御次の間の片付けをしていると、年老いた女中が桔梗の紋の入った古い香合を手に取った。名はお民。普段はあまり口をきかず、奥の片付けや古い道具の手入れをしている女だった。


 私は何気ないふりで言った。


「美しい香合ですね」


 お民は手を止めた。


「古いだけでございますよ」


「桔梗の紋は、大奥でよく使われるのですか」


 お民の指が震えた。


 本当に、ほんの少し。


 だが私は見逃さなかった。


「昔は、よく」


「昔?」


 お民はすぐに香合を箱へ戻した。


「余計なことを聞くものではありません」


「申し訳ございません」


「桔梗は、夜に咲く花ではありませんから」


 それだけ言うと、お民は去っていった。


 千鳥が隣で唇を噛んだ。


「今の」


「知っていますね」


「絶対、知ってる」


「夜に咲く花ではない、とはどういう意味でしょう」


「さあ……でも、たぶん昔の言い回し」


「聞いたことは?」


「ない」


 千鳥は首を振った後、悔しそうに眉を寄せた。


「ああもう、気になるじゃない」


「千鳥も罠にかかっていますね」


「誰のせいよ」


「私でしょうか」


「でしょうね」


 そこへ、廊下の奥から足音がした。


 ゆっくりと、衣擦れが近づいてくる。


 女中たちの空気が変わる。


 藤尾の方だった。


 今日は薄墨色の小袖に、白い桔梗の刺繍が入った打掛を羽織っている。髪にはやはり、母の銀簪。


 私を見つけると、藤尾の方は足を止めた。


「篠乃井」


「はい」


「来なさい。髪を梳かせます」


 千鳥が隣で固まった。


 私は頭を下げた。


「承知いたしました」


 藤尾の方の部屋は、昼でも薄暗かった。


 障子越しの光は柔らかいが、香が濃すぎて息が詰まる。鏡台の前に座った藤尾の方は、背中をこちらへ向けた。


 髪は長く、艶があった。


 女の武器のような髪だった。


 私は櫛を手に取り、静かに梳き始めた。


「手が硬いわ」


「申し訳ございません」


「怒っている女の手ね」


「怒っておりません」


「嘘。髪は正直よ。怒りを持つ女が梳くと、少しだけ根元に引っかかる」


 藤尾の方は鏡越しに私を見た。


「あなた、昨日より怒っている」


「昨日より、知ったことが増えましたので」


「何を?」


「母が不義密通の疑いで処分されたことを」


 藤尾の方の表情は変わらなかった。


 だが、鏡の中で、瞬きが一度だけ遅れた。


「誰から聞いたの」


「紙からです」


「記録部屋に入ったのね」


 私は答えなかった。


 藤尾の方は笑った。


「松ヶ枝が聞いたら卒倒するわ」


「松ヶ枝様は、卒倒する方ではないと思います」


「そうね。あの女は、倒れる前に他人を倒す」


 藤尾の方の声には、古い棘があった。


「藤尾様」


「何」


「桔梗の夜とは、何でございますか」


 櫛が、髪の途中で止まった。


 部屋の空気が、ひやりと変わる。


 藤尾の方は、ゆっくり鏡の中の私を見た。


「誰が、その言葉を」


「母を殺した夜だと書かれた文が届きました」


 言った。


 隠すべきか迷ったが、藤尾の方には揺さぶりが必要だった。


 藤尾の方の唇から、笑みが消えた。


 そして、次の瞬間、扇が私の手元を打った。


 乾いた音が響く。


 痛みよりも、櫛が畳へ落ちた音の方が大きく感じた。


「軽々しく、その名を口にしないで」


 藤尾の方の声は低かった。


 怒りだ。


 けれど、それだけではない。


 傷口に触れられた者の声だった。


「申し訳ございません」


「あなたは本当に母親そっくりね。見てはならないものを見る。聞いてはならないことを聞く。そして、正しさだけで人の心を裂く」


「母は、何を見たのですか」


 藤尾の方は答えない。


 私は畳に落ちた櫛を拾い、もう一度髪を梳き始めた。


「その夜、将軍様は藤尾様のもとへ渡るはずだった」


 藤尾の方の肩が、わずかに動いた。


「けれど、来られなかった」


「……千鳥が言ったの?」


「いいえ。大奥の空気が言いました」


「生意気」


「よく言われます」


「本当に腹が立つ」


 藤尾の方はそう言ったが、今度は私を打たなかった。


 しばらくして、ぽつりと呟く。


「あの夜、私は選ばれるはずだった」


 声が、少しだけ遠くなった。


「御鈴が鳴った。皆が控えた。私の部屋には、新しい香を焚かせた。髪も、衣も、すべて整えた。あの方は来るはずだった。そう約束されていた」


 私は黙って聞いた。


「でも、あの方は来なかった」


 藤尾の方の指が、膝の上で強く握られた。


「別の部屋へ渡ったのですか」


「ええ」


「その方は」


「名を言えば、あなたはその女を追うでしょうね」


「追います」


「なら、言わない」


 藤尾の方は笑った。


 意地悪な笑みだったが、どこか苦しげでもあった。


「その夜、私は終わったの。大奥の女はね、捨てられた瞬間に死ぬわけではないのよ。次の朝も、綺麗に化粧をして、何事もなかったように笑う。でも周りの女たちは知っている。ああ、この女はもう選ばれないのだと」


「母は、その夜に何を」


「選んだのよ」


「何をですか」


 藤尾の方は鏡越しに私を睨んだ。


「私ではないものを」


「藤尾様は、母に何を望んだのですか」


「味方」


 その一言は、思ったより幼く聞こえた。


 寵愛を失った女の言葉ではなく、誰かに置いていかれた娘のようだった。


「私は、あの女に味方をしてほしかった。たった一言でよかった。藤尾様は悪くない。藤尾様は捨てられたのではない。そう言ってほしかった」


「母は、言わなかったのですね」


「言わなかった」


「なぜ」


「正しいことしか言えない女だったから」


 藤尾の方は、目を閉じた。


「正しい女なんて、大奥では一番残酷よ」


 その言葉を聞いた時、私は初めて藤尾の方を少しだけ理解した。


 許せるわけではない。


 母の簪を奪い、母を侮辱し、私を追い詰めた女だ。


 けれど、怒りの奥には傷がある。


 それを知らずに憎むだけでは、真実には届かない。


「藤尾様」


「何」


「母を、殺しましたか」


 部屋の外で、鳥が鳴いた。


 不自然なほど、澄んだ声だった。


 藤尾の方は、ゆっくり目を開けた。


「殺していないわ」


「信じてよろしいのですか」


「信じる必要はない。ただ、私はあの女を殺すほど強くなかった」


 その声は、嘘には聞こえなかった。


「では、誰が」


「その問いを続ければ、あなたも死ぬ」


「もう何度も言われました」


「それでもやめない?」


「はい」


「馬鹿な娘」


「母譲りです」


 藤尾の方は、ほんの少し笑った。


 初めて、作り物ではない笑みだった。


 けれど、その笑みはすぐに消えた。


「出て行きなさい。これ以上、あなたと話すと昔を思い出す」


「最後にひとつだけ」


「欲張りね」


「母を最後に見た方をご存じですか」


 藤尾の方は黙った。


 それから、視線を逸らした。


「私は見ていない」


「では、誰が」


「……御台様に聞きなさい」


 御台様。


 昨日、夜の廊下で松ヶ枝と話していた女。


 母を「あの女」と呼び、私の芽を摘めと言った女。


 大奥の頂点に立つ、強欲の女。


 私が礼をして部屋を出ようとした時、藤尾の方が小さく言った。


「篠乃井」


「はい」


「その文を持っているなら、燃やしなさい」


「できません」


「でしょうね」


 藤尾の方は、銀の桔梗に触れた。


「あなたの母も、燃やせなかった。だから死んだ」


 部屋を出ると、廊下の空気が妙に軽く感じた。


 千鳥が少し離れたところで待っていた。


 待っていないふりをして、柱の影で古い布を畳んでいる。誰が見ても待っている。


「終わった?」


「はい」


「生きてる?」


「はい」


「毎回確認するの面倒なんだけど」


「では、次から先に言います」


「そういう問題じゃない」


 千鳥は私の顔を見て、眉をひそめた。


「何か聞いたのね」


「藤尾様は、母を殺していないと言いました」


「信じるの?」


「今は、半分だけ」


「半分」


「怒りは本物でした。けれど、殺した者の怯えとは違う気がしました」


「またそういう怖い見方をする」


「それと、母を最後に見たのは御台様かもしれません」


 千鳥の顔が強張った。


「御台様……」


「千鳥?」


「駄目」


 千鳥は即座に言った。


「藤尾様はまだいい。いや、よくないけど。怒れば分かるし、嫌えば刺してくる。でも御台様は違う。あの方は、笑って座っているだけで、人の居場所を奪えるの」


「強い方なのですね」


「強いなんてものじゃない。あの方に目をつけられたら、父親の役目も、家の扶持も、縁談も、全部触られる」


「私の家も、ですか」


「当然」


 千鳥は唇を噛んだ。


「紗代。大奥の怖さは、ここで死ぬことじゃない。外まで届くことなの。家に帰っても終わらない。父も母も兄弟も巻き込まれる」


 父の顔が浮かんだ。


 出立の朝、私を止めた父。


 怯えていた父。


 それでも最後には、私を送り出した父。


 私は拳を握った。


「ならば、なおさら知らなければなりません」


「何でそうなるのよ」


「知らない敵ほど、家を守れません」


「ほんと……ほんと、嫌な子」


 千鳥は諦めたように息を吐いた。


「でも、御台様に近づく道なんてないわよ。下っ端の御末が簡単に御前へ出られるわけない」


「では、向こうから呼ばれるようにします」


「ねえ、今すごく嫌なこと言った自覚ある?」


「あります」


「あるんだ」


 その時だった。


 廊下の奥から、艶やかな声がした。


「面白いお話ね」


 私と千鳥は同時に振り向いた。


 そこに立っていたのは、若い女だった。


 藤尾の方とは違う美しさだった。


 藤尾の方が刃なら、この人は煙だ。


 輪郭は柔らかく、微笑みは甘い。なのに、近づけばどこへ連れて行かれるか分からない危うさがある。


 薄紅の小袖に、白い肌。


 目元は涼しく、唇だけが妙に艶やかだった。


 千鳥が慌てて頭を下げる。


「夕霧様」


 夕霧の方。


 その名は聞いたことがある。


 近頃、将軍の寵愛を受けている若い側室。


 藤尾の方が憎む、今の寵愛の象徴。


「顔を上げて」


 夕霧の方は優しく言った。


 優しすぎる声だった。


 私は顔を上げた。


 夕霧の方は私を見て、楽しそうに目を細める。


「あなたが篠乃井紗代ね」


「はい」


「藤尾様に嫌われそうな顔」


 千鳥が隣で固まった。


 私は頭を下げた。


「よく言われ始めております」


「ふふ。返しも嫌われそう」


 夕霧の方は、私のすぐ前まで来た。


 香がした。


 花の香ではない。


 温めた酒のような、甘くて人を緩ませる香。


「桔梗の夜を探しているの?」


 私は息を止めた。


 千鳥が小さく「夕霧様」と声を漏らす。


 夕霧の方は、千鳥を見ずに笑った。


「隠さなくてもいいわ。大奥では、隠しているつもりのものほどよく見えるもの」


「夕霧様は、ご存じなのですか」


「少しだけ」


「教えていただけますか」


「ただで?」


 夕霧の方は悪戯っぽく首を傾げた。


「対価は何をお望みでしょう」


「いい答え」


 夕霧の方の指が、私の頬に触れそうな距離で止まった。


「今は何もいらないわ。だって、あなたはこれからもっと面白くなるもの」


「私は見世物ではございません」


「大奥にいる女は皆、誰かの見世物よ。泣く女、怒る女、笑う女、寵愛される女、捨てられる女。見られて、噂されて、値踏みされる。それが嫌なら、見返すしかない」


 夕霧の方は、私の耳元へ顔を寄せた。


 千鳥が止める間もなかった。


「覚えておきなさい」


 囁きは、甘く、冷たかった。


「あなたのお母様を最後に見たのは、藤尾様ではないわ」


 心臓が大きく打った。


「では、どなたが」


 夕霧の方は唇だけで笑った。


「御台様よ」


 その言葉は、藤尾の方のものと重なった。


 御台様。


 やはり、そこへ繋がる。


 夕霧の方は身を離すと、何事もなかったように扇を開いた。


「でも気をつけて。あの方は欲しいものを奪う女ではないの。奪った後に、相手が差し出したことにする女よ」


「強欲、ということでしょうか」


 夕霧の方の目が、ほんの一瞬だけ光った。


「言うわね」


「失礼いたしました」


「いいえ。気に入ったわ」


 千鳥が隣で絶望したような顔をした。


 気に入られることが、ここでは危険なのだ。


 夕霧の方は去り際、振り返らずに言った。


「御台様の茶会が近いわ。あなた、きっと呼ばれる」


「なぜ、そう思われるのですか」


「だって、あの方は危ない玩具ほど手元に置きたがるもの」


 夕霧の方の姿が廊下の向こうへ消えた後も、甘い香だけが残っていた。


 千鳥はしばらく黙っていた。


 そして、ぽつりと言った。


「終わった」


「何がですか」


「あんたの平穏」


「最初からありません」


「そうだけど、もっとなくなった」


 私は廊下の奥を見つめた。


 藤尾の方。


 夕霧の方。


 松ヶ枝。


 そして御台所。


 母の死の周りに、女たちの影が増えていく。


 誰も真実を語らない。


 けれど、誰も完全には黙っていられない。


 それぞれが、自分の罪と傷を隠しながら、少しずつ違う方向を指している。


 桔梗の夜。


 その夜、将軍は誰の部屋へ渡ったのか。


 母は何を見たのか。


 御台所は、なぜ最後に母と会ったのか。


 私は懐の文に触れた。


 そなたの母は、桔梗の夜に殺された。


 今はまだ、誰がその文を置いたのか分からない。


 味方か。


 敵か。


 罠か。


 救いか。


 けれどひとつだけ、はっきりした。


 母を殺した闇は、藤尾の方ひとりの怒りではない。


 もっと高い場所にある。


 大奥の頂で、美しく微笑む女の手の中に。


 その日の夕刻、御末の間に使いが来た。


 御台所付きの女中だった。


 女中たちは一斉に頭を下げる。


 使いの女は、静かな声で告げた。


「篠乃井紗代。明朝、御台様の御前へ出るようにとの仰せです」


 千鳥の顔から血の気が引いた。


 私は頭を下げた。


「謹んで、お受けいたします」


 声は震えなかった。


 だが、懐の奥で母の文が重く沈んだ。


 御台所が、私を呼んだ。


 それは、母の死へ近づいたということ。


 同時に、母と同じ場所へ足を踏み入れるということだった。

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