第3話 不義密通の汚名
夜明け前の廊下は、昼間よりもずっと長く見えた。
記録部屋を抜け出した私は、千鳥に手を引かれながら、ほとんど音を立てずに御末の部屋へ戻った。障子の向こうはまだ青黒く、庭の木々は影になって沈んでいる。どこか遠くで、火鉢の灰を整える小さな音がした。
大奥は眠らない。
眠っているふりをしているだけだ。
部屋に戻ると、女中たちは布団の中で静かに寝息を立てていた。誰の顔もこちらを向いていない。けれど、それが本当に眠っている証とは限らなかった。
千鳥は私を自分の布団のそばへ押し込むように座らせた。
「しばらく動かないで」
「はい」
「返事はいいから。息も小さくして」
「息も」
「揚げ足取らない」
千鳥は小声で叱ると、自分も布団に入った。
私も横になった。
だが、目を閉じても、眠れるはずがなかった。
まぶたの裏に、朱の文字が焼きついている。
不義密通の疑いにより、内々に処分。
あの文字は、母の死よりも残酷だった。
死は、終わる。
けれど汚名は、残る。
残された者の背に貼りつき、家の名を腐らせ、子の未来まで濁らせる。
私が大奥へ上がる時、父があれほど怯えた理由が、今なら少しだけ分かる。父は母が死んだことだけを恐れていたのではない。母の死にまとわりつく何かが、再び私へ触れることを恐れていたのだ。
母上。
あなたは、どんな思いで死んだのですか。
誰に罪を着せられたのですか。
誰が、あなたの名を汚したのですか。
答えは返らない。
代わりに、隣の布団から千鳥の声がした。
「起きてる?」
「寝ています」
「だから、寝てる人は返事しないってば」
「では、起きています」
「でしょうね」
千鳥は布団を少しだけめくり、こちらを見た。薄暗い中でも、その顔色が悪いのが分かった。
「ねえ、紗代」
「はい」
「さっき見たこと、誰にも言っちゃ駄目よ」
「なぜですか」
「なぜって……」
千鳥は言葉に詰まった。
いつもならすぐに嫌味や軽口が返ってくるのに、今夜は違う。
「母の汚名を晴らすには、誰かに知ってもらう必要があります」
「違う。順番が違うの」
「順番?」
「力のない女が真実を叫んでも、真実にはならないの。騒ぎを起こした女、場を乱した女、亡き母を盾にした哀れな娘。そう言われて終わり」
「では、どうすれば」
「まず、生きる」
千鳥の声は、思ったより真面目だった。
「生きて、見て、聞いて、誰が嘘をついているか覚える。証を集める。味方を作る。……まあ、大奥で味方なんて作ったら作ったで面倒だけど」
「千鳥は、味方ではないのですか」
千鳥は目を丸くした。
「は?」
「私は、千鳥を味方だと思い始めています」
「やめて」
「迷惑ですか」
「迷惑っていうか、重い」
「重い」
「大奥で味方って言葉は、呪いみたいなものなの。味方になったら、裏切る時に傷が深くなるでしょう」
千鳥はそう言って、布団を顎のあたりまで引き上げた。
冗談めかしているのに、目は笑っていない。
「千鳥は、誰かに裏切られたことがあるのですか」
「あるわよ。大奥にいる女で、裏切られたことのない人なんていない」
「誰に」
「その質問が出るあたり、本当に長生きしないわね」
「気をつけます」
「気をつける気がある人の返事じゃない」
そこで会話は途切れた。
千鳥はしばらく天井を見ていたが、やがて小さく言った。
「紗代のお母さんがどんな人だったか、私は知らない」
「はい」
「でも、あの記録が本当だとは思わない」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「なぜ、そう思うのですか」
「だって、あんたがあんな顔をしたから」
「顔?」
「怒ってるのに、泣きそうなのに、それでも一番先に『母は違う』って言った。ああいう言葉は、嘘から出ない気がしただけ」
「千鳥」
「勘違いしないでよ。私はまだ味方じゃないから」
「はい」
「でも、まあ……」
千鳥は横を向いた。
「明日の朝餉、半分くらいなら分けてあげる」
「ありがとうございます」
「だからって、泣かないでよ」
「泣いていません」
「泣きそうな顔してる」
「暗いので見間違いです」
「ほんと、かわいげない」
そう言いながら、千鳥の声は少し柔らかかった。
夜が明けると、昨日まで私に向けられていた嫌がらせは、別の形に変わっていた。
仕事道具が隠される。
膳がない。
香油をこぼされる。
そういう分かりやすいものではなかった。
もっと静かで、もっと悪質だった。
「聞いた?」
「何を?」
「篠乃井の新入りのこと」
御末の間の端で、女中たちが小声で話している。
小声のつもりだろう。
だが、聞かせるための小声だった。
「母親が昔、大奥で問題を起こしたんですって」
「まあ、何の?」
「男よ、男」
「嫌だ。大奥で?」
「だから内々に消されたとか」
「親子って似るのね」
笑い声。
誰も私を見ない。
見ないまま、私の耳に届くように言う。
千鳥が手元の布巾をぎゅっと握った。
私は首を横に振った。
相手をしてはいけない。
噂は、火より厄介だ。
水をかければ消える火と違い、噂は否定すればするほど喜んで燃える。
私は盆を持ち上げた。
ちょうど通りかかったお吉が、わざとらしく道を塞いだ。
「あら、篠乃井さん。急いでいるの?」
「はい。お茶を運ぶよう命じられております」
「まあ、偉いこと。母君と同じで、殿方に運ぶのがお上手なのかしら」
周囲がくすくす笑った。
千鳥が立ち上がりかける。
私は盆を持ったまま、お吉へ頭を下げた。
「申し訳ございません」
お吉はつまらなそうに眉を上げた。
「何が?」
「母のことをご存じだったとは知らず、こちらからご挨拶に伺いませんでした」
「……は?」
「ぜひ、詳しくお聞かせ願えますか。母がどなたと、いつ、どこで、何をしたのか。お吉様はご存じなのでしょう?」
お吉の顔から笑みが消えた。
私は静かに続けた。
「私は娘でありながら何も知らず、恥ずかしく思っております。母を悪く言う方は皆、さぞ詳しいことをご存じなのでしょうから」
「な、何よ。嫌味?」
「いいえ。教えていただきたいのです」
「知らないわよ、そんな昔のこと」
「では、どなたからお聞きに?」
「それは……皆が言っているから」
「皆とは、どなたでございましょう」
お吉は口を閉じた。
周囲の笑い声も止まっていた。
噂は、自分の口から出す分には楽しい。
けれど、出どころを尋ねられると、とたんに形を失う。
私はもう一度、深く頭を下げた。
「お役目に遅れますので、失礼いたします」
お吉の横を通り過ぎる。
背中に視線が突き刺さった。
勝ったわけではない。
ただ、あの場で泣かずに済んだだけだ。
廊下へ出た瞬間、千鳥が追いかけてきた。
「ちょっと」
「はい」
「あんた、やっぱり怖い」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてない。あんな返し、普通できないわよ」
「千鳥が言ったではありませんか。怒ったら負けだと」
「言ったけど、あれは黙って耐えろって意味で、相手の喉元に笑顔で針を刺せって意味じゃない」
「針なら、まだ抜けます」
「何その怖い返し」
千鳥は額を押さえた。
けれど、少しだけ笑っていた。
「でも、気をつけて。あれで終わるとは思えない」
「ええ」
「誰かが流してる。昨日の嫌がらせとは違う。今朝の噂は、狙いがはっきりしてる」
「母の汚名を、私に重ねること」
「そう」
千鳥は声を落とした。
「つまり、あんたを追い出したいだけじゃない。潰したいのよ。大奥から出た後も、二度と顔を上げられないように」
私は盆の上の茶碗を見た。
水面が小さく揺れている。
自分の手が震えているのだと、そこで気づいた。
「紗代」
「はい」
「怖いなら、怖いって言っていいのよ」
不意にそんなことを言われて、胸が詰まった。
母が死んでから、私はあまり怖いと言わなくなった。
父を不安にさせたくなかった。
自分が折れてしまうのが怖かった。
言葉にすれば、その恐怖が本物になってしまう気がした。
「……怖いです」
声は、思ったより小さかった。
「母の死を知ることより、母が汚されたまま誰にも覚えられていないことが、怖い」
千鳥は何も言わなかった。
ただ、盆の端にそっと手を添えた。
「こぼれるわよ」
「はい」
「半分、持つ」
「千鳥は味方ではないのでは」
「盆の味方よ。茶をこぼしたら私まで怒られるもの」
「そういうことにしておきます」
「そういうことにしておいて」
二人で盆を運んだ。
廊下の先で、藤尾の方付きの女中が待っていた。
昨日まで私を遠巻きに見ていた女だ。名前は志乃と言ったか、志乃ではない。母と同じ名など、大奥では聞き間違えたくなかった。確か、志津だった。
志津は私を見るなり、鼻で笑った。
「藤尾様がお呼びです」
「私を、でございますか」
「他に誰がいるの」
千鳥が私の袖を軽く引いた。
行くな、と言っている。
けれど、断れる呼び出しではなかった。
「承知いたしました」
藤尾の方の部屋は、昨日よりも香が強かった。
甘く、重く、息が詰まる。
部屋の中央に藤尾の方が座っていた。紅梅色の打掛ではなく、今日は濃い紫の小袖。髪には、あの銀の桔梗の簪が挿されている。
母の簪。
私の視線に気づいたのか、藤尾の方は少しだけ首を傾けた。
「よく似合うでしょう」
「はい」
「嘘が下手ね」
「恐れ入ります」
「恐れ入ってばかり。つまらない娘」
藤尾の方は扇を開いた。
「噂になっているわよ。篠乃井の娘は、母親と同じ血を引いていると」
「そのようでございます」
「怒らないの?」
「怒れば、噂が消えますか」
「消えないでしょうね」
「では、今は怒りません」
「今は、ね」
藤尾の方は目を細めた。
「あなたの母も、そう言ったわ。今は言えない。今は従えない。今は選べない。いつも、今は、今は、と」
「母は、何を選ばなかったのですか」
「私よ」
扇が閉じられた。
ぱちん、と乾いた音がした。
「あの女は私の側にいた。私の苦しみも、屈辱も、全部見ていた。それなのに、最後には私を選ばなかった」
「母に、何をさせようとしたのですか」
藤尾の方の唇が、わずかに歪んだ。
「ずいぶん踏み込むのね」
「母を侮辱されましたので」
「侮辱?」
「はい」
部屋の空気が重くなった。
控えている女中たちが、息を潜める。
藤尾の方は、ゆっくりと立ち上がった。
「篠乃井紗代」
「はい」
「大奥で不義密通の汚名が何を意味するか、分かっている?」
「母が死んだ後も殺され続けるという意味でございます」
一瞬、藤尾の方の表情が変わった。
怒りではない。
意外そうな顔だった。
「……あなた、泣かないのね」
「泣いて済むなら、泣きます」
「かわいくない」
「よく言われます」
「でしょうね」
藤尾の方は、ふっと笑った。
その笑みは、先ほどまでの冷たいものとは少し違って見えた。
「でも、そういうところが腹立たしいのよ。あなたの母にそっくりで」
「母は、藤尾様を裏切ったのではありません」
「なぜ言い切れるの」
「母は、死の床で父の名を呼んでいました」
「それが何?」
「不義密通の罪を着せられた女が、最後に夫の名を呼んだのです。母が裏切ったのは、誰かではなく、嘘を吐けという命令だったのではありませんか」
藤尾の方の手が動いた。
頬を打たれる、と思った。
けれど、その手は途中で止まった。
長い沈黙。
やがて藤尾の方は、低い声で言った。
「出て行きなさい」
「藤尾様」
「今すぐ」
私は頭を下げた。
部屋を出る直前、藤尾の方の声が追ってきた。
「桔梗の夜を探るのはやめなさい」
振り返ることはできなかった。
だが、その声だけで分かった。
藤尾の方は怒っていた。
けれど、それだけではない。
恐れていた。
部屋を出ると、千鳥が待っていた。
「生きてた」
「はい」
「毎回それ言わせないで」
「努力します」
「絶対しない」
千鳥は呆れた顔をしたが、すぐに私の顔を見て表情を変えた。
「何か聞いた?」
「藤尾様は、母が自分を選ばなかったと言いました」
「選ぶ?」
「ええ。そして、桔梗の夜を探るなとも」
千鳥は口を閉じた。
「やっぱり、その夜に何かあったのね」
「はい」
「でも、藤尾様だけじゃない気がする」
「私もそう思います」
藤尾の方は、母を憎んでいる。
けれど、あの怒りは、罪を隠す者の怒りというより、裏切られたと信じ込んだ者の怒りだった。
ならば、母に不義密通の汚名を着せたのは誰か。
藤尾の方か。
御台所か。
松ヶ枝か。
それとも、まだ顔も知らぬ誰かか。
答えのないまま、その日の務めは終わった。
夜。
私は疲れきった身体を布団に沈めた。
千鳥は隣で、今日こそ眠るからね、と念を押してから横になった。
「紗代」
「はい」
「今夜はどこにも行かないで」
「行きません」
「本当?」
「はい」
「信じていい?」
「千鳥は、私を味方ではないと言いました」
「そういう時だけ覚えてるの、ずるくない?」
「では、盆の味方として信じてください」
「何それ」
千鳥は小さく笑った。
そして、少しして寝息を立て始めた。
私は天井を見つめた。
行かない、と言った。
それは嘘ではない。
今夜は動くべきではない。
だが、眠れるわけでもなかった。
その時、襖の隙間から何かが差し込まれた。
白いもの。
懐紙だ。
私は息を止めた。
周囲の女中たちは眠っている。
千鳥も起きていない。
私はそっと起き上がり、懐紙を取った。
差出人はない。
中には、短い一文だけが書かれていた。
――そなたの母は、桔梗の夜に殺された。
指先が冷たくなった。
殺された。
初めて、はっきりとそう書かれていた。
病死ではない。
処分でもない。
汚名でもない。
殺された。
私は懐紙を握りしめた。
その時、隣で千鳥が目を開けた。
「……何」
私は答えられなかった。
千鳥は起き上がり、私の手元を見た。
懐紙の文字を読んだ瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
「誰が、これを」
「分かりません」
「捨てて」
「できません」
「駄目。これは罠よ。絶対に罠。こんなもの持っていたら」
千鳥の言葉が途中で止まった。
廊下の向こうで、足音がした。
一人ではない。
複数。
こちらへ近づいてくる。
千鳥が私を見た。
私は懐紙を懐に入れた。
「紗代」
「今、捨てれば音がします」
「見つかったら?」
「その時は、その時です」
「本当に馬鹿」
「はい」
襖の前で足音が止まった。
外から女の声がした。
「起きている者は、おりますか」
松ヶ枝の声だった。
部屋の中の女中たちが次々に身を起こす。
私は何事もなかったように、布団の上で背筋を伸ばした。
懐の中で、謎の文が熱を持っているように感じた。
そなたの母は、桔梗の夜に殺された。
大奥の夜は、まだ終わらない。
そして私は、もう戻れないところまで来ていた。




